<作品03>貴石研磨職人 依田和夫の手
よだ・かずお 職業:貴石の研磨職人
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「この仕事をやる前は女の子のような手だったんだよ。」
と言って、こちらに手をかざしながら笑う。爪の間に仕事の汚れが染み込んではいるが、確かにその指は、男性にしては細く華奢(きゃしゃ)である。
「結婚した時、指輪が9号でね。奥さんは13号だったんだけんど、巫女さんが間違って、私の指輪を奥さんに渡しちゃったわけ。入らんつうわけだけど、緊張してるもんだから違うって言えんでね。」
甲州訛りを言葉の端に覗かせながらそう話す彼の職業は、貴石の研磨職人。伝統の「手擦り研磨」にこだわり、水晶などを削り磨いている。染み込んだ汚れは、石を磨く際に使う研磨剤の汚れだ。長年の手仕事のおかげで、右手中指の指先には「擦りダコ」ができ、手の甲側にやや反り返ってしまっている。
18歳でこの世界に入り、72歳になった今も現役で石を削り続ける。平成23年には黄綬褒章を受章し、歴史ある山梨の研磨界で「巨匠」と呼ばれるまでになった。職人一筋54年の人生を共に歩んできた、その証が刻まれた手である。
甲州はかつて水晶の一大産地だった
山梨県甲府市は、国内でも指折りの歴史と伝統を持つ宝石加工の街である。宝飾品にまつわるあらゆる業者が集積し地域の産業を支える一方、県立の宝石美術専門学校で技術の向上が図られるなど、県を挙げてその文化の継承に取り組んでいる。
山梨の宝石加工のルーツは江戸時代にまでさかのぼる。甲府北部、名勝として名高い昇仙峡付近で採掘される水晶を加工するため、京都から研磨の職人を招いたことがそのスタートだ。
不純物が少なく質の高い甲州産の水晶は、研磨職人たちの高い加工技術と相まって世界で珍重され、明治から大正期にはアメリカを中心に大量に輸出された。今、甲州水晶はほぼ採掘し尽くされてしまったが、研磨の伝統は甲府の地に残り、ブラジルやアメリカ、アフリカなどから輸入された水晶を使って、その技術が受け継がれている。
依田和夫は、その甲府にある研磨所「依田貴石」の長男として、1947年に生まれた。
これを生業にすることになるとは思わなかった
子供の頃の遊び場は、もっぱら近所の田んぼや小川だった。真面目に勉強をした記憶はほとんどないが、長い休みには父の仕事をよく手伝った。当時の甲府にはおよそ1,000軒もの宝飾関係の問屋や工房があり、そうした取引先に磨いた石を自転車で届けるのがミッションだった。
ただ、まさか自分がこれを生業にすることになろうとは思いもしなかったという。大学にでも行って、何か違う仕事に就くのだろう。そう漠然と考えていた。
にもかかわらず、高校卒業後すぐに父の工房に入ったのには、当時すでに斜陽しかけていた伝統の研磨技術を失わせるわけにはいけないという想いが、彼の中に少なからず芽生えたからなのかもしれない。
伝統の「手擦り研磨」を甲府で守る最後の一軒
板張りの床に座布団を敷いて胡坐(あぐら)をかき、研磨剤の入った木桶と対峙するのが、依田の研磨スタイルだ。木桶は2つ並んでおり、中にはそれぞれ粗さの異なる研磨剤を溶いた水が入っている。その研磨剤を石にまとわせ、モーターを動力にした鋳物製の回転盤で削ってゆく。さらに、削り終えたその石をケヤキ製の回転盤で磨けば、水晶の原石は見違えるように光り輝く一つの粒となる。
これは、江戸時代から続く「手擦り研磨」と呼ばれる伝統技法である。イスに座って磨いたほうが、きっと足にも腰にもいいだろう。しかし依田は、半世紀以上にわたりこの手擦り研磨を守り続けている。気づけば、甲府で手擦り研磨を行う工房はここだけになってしまった。
職人になって以来、一度も爪を切ったことがない
依田は我々の目の前で、126もの面を持つ宝飾品をあっという間に仕上げてみせた。手作業とは思えない精度の高さである。彼が頼るのはただ一つ、手の感覚だけ。0.1mm単位の角度の変化を指先で感じ、形にしていくのだ。
その感覚を保つため、18歳で職人になって以来50年以上、彼は自分で爪を切ったことがない。回転盤との摩擦で自然に削れていくせいでもあるが、切ってしまうことで手先の感覚が乱れてしまうことを避ける理由もある。自分なりのアングル、自分なりの石の掛かり具合を、指先は精密に覚えている。その感覚が備わるまでには最低でも10年はかかるだろうと彼は言う。
「黄綬褒章」「現代の名工」の技術を生んだ貪欲さ
巨匠と呼ばれるまでになったその技術を彼に身につけさせたもの。それは、圧倒的な仕事量だ。若い時は朝の5時から夜の11時まで働き、日曜に休むことも惜しんだ。あまりに働くものだから、父親に“もういい加減に仕事をやめろ”と怒られたこともある。
しかし、作れば作るほど金になる、そのことが彼を奮い立たせた。1時間に50個、60個と自分にノルマを課し、時間と競争する。やがて、右手で削る間に持て余している左手が惜しく感じるようになり、両手で削るようになった。細かい面は利き手である右手で、比較的大きい面は左手で削る。
この貪欲さが経験という裏打ちとなり、技術という宝を授けた。前述の黄綬褒章の他、2007年には厚生労働省が選定する「現代の名工」にも選ばれている。
「やっぱり、ものづくりの人はうんと働かなきゃダメなのよ。日曜だ祝日だなんて言っていたんじゃ腕は上がらないんです。」
彼は自らを「工員」と言う。収入の保証がない「作家」としてではなく、生きるために「工員」となり、技術を磨いたのだと。
ただ、その言葉の裏には謙遜もありそうだ。他の職人が作っていない新しい製品、他の職人には真似のできない新しいカットを生み出す貪欲さも、彼は同時に持ち合わせているからである。
「50年以上やっていても、毎日寝床に入ってから考えますよ。“どんなもんがいいかな、どうやったら新しいもんができるかな”ってね。絵とか書とか、研磨以外のものにヒントを得ることもあります。」
つまり、ものづくりというのは一生勉強なんです。そう言うと、彼は自らの背後に少し目をやった。視線の先にいるのは、依田の後継となるべく修行を積む二人の息子達である。
「手は私の誇りですから」
山梨の宝石加工業界でも後継者不足は深刻な問題だ。高齢化により店を閉めてしまう工房が後を絶たない。人件費の安い中国、インド、ベトナムなどに仕事を奪われている切実な現状もある。
依田貴石に限って言えば後継者の問題は当てはまらないことになるが、親としては複雑な心も覗かせる。
「正直に言うと、継いでほしいという気持ちはなかったんです。自分の代で終わろうと思ってた。私が若い頃はこの業界もまだ良かったけんど、時代が変わってきてるからね。だから、うれしいような悩ましいような、複雑な気持ち。でも、やるからには仲良くやってほしい。“長”が二人いると、何かと揉めることが多いから。」
先輩職人としてみれば、息子達の技術はまだまだ歯がゆいところばかりだ。言葉で技術を伝えることはあまりしない。自らの手仕事を見せ続けることが二人に技術を伝える一番の近道だと、彼はわかっている。
「私もあと何年できるかわからんけど、木桶の前でコロっと亡くなるのが理想ですね。“お父さんさっきから体がぜんぜん動かんけど、どうしたのかな”と思ったら亡くなっていたっていうのが。職人というもんは、みんなそうじゃないですかね。」
そんな依田の趣味は、30代から始めた茶道だ。凝り性だというその性格もあって、いろいろと道具を揃え、今も自ら茶を立てる。「研磨剤が染み込んだその手は茶道の世界には似つかわしくない手ではないですか」と少し無作法に聞いてみた。すると彼は、自らの手を見つめ、少し笑みをたたえながら、ながら、きっぱりとこう言った。
「ちっとも恥ずかしくはありませんよ。手は私の誇りですから。」
たかはしあきひろ…福島県郡山市生。ライター/グラフィックデザイナー。雑誌、新聞、WEBメディア等に寄稿。CDライナーノーツ執筆200以上。朝日新聞デジタル&M「私の一枚」担当。グラフィックデザイナーとしてはCDジャケット、ロゴ、企業パンフなどを手がける。マデニヤル(株)代表取締役