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苦しむための結婚



6月末に入籍した。


1年くらいの遠距離生活ののち、私が彼の働く土地(東京23区内)にて結婚生活を始めることになった。


結婚するにあたって、母親からは

「あんたが覚悟したなら」と言われた。

職場の人には

「すごい!よく決心したね」と言われた。

「結婚の決め手は?!」とも聞かれた。

どの言葉も勿体無いくらい有り難い言葉だったが、その一方で自分としてはそんな大掛かりな「覚悟」やら「決心」をしたというつもりはない。



「流れに身を任せてみた。その結果どういう景色が待っているか見ていようと思った」



そんなところだろうか。

人の想いや言葉を受け取るには体力が必要で、

かけられる言葉1つひとつに過剰に反応し、ときに疑問を感じ、正直なところ疲れた。

「幸せになってね」という言葉を聞いても

「じゃあ独身の私は不幸だったの?誰がそう決めたの?」と聞き返したくなった。

「覚悟」という言葉を使う人は私を試しているように見えた、自分の結婚の時にどんな壮大な「覚悟」「決意」があったか聞かせてみろと言いたかった。


入籍の翌日に身内だけの小さな式を挙げたが、それが終わるまで関係各所との調整、お祝いを持って子連れで来る親戚の接待、仕事の引き継ぎもあり、本当に疲れた。


さて今回のタイトルであるが、引用元は「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本である。


最初に読んだのは大学生の頃なので約10年前ということになる。


この本の中で、河合先生は、結婚について次のように述べている。

「愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために結婚して夫婦になるのかといったら、苦しむために、『井戸掘り』をするためなんだ、というのがぼくの結論なのです」




これに対して村上氏は、

「僕自身は結婚してから長い間、結婚生活というのはお互いの欠落を埋めあうためのものじゃないかというふうにぼんやりと考えていました。でも最近になって(もう結婚して25年になるのだけど)、それはちょっと違うのかなと考えるようになりました。

それはむしろお互いの欠落を暴きたてる ー声高か無言かの違いはあるにせよー 過程の連続に過ぎなかったのではないかと。


結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるわけではない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない。


結婚生活というのは煎じ詰めていけば、そのような冷厳な相互マッピングの作業に過ぎなかったのではあるまいかと、このごろになってふと思うようになったのです。」


と述べている。

20代、恋愛や結婚について考えるとき、この本に書いてある「井戸掘り」が頭の片隅にあった。

この本を何度も読み直しているが、未だにこの本で書いてある「井戸掘り」という概念を咀嚼して、消化できているか、よく分からない。

それでも、要所要所でブレーキになってくれたと思う。


「A子さんの恋人」で語られていることも、なんとなくこういうことではないかと思っている。



A太郎は自分の欠落を埋めるためにA子を求めていた。


相手にも人生があることや、相手には相手なりの地獄があり、私には私なりの地獄があることを忘れないように過ごしていければと思っている。




おしまい🍉

読んでいただき、ありがとうございます🫶


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