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2021/7/21 「フラット」

この雑誌はカタカナがよく出てくるなと毎回思う。暗闇に光を落とせばすぐ消えて。また落としたと思ったら、またすぐ、暗闇に戻っていく。そう、いうなればホタル。カタカナがホタルのように一つ一つの文章の中に潜んでいて、私は毎回、アッ!アッ!と光の誘いにまんまと乗っかってしまうのだ。

わざとだと思う。多分、距離をとるために。文字が文字としてそこにある。

文章を書いていると、ここぞ!という時に妙な力が入る。伝えたい私からのメッセージに、良い言葉とか美しい言葉を多めに、そして大胆に。「見せる」言葉を当てはめて書く癖がある。

確かに重要な部分なのだけれど。当てはめることをした時には、そこにはもう、いのちはいない。ポッカリと穴が開いてしまったところに、ニセモノを付け替えるのだから当然。これではせっかくの炎を自分の手で殺してしまっている。想いが乗るだけ損なのだ。

それが一切、見受けられない。人に近づこうとも、そのお近づきを感じられない。近づくつもりありますか?と思わず問いたくなるが、前々から「ないだろう」と踏んでいるので、踏みとどまる。

それに、私はそこが好きなのだ。一定の距離を置きながら見つめているところが、完璧で優雅で、何よりうつくしい。ほおっと見惚れてしまうわけである。

それでも、ちゃんと薄づきの思いがある。薄づきなだけ。間違えてはいけない。しかも文章においてのみ。自分に日を当てるところだけ、ひかえめだ。それでもその下の根っこは、紙面にずいぶん張り巡らされているけれど。見学すればすぐにわかるだろう。

相手と自分との間に一定の距離をあけるから、相手のぜんぶが見えてくる。表情、動き、しぐさ。すべてへの心配りが、いとおしい。

私もなぜかそれができた。かぎりなくフラットに、皆同じく読めたのだ。鼻先の距離はあるけれど、腕を広げて受けとめた。ヘンなたとえ、でも、そんな感触だ。

こんなに一冊が、一冊にまとまっているのを初めて見た。(この雑誌において。)ほんとうにこの漢字通り。担当する人がそれぞれのページで異なるのに、一本の糸で繋がれて、誰がはみ出すこともなく、本当にフラットに並んでいる。一本ではなくなり、上下とともに、合わせて三本の糸が私には見える。

インタヴュー雑誌において、読者と書き手の関係はどんな感じだろう?

あまり考えたことがなかった。媒介者、というのを考えたいわけではない。書き手と読者だけ、の関係性である。取材相手をいったん闇に沈ませてみた時の見え方だ。

それってただの他人じゃないか?

今、とても不思議な気分だ。どこかを彷徨い歩いている気分。なんだろうこれは。ぺしゃんこだ。書き手はひらべったく紙面にいる。本当に書き手が文章となって存在している。吸い込まれて、本の中にいるのだ。


またね👋










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