見出し画像

大人は劣等感を補うために学び続ける

「子どもの頃は勉強嫌いだったのに、大人になってから勉強したり本読んだりするのが好きになった」という話は身近な人に限らず、著名人の話でも聞いたことがある。私自身、子どもの頃から苦手科目はあったし決して賢くはなかったものの、勉強自体は嫌いじゃなかった。そして大人になった今も、継続できているものとそうでないものはあるが、何かと学び続けている。でもやっぱり、大人になってからの方が何かと自主的に学んでいる気がする。

よくよく考えてみると、それは劣等感のようなものからきている気がする。

子どもの頃は、学校で強制的にあらゆる教科をまんべんなく学ばされる。放課後の習い事に関しても、自分がやりたいと言って始めたこともあるかもしれないが、親の許可がないとそれも習うことができない。自分の力だけで学びたいことを選び、自分の責任でそれらを習得したり学んだりすることは叶わなかった。だから親に強制的にさせられていた習い事がある方も少なくないだろう。私は小学生の頃、習字、そろばん、ピアノ、水泳、英会話と習わせてもらっていたけれど、楽しかったなと思うのは習字と英会話だけだ。そろばんは嫌いではなかったけど間違えるたびにイライラするのが嫌だったし、水泳も泳ぐこと自体は嫌いじゃなかったけれど、ムダ毛が気になるお年頃だったので水着になるのが心底嫌だった。ピアノは先生が大嫌いだった。

習い事はすべて、両親(主に母)が習わせるものを決めていた。母の話を聞いていると、子どもの頃に自分が習っていて役に立ったもの、習いたかったけれど習えなかったもの、そして学校の授業で困らないようにという基準で選ばれていたように思う。
子どもの頃の習い事や学校の授業は決して自分が学びたいものを選択できるわけではないが、自分の好き嫌いや、得意不得意、もっと深く学びたいことの選択肢を広げるという意味合いでは必要な時間だったのかな、と今になっては思う。

大人になると、何かを学校のように学ぶ機会というのは自主的に動かないと皆無になる。別に学ばなくても、生きてはいける。でも大人たちは、少なくとも私の周りには、何かを学んでいる人が多い。それはやはり、劣等感からきているのではないかと思うのだ。

私は昨年の夏から、初めて役職がついた。学生時代に学級委員長的なこともやったことがなく、部活でもキャプテンや部長の経験があったわけでもなく、なんならやりたいなんて思ったことがなかった私が、ひとつのチームを統率することになってしまった。なんて無茶ぶりなんだと当時も思ったし、今も思っているが、辞令を断ることもできない。上司と話を重ね、納得した上で私は辞令を受けた。

納得してはいたのだが、いかんせん「人の上に立って引っ張っていく」ということを、何事においても経験したことがない。その上、私の性格は非常に短気で、おかしいと思ったことに対しては相手が誰かをあまり考えずに意見をしてしまうところがあった。そして、その時に発する言葉は良くも悪くもストレートだ。そのため、社内でもそれっきり喋らなくなってしまった人もいる。毎回こういうことが起きると、「間違ったことは言っていないし、やっていない!」と思っているものの、「なんで私はもう少しうまく人と付き合えないのだろう」と自己嫌悪にも陥る。
そんな人間に務まるのか、と自分で撒いた種ながら心配になった。「なんでこんな人間に役職を与える辞令なんて出すんだ……」と辞令を受けておきながら会社に対して疑問を抱いたし、そのあとに「なんで私もその辞令受けてしまったんだ……」と自分自身にも疑問を抱いた。全然納得できていない気もするが。

思考が負のループをぐるぐる回り始めて数日経った。数日経つと、良くも悪くも思考が少し麻痺してくる。麻痺してくると、少しずつ「でもどうにかしなければ!」と、ポジティブとも言い切れないが、使命感のようなものが湧いてくる。自分にチームを統率する要素が足りていないと思っているならば、それに相当する人物になれるように、それに必要な能力を身につけるために、自分をどうにかしなければならない。そう思い、私はリーダー論について書かれている本をひたすら読んだし、今も読み続けている。役職がついて半年が経過してもなお読み続けているのは、やはり私にはまだその資質が足りないと思っているからだ。

社会人になると強制的に学ぶ機会はほとんどなくなるが、自分に足りないものを突き付けられる場面は、それまでに比べると格段に増えると思う。でもそれは学校では教えてくれなかったことも結構ある。私の「チームを統率する」ということに関しても、リーダー論やチームマネジメント論を授業で教えてくれることはなかったかもしれないが、私のように学級委員や部活のキャプテンや部長のような、そういう立場になったことのない人にとっては未知の世界である。「私でいいのか……?」という不安は常に付きまとっているし、そう感じる人は多いのではないかと思う。

自分に足りないものを補うため、「今の自分じゃダメだ!」というネガティブな感情、言い換えれば「もっとこうなりたい!」というポジティブにも捉えられる思い。やはり、ある種の劣等感のようなものが、どこか大人の学びにはあるのだと思う。実際、私がそうである。

今日もこの文章を書き終えたあと、リーダー論について説かれている本を読む。あと最近は、IllustratorやPhotoshopも学びたいなと思っている。そう思ったきっかけは「デザインまでが考えられた見やすい資料を作りたい」とか「売場のイメージを手書きのラフだけじゃなくてもっとちゃんと作りたい」とか、やはりそういった自分の不足している能力を補うためのものだった。

あとは外国の取引先と話せるように英語も強化したいし、中国語と韓国語も学びたいし、刺繍もやってみたいし……。学びたいことが多すぎて時間が足りない。あとお金も足りない。

自分に足りない何かがある限り、私はひたすらに学び続けていく。
それはきっと、私が死ぬまで終わることはないのだ。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?