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【読書感想】堕落論―虚無と幻影―

坂口安吾は戦時中、疎開をすすめられても東京に踏みとどまっていた。爆撃を、偉大な破壊と呼んだ。


……私は偉大な破壊が好きであった。私は爆弾や焼夷弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。

『堕落論』


偉大な破壊と、その驚くべき愛情に魅了され、力の前で無心になる人々を美しいと感じた。何もないのだ。力の他には何も。人間もなかった。


 私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。

同上


しかし戦争は人間を変えはしなかった。


……戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。



堕落論

「半年のうちに世相は変った」と始まる『堕落論』が世に出たのは1946年、終戦の翌年だ。法や道徳、規約、制度などというものは人の弱さの裏返しであり、虚しい幻影であるかも知れず、人性は堕落だと喝破した。
人は弱く、卑小で、愚かで、堕ちる。
77年経った今読んでも色褪せていないのは、この国がいまだに自身を見失ったまま堕落の途上にあるからだろう。暴露系ユーチューバーなる得体の知れぬ輩を国会に送り込み、小銭欲しさに闇バイトに応募し強盗団に参加する。ホストクラブに入り浸り、百数十万円の売掛金を支払うために女子高校生が躰を売れば、二百万円稼げてしまう。堕ちるのは人性であるという坂口安吾に倣って世を眺めてみると、確かに例を挙げれば切りがない。
坂口は、堕落は平凡であるという。そして力の前で無心になる人々の美しさも虚しい幻影に過ぎないと思わせる、堕落の平凡さに、驚いてみせる。


 だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。


堕落は平凡である、恐ろしいのはこの慧眼だ。


虚無を引き受ける

人間は堕落する。いや私は操を立てておってですな、とか僕は童貞を守り通してみせるさといったところでナンセンスと成り果てる。童貞や処女を守るといった姿勢は時には胸を打つ。そこに葛藤があれば人の胸を打つ。しかしこれは本来の人間の姿ではない、虚しい幻影なのだ。
人は本来的に虚無だ。だから葛藤はない。故に容易く堕落する。堕落という、力に隷従する。
しかし人間は、永遠に堕ちぬくことはできないだろう、と坂口はいう。


……なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。


貞操観念や武士道、天皇制というのは「虚しい幻影」だが、人はこれらを編み出さずにはいられなかった。なぜなら人は堕ちるが、堕ちきることはできない弱いものだから。8000字にも満たないこの短くも強烈な評論の結びこうだ。


……そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。


歴史のぬきさしならぬ意志

今、この国が何処へ向かっているのかは知らないが、はっきりしているのはいまだに堕ちつつあるということだろう。失われた30年を茹でガエルと言った評論家がいたがまさにそうで、冗長になるのでいちいち挙げないが、気づけばこんな体たらくだ。しかし憂うポーズなどナンセンス極まりない。
冷戦が終わり30年、力の均衡が崩れ激動のとば口にある今、『堕落論』が教えるのは、「人間自体をどう為しうるものでもない」という驚くべき平凡な当然さだ。けれどもこれは諦観ではない。肯定だ。
坂口は、先の戦争をやったのは為政者でもあるが、「日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志」でもあるという。ぬきさしならぬ意志もまたどう為しうるものではない。だから人の弱さも愚かさも、卑小なことも全て肯定した上で、虚しい幻影を追い求めよう。それは善悪も美醜も関係なく、ただ必要から編み出さずにはいられない何かのはずだ。それが救いだと坂口はいう。それを掴むために堕ちるのだと。
文学は人間を書かなければならない。その実相を。何もない、虚無を充たすように、人は幻影を追い求める。そのために、人は抗う。堕落という力に抗い、葛藤し、虚しい幻影を追い求める人を描くのが、虚構である文学にできることなのかも知れない。