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縁を感じて、本棚を漁る

最近、坂口安吾著「堕落論」についての記事を目にした。

たまたま私は過去にこの本を譲り受けており手元に置いてはいたものの、
本棚の片隅で埃を被っていた。なんせ1946年に書かれた本著書の文体は、私にはむつかしく途中で投げ出してしまっていたからだ。

しかし、このnoteという媒体でまた"堕落論"に巡り合うことになった。

人から譲り受けるまで本作の存在すら知らなかった私が、こうしてまた惹かれることになったのも何かの縁だろうか。いつの間にか私の手の中に、綺麗に埃の払われた本が、あった。
本作が何故78年経った今でも読まれているのか、私の稚拙な言葉では語り切ることが出来ないことは承知の上だが、改めて読んだ記録も兼ねて、正直に思いを綴ってみたい。

正しい堕落とは何か?

正直に言おう。
堕落論は、やはり私にはまだむつかしかった。
それが率直な私の感想だ。

しかし、最も印象に残り、且つこの作品の中で最も言いたかったことを丁寧に解説していると感じたのが、この部分だ。

私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。
私は考える必要がなかった。近頃の東京は暗いというが、戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締りなしで眠っていたのだ。戦争中の日本は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ爆弾の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれていれば良かったのだ。
私は一人の馬鹿であった。

「堕落論」坂口安吾 著

処女を刺殺せずにはいられず、武士道を編み出さずにはいられず、天皇を担ぎ出さずにはいられないのが人間だと坂口氏は言うが、それらは私にはむつかしくてよく分からなかった。けれども、この一節ですべてが語られているように感じてならない。

このような名著を簡単にまとめるのは些か気が引けるが、要するに坂口氏は「人間は堕落して当たり前だが、堕落しきることは出来ない。だから正しい道を堕ちきることが、自分自身を救う最短ルートだ」とまあ、こんなようなことを言いたいのだと思う。

>戦争中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締りなしで眠っていたのだ。
この一文は、まさに人間の"堕落"を表現したものだと思う。
戦時中の生活のことは私には分からないけれども、それくらい日本人は「戦争」という異端を前に成す術もなくただ政治という名の一つの歴史の前に跪くしかないちっぽけな存在であったということだけが、ありありとこの一文に記されている。

戦争と言えば、戦場に出向いて散っていった英雄について考えることが多いが、しかし強大な異端を前にして考えることを忘れかけている人間たちの生活とは、どれほど平凡なものであったのだろう。

それを坂口氏は
>もし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。
こう言ったのだ。

堕落を抑制する人間と、堕落を抑制された世界で生きる人間を横目に、考えることを忘れ、ただその平凡さと戯れていればよいのにと、坂口氏は偉大な破壊を目前に一人ずっと考えていたのだろうか。思想家という人のことを思うとき私は、そういった人々の偉大さを感じるとともにどれほどの変態だったのかと考えずにはいられない。

しかし人間は堕ちきることは出来ない。
だから処女を刺殺するし、武士道を編み出すし、天皇を担ぎ出し、堕落を抑制しようと、人間に戻ろうとする。
しかし自分自身の処女や武士道や天皇を何とするかは、自分自身で理解するしかない。だから、人は正しく堕ちる必要がある。

私も人間であるから、私も堕落する。いや、きっと既に堕落している。政治云々は分からないが、現代でも堕落を抑制しようとする人間がいて、私はその中で生きるたったちっぽけな存在でしかない。
ならばその堕落を受け入れよう。堕落という平凡の下で泡沫のような虚しい幻影を、私も追いかけてみようと思う。というのが、私の堕落論だ。

人の正しい堕ち方の一つの答えとして、私はnoteで出会ったこの記事を推したい。まるで求めていたような答えが、ここにあるような気がしてならない。

私を魅了した淪落の世界

青春 訳:夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春に例えたもの。青年時代。<五行説で青は春の色であるところから>

goo辞書

私は、私の青春はいつだったのかと考えたことがあるが、はっきりといつ頃だったのかという答えに辿り着けなかった経験がある。青春などという概念には、ここからここまでが青春で、どんなものですよという決まりなど存在しないからだ。
しかし現代人(私が考えたような)のイメージする青春と、坂口氏の語る"青春"とでは、大きく意味が異なる。それは、青春論を読めば、分かる。

青春論を読み終えたとき、三好達治の坂口安吾への評を思い出してはまったくうまく例えたものだと思ってしまった。私はこのお寺の本堂のように立派で大きく、しかし中を覗けば畳一つ敷かれていない、がらんどうな思想にひどく魅力を感じた。覚悟と悟道を履き違えることも無く、愚かな自身を白状してみたかと思えば誇りを持ってみたりする坂口安吾という人間が、とてもおもしろかった。

坂口氏の言う"青春"とは、つまるところ"人生の区切り"だった。著書には、この区切りが無いことが気持ちの良いものではないと記されていた。区切りが無いというのは、抑揚のない映画を観ているときのようにおかしさが無く、気持ちの良いものではないのはたしかだろう。では人生の区切りという意味で改めて人間の"青春"を考えるとき、結婚というのはそんなに青春に関係があるだろうか?坂口氏の言うとおり、結婚することによって人性が豊かになったり立派になったりはしないだろうし、そうすると人間の区切りに、結婚自体がそう関係するものではないように感じる。

人間の区切り。それは生と死だ。これしかない。
青春論ではそれを伝えるためにこんなに長々と説明がついている。だが結論、それでしかないのだ。結婚しようが、祈ろうが、忘れようが、走ろうが、いくら信念を持って何かを決めたところで、その信念ですら無くたって結構幸せに生きていける人間が何か本気で決断、区切りを付けることが出来るとすれば、生きることか死ぬことくらいしかないのではないか。
坂口氏も以下の青春論で以下のように語る。

死ぬることは簡単だが、生きることは難事業である。僕のような空虚な生活を送り、一時間一時間に実のない生活を送っていても、この感慨は痛烈に身にさしせまって感じられる。こんなに空虚な実のない生活をしていながら、それでいて生きているのが精一杯で、祈りもしたいし、酔いもしたいし、忘れもしたいし、叫びもしたいし、走りもしたい。僕には余裕がないのである。生きることが、ただ、全部なのだ。

「青春論」四:再びわが青春 坂口安吾著

"青春"を考える、それはつまり生を考えるということであるから、"青春"を考えるなら、生きねばならぬ。

僕が小説を書くのも、何か自分以上の奇跡を行わずにはいられなくなるためで、全くそれ以外には大した動機がないのである。人に笑われるかもしれないけれども、実際その通りなのだから仕方がない。いわば、僕の小説それ自身、僕の淪落のシムボルで、僕は自分の現実をそのまま奇跡に合一せしめるということを、唯一の情熱とする以外に、外の生き方を知らなくなってしまったのだ。

「青春論」同上

私も何か、自分以上の奇跡を欲しているのだろうか。自分以上の奇跡を求めることは何時如何なる時も自分の無力さに直面するものだから、非常に険しい生き方かもしれない。だが、私がもしそんな奇跡を求めて、書きたくなり、撮りたくなり、表現したくなる気持ちが生まれているのであれば私は、生を得てから初めて生に向き合おうとしている。それ以外の生き方を知らなくなってしまってもいい、そんなに嬉しいことは無い。私が青春論に感じた魅力とは「生への強い憧れ」だった。
坂口氏は、「之ぐらい自信の欠けた生き方も無かろう」と綴っているが、それにそのひどく自信の欠けた生き方は、そもそも生に執着する気持ちの乏しい人間に憧れを抱かせてくれた。

人間の生き方を綴った名著

私が堕落論・青春論を読んだ感想とはこんな感じだ。
実際、何度辞書を引いたか分からないくらいむつかしかったが、率直に読んでよかったと思う。本棚で埃を被った本を、久しぶりに手に取ってみるのもたまには良い。

しかしもう少し読み進めやすい本だと尚良いのだが、、、


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