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柿をだす茶屋ってお洒落だとおもう

柿は秋の季語だ。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

諸説あるが、この正岡子規が詠んだこの句は、奈良県は法隆寺に立ち寄った後、喫茶店で一服して柿を食べていると法隆寺の鐘が鳴り、その鐘の音色に秋の訪れを感じた、という情景が込められているという。

なるほど。少ない文字数にもかかわらず、情景が生き生きと伝わってきます。冗長で意味不明な文章を書く私とは雲泥の差です。

いや。待てよと。

茶屋に行って柿を頼むってお洒落じゃないか?というか柿を単品で提供する茶屋も、お洒落だ。

茶屋は現代にも残る。京都や奈良などの古都市はもちろんのこと、東京の駅ビルにだって茶屋テイストのお店はある。

そこで私たちが頼むものは、団子やまんじゅうにとどまらず、抹茶パフェやパンケーキなど、砂糖と欲望にまみれた俗世の食べ物である。

一方、正岡子規さんが茶屋で頼んだのは「柿」である。秋になると実るオレンジの果実。皮をむけばすぐに食べれる手軽な食べ物だ。

それを敢えて茶屋で注文する詩人。そして、それを当然の商品として提供する茶屋。

無駄なものをそぎ落としたこのやり取りには、無駄な言葉をそぎ落として句を詠む、俳人としての生きざまさえ見えてくるようだ(大げさ)。

足し算のようにサービスを追加していく現代。俳句のように引き算をしていくサービス、そしてそれを当然のこととして消費する消費者。そういうのってなんかお洒落だ。

気散じに入った茶屋で一言。柿ください。こんなことを言えるお洒落な大人になりたいものだ。


自己投資という名の食材への出会いに使えればなあなんて思っています。