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陽光の下で深淵を覗く -エリザベス・グラスナー[Head Games]

 某日、六本木ピラミデビル。

 エリザベス・グラスナー「Head Games」(7月2日~8月31日)@ペロタン東京

Elizabeth GLAESSNER
1984年、米国に生まれ、現在ニューヨーク・ブルックリン在住。

エリザベス・グラスナーが描く夢のようにおぼろげなペインティングは、美術史、神話、記憶、ポップカルチャーからインスピレーションを得て、既成の枠にとらわれない超現実的な世界を想起させるものです。その想像上の世界には、人も環境も一見絶え間なく変容している不定形のランドスケープと流動的な人物像が息づいています。グラスナーの作品制作は直感的に始まり、垂らした顔料の上に油絵具を重ね、絵具がナラティブを遮ることを許し、無意識下の影響が及ぶ余地をあえて残しています。グラスナーはエドヴァルド・ムンクをはじめとする象徴主義を代表する画家たちからインスピレーションを受け、独特な色遣いと技法を用いて心理的な世界を探求しています。グラスナーの絵画はそのフォルムと制作プロセスを通して、潜在的な感情にアクセスする入り口としての役割を果たし、社会の境界や道徳的規範の重圧から解放された私たちの原始的な無意識を呼び起こすのです。

同上

呼び起される無意識

 展示作品は、反射的に、その意味を問いたくなるものばかりだ。

 もちろんのことだけど、作家の持つ意図はきちんと存在する。

本展にて公開される新作絵画には、西洋文学やギリシャ神話に基づく物語など、グラスナーが長年関心を寄せてきた複数のテーマが継続されています。また、エジプト神話における天空の女神である“ヌト”は、アーチ型の体を通して、頻繁に暗示されています。他の神話上の生き物も再文脈化されており、例えば《Mimesis》では“ピュグマリオーン”と“ガラテア”を観察する小さな第三の人物が遠近法を歪め、ピュグマリオーンとガラテアが作為的であることを示唆しています。グラスナーのスタジオは物語、文章、詩の断片で埋め尽くされており、前述の作品制作中には壁にゲオルク・トラークルとシルヴィア・プラスによる、いずれも変容の特異性について綴られた詩が貼られていました。ただし、グラスナーの絵画はこれらの文章の単なる解釈や再話ではなく、明晰で巧みな形式主義を通して文章を再構想し、そのエッセンスを抽出したものです。

同上

 ただ、作品の前に立って対話(自分と?)していくうちに、意味の追究は、する必要がないのではないかという気になってくる。

 冒頭に転載した作家紹介にあるように、掘り起こされているのは、もしかして自分の無意識であって、鑑賞者は自分から引っぱりだされたそれを、画を通してただ眺めればよいのではないか? と。


意味の追究を手放したあとは

 そして意味の追究を手放せば、作品がまた違った趣をもって自分のなかに入り込んでくる。

 自分のなかから出てきたものが、明るい陽射しがさしこむギャラリーの白い空間のなかに、拡散していくようにも思える。


「よくわからないけど、よかった」という感想

 観る者には、そのギャラリーに入るか入らないか、という選択肢がある。(作品のテイストなどに)興味がない、恐怖や不快といった負の感情が湧いてきて入る気にならない、(いい意味で)気になったので入ってみる、とても好きなテイストなので入ってみる、といろいろだ。

 ただ、「なんだかわからないけど、入ってしまって、なんだかわからないけど、とてもよかった(と、思う)」という不思議な動機と感想がある展覧会があって、今回のエリザベス・グラスナー「Head Games」は、わたしにとっては、それだった。


陽光とアート

 そんな感想を持つことができたのは、ギャラリーによるところも大きいと思う。

 既述のようにギャラリーの一面はガラス張りで、自然光が余すところなく入る。そして例えばこの作品は、「外に」向けて展示されている。

 もし、いわゆる美術館のような、外光を遮断して作品をスポットライトで照らし、額装して展示したなら、受ける印象は大きく違っていたはずだ。例えば、まさにムンク的な世界に、印象が振れてしまうのではいかという気がする。

 だからわたし自身にとっては、陽射しの強い夏のある日に、自然光の下でこれらの作品と出逢えたことは幸せだ。



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