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【音楽を短編小説化】椎名林檎「ここでキスして。」


———「もう一度キスして」

記録的豪雨の今日、雨は止って見えた。体温は滴る水滴とともにアスファルトに流れていくが、そんなことには気づくはずも無い。雲は泣いている。



彼のイヤホンからの大音量の音漏れを聞きながら、今日も学校へ向かう。電車に揺られ、肩に任せた私の頭は彼の硬い肩にあたり少し痛い。数年前まで中学生だったのに、目の前のかわいいカップルたちを笑顔で眺めながら、大人になった気分で彼の顔を見た。音楽に乗せられて、イヤホンが少しプラプラ揺れている。彼のイヤホンから流れ出るゴッド・セイブ・ザ・クイーンは曲が終わっては繰り返され、彼の耳を離れることはなかった。

電車を降りたらイヤホンを外す約束。約束した日からちゃんと守ってくれている。でも今日は違かった。学校へ着くまで彼はずっとイヤホンをつけたまま、私の言葉は聞こえていなかった。シド・ヴィシャスみたいな彼に似合うには私がナンシーになるしかない。だから私は泣かない。

私はクラスに着くと一人になる。扉を開けても、黒板を消す手は止まらず、周りの喋り声が止む事もなかった。でも別にいじめられてるわけではない。成績も別に自慢できるほど良くもなく、卒業してからのことを考えようとすると、勝手に違うことを考えてしまうくらいには悩んでいる。こんな私が彼と付き合えたのが甚だ疑問だ。でも彼は彼で、そこまで目立つ程の一軍のような存在ではない。そんな彼がパンクロックを聞いてると知った時には驚いた。

「おはよう!」

学校に入って初めて人に気づかれた。彼女の名前はかなこ、私の唯一と言っていいほどの学校の女の子の友達だ。最初はちゃんをつけて呼んでたけど、いつの間にか呼び捨てになっていた。かなことは一年生の校外研修で仲良くなった。グループを作っての1泊2日の泊まりがけの校外研修。正直私は億劫だった。友達もいないのに、グループとか。正直嫌だった。私が一人になるのが目に見えていた。結果いい思い出になったけれど。

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「それじゃあ、グループは先生方の方で決めたので、これからいう順に集まってください。仲良くしろよ、お前ら」

校外研修のグループ決めが始まってしまった。今の高校を辞めて通信の高校へ行きたいと思うほど、ほんとに嫌だった。同じグループの人と仲良くなれるはずなんてないし、一緒に泊まるなんて夜が絶対地獄だ。私は息を呑み、覚悟を決め、いつも学校の自販機で買っている大好きないちごミルクを飲んだ。

「よろしくね!」

「あ、よろしく」

私とは席が真反対のかなこちゃんが話しかけてくれた。この子が同じグループでよかった。と、少し安堵した。背も私と同じくらいだし、すごく話しやすい。やっと友達が作れたと、今後の高校生活も少し期待が持てそうだ。

「ねえねえ、今回の研修旅行雨の予報ってほんと?」

「え、そうなの、知らなかった。中止になるのかな。」

雨の予報と聞いて、私は少々落胆した。折角友達ができたのに、校外研修がなくなってもらっては困る。前日は、てるてる坊主を窓辺に吊るしておこう。そうして、夢では晴天を願おう。


研修旅行当日、寝坊してしまった。その上、外は雨だった。てるてる坊主は、朝起きると頭が地面に向いていた。幸い、中止になることはなかったが、湿気もすごいし、髪をセットしても意味がない、最悪だ。私は急いで学校に行く。玄関の扉を開けると、地面にぶつかる雨雫がほとばしり、私を更に急がせる。

学校に着くと、もうすでにみんなバスに乗っていた。私も急いで乗る。忘れ物はないかと鞄の中に手を入れてかき回す。忙しく始まった朝のせいで、髪の毛が濡れていることなど気にかけてもいなかった。かなこちゃんがバスの隣の席を開けておいてくれた。タオルをもらって髪の毛を拭いたあと、私たちは、楽しく談笑しあった。

「???くん、すごい濡れてる...」かなこが言う。

通路を挟んで隣に座っている???君は遅刻してきたわけじゃないけど私と同じように髪の毛が濡れていた。髪の毛どころか服まで濡れていた。いつも学校では静かでずっと音楽を聴いているか本を読んでいる姿しか見ていなかったから驚いた。

???くんのイヤホンからかすかに音漏れしているゴッド・セイブ・ザ・クイーンに気付き、私は彼への興味が湧いた。

惚れてしまったのか。

女の一目惚れとは、男の容姿に惚れただけの一目惚れとは違く、その後の自分の運命をも決する程のものである。

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???くんこそ、彼である。バスで見かけたあのあと、紆余曲折あって今の関係に至る。他人の恋文など聞くに堪えないだろう。此処では紆余曲折と書くだけに留めておこう。

授業が終わり昼休み、彼が私の元に来ることはなかった。私は彼の違和感に気づきながらも、自己暗示で脳内麻薬を分泌させ、いつも通りであるかのように笑顔でかなこと昼食をとった。窓の外は朝の晴天とは一変して、空の色も暗がり、豪雨と言っていいほど雨粒が大きく風も強かった。彼と出会った日と似た天気で私は今日の現実に苛まれる。昼食など喉も通らない。かなこのことなど気にかけず私は教室を出て一人になってしまった。一人の空間はノイズキャンセリングがかかっているようで落ち着く。彼がパンクロックが好きなのと対照的に私は静かな空間が好きだ。根本的な趣味趣向から真っ向に否定されているような現実は私をさらに辛くさせた。でも私は泣かない。シド・ヴィシャスみたいな彼に似合うには私がナンシーになるしかないから。

学校は終わり、彼に声を掛けられ一緒に帰ることになった。彼と一緒に居れることに多少の安心感は此処には存在するが、これからどうなるかなど、私にはわかる。だから何もないかのように知らんぷりする。

時間よ止まれ、と願うが、雨の音が止まない。雨のせいで余計に現実に引き戻される。傘に籠り響く雨の音が鬱陶しく感じ、私は傘を地面に向ける。髪の毛は濡れ、雨雫が滴る。私たちの足が止まると、雨はさらに激しく唸った。彼の視線を感じるが私は顔を上げない。

彼の口が開く、別れよう。



私は泣いている。体温は滴る雨雫とともにアスファルトに流れていく。冷え切って震える唇を開ける。雨で涙を紛らわして私は必死にいった。

「もう一度キスして」

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