どもってもあまり気にならなくなるまでにしたこと。~私の回復定義~
昨日吃音のお友達とチャットしていて、
「当事者自身が回復(リカバリー)を定義する」という話が出ました。
これは当事者研究の世界でよく言われる言葉のようです。
言葉の障害を持った人が、流暢に話せるようになったらそれで回復なのかというと、もちろん人それぞれ。
私は今まで
人前でどもるくらいなら、自分の感情を抑えて我慢したり回避してすごしていました。
そんな私がどもってもあまり気にならなくなるまでにしたこと”を書いておきます。
1.私の吃音タイプ
私は幼少期以降はどもりそうになったら言い換えなどの工夫と回避を駆使して必死に隠して生きてきました。それで隠すことができるので、中学生以降は周囲に指摘されたり気づかれたりしたことはゼロに近い。
でも吃音を隠すことに必死な自分が好きじゃなかったし、本心や伝えたい表現を抑えて、素直な自分が消えていくことは辛い。
2.私の「回復定義」
私の回復定義はズバリ…
この解放っていうのは周囲に知ってもらうとか、カミングアウトのことではありません。
どもれない(=解放できない)ということ。
私の吃音を知ってくれていたり、吃音の話を聞いてくれている人や自助グループに参加している当事者の方々だけでなく、家族の前でさえも言い換えや工夫をしてどもらないように頑張っていました。
なぜどもらないように頑張っていたかというと、
私がどもった時の、聞いている人の顔が怖いから。
その人の顔貌が怖いのではありません。(・ω・)
上手く言えないですが、なんか怖いのです!!
でも吃音を必死に隠して生きることも私にとっては辛いのです。自分を隠して生きているようで…
ということで、吃音を、自分を解放する…
つまり「どもれるようになること」を私の回復と定義します。
3.この実践のきっかけ
自分の回復が「どもれるようになること」だなんて、はじめは全然思っていませんでした。
必死に相談先をリストアップしたり、病院に問い合わせたりして、とにかくスラスラ流暢に話せるようになれば悩みから解放されるだろうという思いで行動していました。
しかし2017年、関西のとある吃音自助グループに参加した時のこと。
その時の企画でパネリストとしてある吃音当事者がこう話していました。
のではないかと。
それを聞いて自分が恥ずかしくなりました。
それまでは他の吃音の人がどもっている姿を見るのが辛くて、テレビで取り上げられていたり、吃音の書籍があってもあまり見ないようにしていました。いや、たまに見ていたけど泣きながら見てました。
つまり受け入れがたかったようです。
自分の吃音はおろか、他人の吃音までも。
その頃いろんな自助グループに足を運び、いろんな当事者と出会っていたけど
その人たちのこと、どこかで差別的にみていたのかもしれない。
このことがきっかけで、まず自分の吃音を受け入れることを決めました。
そうして自分の吃音を解きほぐしていく中で、私の本心である「どもりたい」という思いに気が付いたのです。
4.実践したこと
まずはこれまで無意識にできるようになるまでやってきた言い換えなどの「工夫」を禁止とします。
これを環境を変えて段階的に実践し、相手の反応に慣れようとしたのです。
私向けに私が考えたオリジナル暴露療法?みたいな感じです。
第一段階(家族と自助グループ)は、割とすんなりいきました。もともと安心して話せる感が強い環境だったし。顔が怖いこともあんまり気にならなかった。
第二段階(ST学生の前)は、意外ときつかったです。ST学生でちょうど言葉について学んでいる人たちばかりだから、私がありのままどもった方が症状がわかりやすいんじゃないかとか思って学校に行くんですけど、なかなかどもれなかった。一番どもれない。なんでだろう(笑)
第三段階(気のおける友達の前)は、私の吃音に興味を持って話しかけてくれた高校の時の友達が、熱心に話をきいてくれて、普通にどもれました。その友達は動物っぽくてなんか安心して話せました(笑)
第四段階(初対面の人の前)は、時間制で回る婚活バーに侵入!ただ飯!(コラ)!ここでは人によってはどもれなかったです。若い人はややきつい。年齢高い人は割とどもれて人生相談みたいになって楽しそうに聞いてくれてた印象。
こうして環境を変えて段階的に実践した結果
などの心情変化がありました。
結局、私の回復定義であった「吃音を解放すること」は少しできたけど、どもることができるようになった分、どもれなかったときの自分への嫌悪感や罪悪感が増したことに悩むようになりました。
5.実践後…
実践からちょっと時間が経てば、隠しまくりの日々に戻りました。メンタルリハーサル法の系統的脱感作をやってみたりして。また模索模索。
その間、病院実習などにいって、Everydayどもりました。病院ではどもれてもあまり嬉しくなくて、ちゃんと話すことを強要される場が多いことにストレスを感じてしまう。
朝礼で話すことばも、これなら言えるだろう、言い易いだろうという言葉を選んで全然自分が話した感覚なかったなぁ。
また「どもれない自分」は「素直にどもりたい自分」に対し罪悪感を膨らませていく。
そんな時、ある吃音の会に参加。
参加者の一人が、「どもる私、どもれない私」という題で発表をされていた。
うわ~!今の自分にとって興味深すぎる~!と思ってその人のお話を聞きながら、自分のことに置き換えたりもして整理。
みんなで話し合う中で会の主催の方がぽろっと、
と言っていて、
…
ジャーーーーーンっっ!!!!
軽快なピアノの和音とともに
その瞬間私の約20年の吃音の悩みがすっと軽くなったような気がした(笑)
楽譜に終止符をうった感じで。
今ではどもっても前よりはあまり気になりません。どもったりどもらなかったりしながら生きてます。
「どもってもあまり気にならない。」
これが私の回復定義だったんですね。
人生は生きているならまだ3000週間以上あるようです。
また自分らしい新曲を書いていきましょう!
よくわからない感覚でごめんなさい(笑)
読んでくれてありがとうおやすみなさい(*´ω`)
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