肯定材料


(続)運命 だなんて、言わない




ー 希死念慮




母親の体調も落ち着いてきた春、私は今働いている職場に入社した。
厄介者のターゲットになって何度も何度も辞めようと思った。

でも辞めなかったのは、仲良くしてくれる友達とも出会えたから。
仕事自体は嫌いじゃなかったから。
せっかくやりたいと思って入った職場、簡単に辞めたくなかったから。
やるって決めた事、すぐに投げ出したくなかったから。

シフトずらしてもらいながら、たくさん働いた。
たくさん遊んで、たくさんライブに行って、家に帰らない事もよくあった。
母親には「生きてんだか死んでんだかわかんねえ。」って言われてた。
掛け持ちをしていたから、朝5時半から夜23時まで働く生活。とにかく家にいたくなかった。家族と顔を合わせたくなかった。

何もしていない時間はメンタルが押し潰されるから、それに蓋をするためにずっと働いた。

職場でも、音楽関係の友達も増えて楽しかった。


今までの青春全部取り返すつもりで、生きた。


まあそれでも黒田さんも茜さんも消えなかったし、摂食障害も自傷も変わらずだった。
過去も今も傷も他人に悟られないように、そんな事言っても信じてもらえないくらいにヘラヘラ生きてやろう、それがかっこいいって思って20代前半生きた。


えらい、私、生きててえらい。


職場の厄介者は他にもターゲットがいて、その人が辞めたのをきっかけに私への攻撃が加速した。
私、耐えられなくなって、バックルームで大号泣して、毎日毎日吐きそうになりながら出勤してはトイレで泣いた。
逃げればよかったんだけど、新しく職を探す気力なんてすでに持ち合わせていなかった。

2年間耐えて、ついにそいつらが辞めた。

あ、私辞めなくて良かった。心から思った。

これからはもう少し気楽に働けるかな、そう思っていた矢先の緊急事態宣言による休業。
どこにも出掛けられない。家にいるしかない。大好きなライブは全部中止。いつ元の生活に戻るか誰もわからない現状。大嫌いな家に2ヶ月こもらなければいけない生活。

忙しく働くことで蓋をしていたメンタルが溢れ出して、嫌いな家に閉じ込められて、私史上最大にぶっ壊れた。

通っていた精神科で本音がポロッと出て止まらなくなった。
2、3ヶ月に1回だった診察が週1になった。


「死にたい。」


口を開けばこれしか出てこない。

一睡もできずに朝になる毎日。
気付いたら体を切って焼いて食べ物を買い込んでは詰め込んだ。

何年も前からこんな状態な事、黒田さんと茜さんの事、家庭環境、仕事の事、先生に全部、話した。


「今までよくひとりで頑張ってきたね。あなたはえらいよ。すごいよ。根性あるよ。辛かったね。」


泣きじゃくって、文章になっているかもわからないような言葉で話したけど先生は全部聞いてくれた。


「あなたはどうしたい?」


って聞かれたけど、答えられなかった。
傷付ければ頑張れるからそれを無くすのは怖い、とだけ伝えられた。

とりあえず頓服で、薬処方してもらったけど。
怖くてほとんど飲めなかった。


正常な状態で生きる事が不安で堪らなかった。

診察室で死にたい切りたいって毎回のように泣き喚いた。
このまま帰せない。って処置室で休ませてもらってから帰ってた。

できるだけ薬を使わない治療をしてくれていたけど、6月頃かな、薬も使おうってさすがに言われた。

店の営業が再開して、薬をたくさん手に入れた私は一気に飲んでフワフワになってそこに酒を入れてハイになって出勤するようになった。
ダメな事くらいわかってたよ。でももうどうしようもなかったの。
仕事中に解離しなかったのが不思議なくらい。

朝起きて、死にたいって思って、フワフワして、電車に乗って、解離して何で電車乗ってるんだっけどこに行くんだっけってなって、茜さんが「今から仕事だよ!◯◯駅で降りるんだよ!」って私を起こしてくれて、なんとか出勤して、家に帰る電車が一番憂鬱で、家に帰ったら部屋に引きこもってボロクソメンタルとの戦いが始まって、黒田さんに責め立てられてわーーーっとなって切ったり飛び降りようとしたり首を締めてみたりして終わりにしようと試みたところで茜さんがなだめてくれて、気が付いたら朝でまたフワフワして出勤。

そんな毎日でした。

苦しかったな。




ー ひとつの体でひとりで生きること




9月、小学生の時の事故があった月になると、私はドン底に落ちる。毎年。

夏から秋にむかう空気、金木犀の匂い。
避けられないトリガーがフラッシュバックを引き起こす。

メンタルが崩れ始めると、「ああ、今年も秋が来た。」って実感する。たぶんきっと、これからも。

もうすぐ24歳になるってのに今日も生きるのが怖い。
秋を乗り越えるのが怖い。漠然とした恐怖は常に抱えているけど、秋は特別怖い。


希死念慮を彷彿とさせるように漂う哀愁と、好きじゃないけど嫌いになれない衝動が共依存する季節。
それゆえ憎悪と羨望も増して嫉妬深くなる。
私の生きている世界は心地良いくらいに気持ちが悪い。
時間が解決してくれる、なんて嘘。何年経っても変わらない。
私が変えなければ。私は一生、私の世界で生きていかなければ。


ある日、診察で「全員消したい。」って蚊の鳴くような声で先生に言っちゃった。
それが本心なのか、解離した誰か、なのかはわからない。


黒田さんと茜さんが出てこないようにする治療が始まった。


私はひとりで生きていく。
そんな自信無かったんだけど。
きっと何かを変えなければ、って気持ちから出た言葉なんだろうなって今になって思う。


数ヶ月経って、毎日のようにいた2人がほとんど出てこなくなった。
責め立ててくる人がいなくなって、私を守ってくれる人もいなくなった。


それでも変わらなかった事は自傷癖。
いくら切っても焼いても怒られないのに満たされない。
過食しても虚無感と絶望感しか残らない。

お願い戻ってきて、消したいなんて言ってごめんね。
もう絶対に言わないから死ぬまで私のそばにいて。

毎日そう願って体を切った。

私は一生、私と別れられない。

ごめんね、胸張って生きてあげられなくて。
私で良かったって思えなくてごめんね。
ごめんね、私は私の事好きになれないし大切にも出来ない。

年が明けて1月、
精神状態は限界を迎えて血塗ちまみれの体で号泣しながら病院に電話してた。
ほとんど覚えていない。
とにかく、助けてくださいって言ってたらしい。

診察早めてもらって行ったら、入院の話も出た。
でも私は絶対に首を縦には振らなかった。

家族に全部隠していたから。
絶対に言わないって決めていたから。
入院ってなったら保証人が必要になってしまうから。

表向きの理由は
「心配をかけたくないから」

本当の理由は
「傷付きたくないから」

私を知られたら何を言われるか、何をされるか、わからなかったから。
精神状態も自傷癖も希死念慮も仕事も趣味も私生活も、全部知られたくなかった。
やる事なす事悉く否定されてきたから、これ以上自ら傷付きに行く必要は無い。

家族だからって、血が繋がっているからって、
全てを知らす必要なんて全てを許す必要なんて無い。
生理的に受け付けられないならそれでいい。
その気持ちはどんな状態でも忘れなかった。

先生もそこは汲み取ってくれて、無理に入院はしなくていいって言ってくれた。
薬と通院で生きながらえた。

副作用がしんどいしんどい。
ほとんど働けなくて仕事はセーブさせてもらった。


やっぱり私には黒田さんと茜さんが必要だった。
希死念慮は私の肯定材料。私が生きている事の証。
死にたいと生きたいの間で生きる私にとって、“死にたい”をなくす事は恐怖でしかなかった。

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