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気付いたら、うつ。


いまから約1年前。


大学3年生の6月、何かがおかしいと気づいた。

わたしは元々HSP気質で自己肯定感が低く、些細なことを気にしてしまったり、ストレスを溜め込みやすくてひとりで泣くことが多かった。
だから寝る前に泣く日が毎日続いても特に気にも留めなかった。
泣くほどだからつらいことはあったけれど…。

そんな毎日が続く中で、「最近寝ても寝ても疲れが取れないな…」と感じた。



その当時は、3月から始めた新しいバイトに週4で奮闘しつつ、就活もはじめなきゃというプレッシャーと焦りを抱え、さらには大学のゼミでゼミ長を務めてそこに対する責任感やプレッシャーも抱えていた。


いま思えば、心にも時間にも余裕がなかったんだと思う。


バイトを週4でしていて、気づけばバイト以外の日は1日中寝て過ごすことが多くなっていた。
バイトの日も、家を出るぎりぎりまで寝ないと疲れが溜まっている感覚だった。



でもまだこの時は異変に気付いていない。


だんだんとそういう日々を過ごすことが多くなっていって、寝て疲れを取ることに精一杯で家事が全く手につかなくなっていた。
(わたしは大学進学時に親元を離れ上京し、ひとり暮らしをしている)


洗い物はシンクいっぱいに溜まり、洗濯はバイトの制服だけとりあえず洗う、お料理も出来なくなりスーパーやコンビニで買ってきたもののゴミがテーブルの上に溢れていた。
バイトの荷物や大学の教材は出しっぱなし、バイトでもらったロスの食品は袋に入ったまま放置。

足の踏み場がないほどに部屋の中が荒れていた。

元々綺麗好きな方ではあるから、この状況はどう考えてもおかしいのに当時は気づくことができなかった。


そのうちバイトに行くことがすごく憂鬱になり、向かう電車の中で動悸がするようになった。

でもお金を稼がなきゃいけないから仕方ない、バイト先の人はみんな良い人だからわたしがもっと頑張れば大丈夫、そう思って見て見ぬふりをしていた。

電車の中では、動悸を落ち着かせるために音楽を聴いていた。
推しが好きだと言っていた韓国のStanding Eggというバンドの曲を聴いていた。落ち着いて息ができるような曲だった。



だけど、もうぎりぎりの状態だったと思う。


そんな日々を送っていた6月下旬のある日、この日も夕方からバイトが入っていた。

だけど朝起きたら、頭がものすごく重くて、なぜかわからないけど涙が止まらなかった。
バイトの時間が近づくにつれ、お腹も痛くなり動悸もしてきてどんどん具合が悪くなっていった。
でも、頑なにバイトは休めないと思ってどうにか出勤した。

けれど、どんどん調子が悪くなり、息ができなくなった。目眩もして、立っていることがつらくなった。
その様子に先輩が気づいてくれて、その日は早退することにした。


それから体調の悪い日々が続く。
身体は鉛のように重くて動けないし、訳もなく涙が出ることが続いた。

以前からストレスを溜め込みやすい方だったから、ネットにあるストレス診断のようなものはよく行っていた。
またやってみようと思ってやると、
どのサイトでも”ひどくストレスが溜まっている”、”うつ病の可能性がある”などの結果が出てきた。


以前のわたしだったら、あまり気に留めなかったと思うが、このときは”うつ病”というワードが目に飛び込んできた。

そしてうつ病について調べ始めた。

ネットの記事を読んだり、Youtubeでうつ病に関する動画を見てみたり。
わたしの状況にぴったり当てはまっていて「わたしはうつ病なのかもしれない…」という思いを抱いた。

だけど、まさか自分がそうなるわけがないと思っていたから、苦しい状況に名前を付けて楽になりたいだけだ、逃げだ、と思って知らないふりをした。


そうしてまた同じような生活を引き続き送っていた。

この期間のことはよく思い出せない。
大学のテスト期間をどうやって乗り越えて、バイトをどうやって続けていたのか記憶がない。
おそらく必死だったんだろう。ただ思い出せるのは、荒れた部屋の惨状とひたすら泣いていた毎日。


そうして8月になった。

夏休みに入り、実家への帰省が近づいていた。
もうこのときには辛くて辛くて仕方がなかった。自分自身の異常にも気づいていた。
けれど踏ん張って毎日頑張っていた。帰省までは頑張ろう、そう言い聞かせて。

来たる帰省当日。
無事に飛行機は着陸し、空港には母が迎えに来てくれた。
正直、顔を見ただけで泣き出してしまいそうだった。

家に到着すると、馴染みのある匂いに包まれて安心して凝り固まっていたものがとけて溢れ出してしまった。
ばれないように、洗面所で水を流しながら泣いた。

このとき、母に相談するかどうかまだ決めかねていた。
わたしは自分の弱みを見せることが苦手で、ひとに頼ることが苦手だったから。
きっと心配をかけてしまうし、申し訳ない気持ちにさせてしまうと思った。

けれど、その日の夜寝るときに泣いていたのが見つかってしまった。
わたしは目を閉じて寝ているふりをしていたけど、母が話しかける声が聞こえた。

「穏、泣いてるの??どうしたの?」

その声を聞いてもうだめだった。

辛さも限界値を超えてひとりでは抱えきれなくなっていたから、次の日、仕事中の母にLINEをした。
「こっちにいる間にどうしても話したいことがあるから、いつか時間ちょうだい…」と。

そうして、その日の夜、母に全てを打ち明けた。

打ち明けることがとても怖かった。
だから話す前に「嫌いにならないでね。」と何度も言って話を始めた。

話は大まかに、
・心が壊れてしまって鬱のような状態になってしまったこと
・家事が何も出来なくなってしまって、掃除も料理もできなくなったこと
・電話で「元気?」って聞かれたら「元気だよ」って答えていたけど、本当は毎日泣く日が続いていて辛いこと
・でもどうしたら良いのか分からないこと
こんな感じのことをずっと涙を流しながら話した。

母は一緒に泣いて抱きしめてくれた。

だけど何度も「気付いてあげられなくてごめんね」と謝られたので、「気付かれないように頑張ってたんだから当たり前だよ…何にも悪くないんだから謝らないで」と伝えて、謝るのはやめてくれた。

そして「よく頑張ったね。きっと頑張りすぎて疲れちゃったんだよ、一回おやすみしよう。」と言ってくれた。

その瞬間、強ばっていた身体の力が一気に抜けた。
安心したのかもしれない。また涙が止まらなくなった。

母と話し合い、
・バイトはしばらくおやすみさせてもらうこと
・ゼミの研究は他のメンバーに任せて一旦やすむこと
を決めた。

次の日にはどちらにも連絡をし、幸い受け入れてもらうことができたので一回すべてをおやすみすることになった。




母に打ち明けたことでことの異常さに改めて自分でも気が付いた。



そしてようやく”うつ病”というものが現実味を帯びてきた。
この日から、記録として日記をつけ始めることになる。

すべてをおやすみすることが決まった日は、とても心が軽くなった。
解放された気分で空も飛べるんじゃないかと思ったほどだ。


しかし、そう簡単にはことは解決しなかった。

身体は鉛のように重く、目眩がした。
不安や憂鬱で涙が止まらない。頭の中はずっと考えることがあってぐるぐる動いている。
すべての気力が起きない。好きなものへの気持ちも楽しむ心もなくなった。
刺激をさけて穏やかに過ごそうとした。
起きていると考えすぎてしまうから寝てるのが楽だと一日中寝ていることもあれば、眠れない日々が続くこともあった。

母には、かなりの勇気を振り絞ってこのことを打ち明けたが、なかなか理解してもらえなかった。


本来は1週間くらいの帰省のつもりだったが、気づいたら3週間ほどいて、ついに東京に戻る日が来た。

正直、怖かった。

荒れに荒れた部屋のままで帰省をしたから、それがこの3週間でどうなってしまっているか、ひとりでその環境をどうにかする自信が全くなかったから母に手伝ってもらうことにしていたが、曝け出すことへの不安・恐怖。
そんなことでいっぱいで怖くて苦しかった。


そうして9月中旬。

偉大な母のおかげで荒れ果てたわたしの部屋が復活した。
掃除をしながら何度も泣くわたしを母は明るく励ましてくれた。

環境っていうのはものすごく大事で、部屋が綺麗になるだけで心の中のもやもすこし消える気がした。


母が実家に戻り、またひとりでの生活が始まった。


部屋が綺麗になっただけで、それ以外のことは何も変わらなかった。
夏休みが終わり、大学が始まったが2週連続でゼミを休んでしまった。行けなかった。
ゼミ以外の授業もあったが、オンラインだったのでどうにかこなしていた。

でも、症状がさらに悪化した。


集中力の低下、思考力の低下といったことが深刻化した。
一気に情報が入ってくると目眩がしたり、脳を働かせると頭が重くなって気持ち悪くなったりした。
さらに不安やストレスが強くなると、喉にボールが入っているような感覚になり苦しくなった。


そんな毎日を過ごしながらどうしたら良いのかわからないまま、10月が過ぎ、11月になった。

このときまで相談できる人が親しかいなくて、解決策が全然出てこなかった。

親はすこし薬や病院に嫌悪感を抱いているところがあったから、自然に触れて解放したり、頭をマッサージしたら…?と提案してくれたが、それができる気力もなかった。

そんな私を見かねて、母が電話で「そんなに辛いなら病院行きたかったら行ってもいいんだよ、あとは学校にも相談できるところがあるかもしれないから私に言えないことがあったら相談したらいいんじゃない?」と言ってくれた。


そうして、初めて”病院”と”大学”という選択肢がわたしの中に生まれた。

このことをきっかけに大学に相談できるところがあるのか調べ始めた。
すると、学生相談室という心理カウンセラーの方が相談にのってくれるところがあることを知った。


学生相談室。初めて聞いた。
3年間も大学に通っていたのに全く知らなかった。

それでもわたしは誰かに話すのが怖くて躊躇していた。
だけど少しでも前に進めるなら…と思って興味は抱いていた。



そんな時に見つけたのが、このnoteだった。


このnoteには、本当に助けられた。
おかげでわたしは学生相談室に行く勇気をもらい、決心がついた。


11月19日。学生相談室に行く日。

何かが変わるかもしれないという期待と、上手く話せるかなという不安、否定されたらどうしようという不安、色々な不安がごちゃまぜでとても苦しかった。

学生相談室は大学の端にある棟にひっそりと存在していた。

いざドアを開け、入室した。
紙にいくつか情報を記入したあと、担当してくれるカウンセラーの方に案内され部屋に入った。

とても優しい方で泣きじゃくってしどろもどろに話すわたしをしっかりと受け止めてくれた。



そしてわたしはとても運が良かった。
話を一通り聞いて、これは重度だと判断したのか
「穏さん、いまたまたま学校医の精神科の先生が来ているのでお話してみますか?」と聞かれた。
そんな心の準備はしていなかったから、すこし躊躇ったが、「はい、お願いします」と答え、精神科の先生に軽く診察してもらえることになった。

カウンセラーの方がわたしの話を大体伝えてくれて、その上でお話をするという感じだった。




「大変だったでしょう。よく頑張りましたね。」
開口一番にそう言われ、また涙を流してしまった。



それから色々とお話をして、わたしの現状は「それは典型的な”うつ”の症状ですね」と言われた。

(ああ…そうか……)と心の中で安心している自分がいた。認めて受け止めてもらえたこと、ずっと苦しかったものに名前がついたことがそうさせたのだと思う。


そこから話は早かった。



お話をして、大学の診療所ではお薬は出せないからその先生のクリニックに通うことになった。
その場ですぐ予約を入れてくれて、初診は11月23日に決まった。すごくありがたい対応をしていただいたな…といまでも思う。

学生相談室のときには、明確に「あなたはうつ病です」とは言われていなかったから、初診のときに検査などをして診断されるんだろうなと思っていた。




11月22日、クリニックに行く前日。

当時の日記には、「心が真っ暗。明日、相当な覚悟がいる。いよいよだ。始まる日、終わる日。大丈夫、何も変わらない。」と書いてあった。
不安が伝わる。診断されると同時にレッテルを貼られることをおそれていた。

そして11月23日。

緊張しながらクリニックへ向かった。

迷子にならないようにと先生が丁寧にくれた地図を片手に行ったが、案の定迷子になって電話をかけた。
受付の方が丁寧に対応をしてくださった。

無事に辿り着くと、簡単な検査をして診察に進んだ。
学生相談室で話した内容をもう一度確認して、他の症状についても追加で話した。




そして、”うつ病”と診断された。


隣の薬局で処方された薬を受け取り、電車に乗って最寄り駅に着いた。



この日は、わたしの大好きな人(ジャニーズJr. Travis Japanの川島如恵留くん)のお誕生日の翌日だった。
帰りの電車の中で主演舞台のレポを読むと、大好きなメンバーと大好きなファンに囲まれて白い花束をもらって大切にお祝いされていた。


そんな中、わたしは”うつ病”の診断を受け、薬をもらってきた。
心の中は、絶望だった。
名前が付くと楽になると思っていたのに、いざ病名を診断されると自分がいちばんそれを受け入れることができず、辛かった。

家までの道はずっと泣いて歩いた。



この日のことをわたしは忘れないと思う。

大好きな人の幸せの裏で絶望の淵にいた自分。
少しでも明るくなると思った世界が真っ暗闇になった日。






あの頃使っていた香水の匂いや聴いていた音楽は、あの頃の記憶と鮮明に結びついていて未だに近づくことができない。






あれから多くの時間が流れたが、
未だ真っ暗闇のなかで、わたしはこの病気と闘っている。





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