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【私と本】泥の中から咲く蓮の花はうつくしい

 何を探しているときだったか忘れたけれど、スタン・ゲッツの伝記を見つけて手に取った。ドナルド・L・マギンという人が書いていて、翻訳は村上春樹氏だった。
 二十二の章からなる、訳者あとがきまで含めると570ページを超える大物で、かなり読みごたえがある。スタン・ゲッツという人の演奏を、ほんのいくらかは耳にしたことがあるといっても、ほとんど知らない(というかジャズのことだってほとんど知らない)。読み進めるごとに胸が締めつけられ、その音楽の持つ底力に圧倒されるおもいがしてくる本だった。

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 このところいくつかの縁があって、職業的音楽家というか、まあ音楽の世界にいろんなかっこうで身を置くような人たちと知り合い、ちょっとだけその生活を覗かせてもらっている。自分の目で見たことと、この本を読んでみて感じたことを、少しだけ書いてみたいと思った。

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 この伝記にはものすごいボリュームの情報が詰め込まれている。スタン・ゲッツと同時代を生きたミュージシャンや関係者が次々に出てくるし、いつどこでどんな演奏がおこなわれたかとか、それらの曲が収録されているレコードアルバムの名前も、年代を追って順に出てくる。ほんとうなら曲をひとつずつ耳で確かめながら読む、というのがいいかもしれない。でもあまりにもその量が多く、本を読み進めるなかで流れを中断されてしまうだろうからそれは諦めた。
 また、この著者や、文中に出てくる評論家たちの、音楽や演奏に関する表現力がすごい。私には音楽についての語彙も表現力も不足しているから、ひたすら感動する。音楽を聴いて、こんなふうな表現ができたらいいな、などと爪を噛むおもいもする。
 そして何よりも、スタン・ゲッツの人生をなぞっていると、その素晴らしい音楽の才能の裏にある、宿命的な悪霊みたいなものの存在があまりにも濃く、それが頭から離れない。
 スタン・ゲッツは6歳頃から楽器に引き寄せられ、すぐに音楽的才能を示し、10代から音楽の世界にぐいぐいと入っていき、その過程でずいぶんと早くからアルコールやドラッグといったものに出会ってしまうことになる。そしてその両方の依存症をほとんどの人生において抱え込むまでに、どっぷりと浸かっていく。
 そこから簡単には抜け出せず、家族や周囲の人々を傷つけ、何度かの逮捕や精神的、または薬物療法などの治療を経て、自身の引き起こす破綻によって自分自身をも深く傷つけ、その一方で人々をどこまでもうっとりとさせる音楽を奏でる。その繰り返し。
 何かにすごく恵まれる人というのは、悪にも好まれるというか、そういうのってやっぱりあるんだろうか。最低のものから最高のものが生み出されるみたいなことで、引き合いに出して恐れ入るけれど、例えばうちの父がろくでもないわりにとてもおいしいコーヒーをつくるとかも似たようなことと、以前からおもっている。

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 音楽の世界に生きる人たちを見ていて、理解できないことが多かった。相手がいることなので詳しくは書かないけれど、その生き方はときに胸を打つし、どうしてそんな方法や手段を選ぶのかななどと、私にとっては不思議におもわれるようなことばかりだった。だけど、少しずつだけど、気もちを近づけることができるようになってきたような気がしている。
 確かめたわけではないし、まだほんの手がかり程度だからこれも詳しくは書かないけれど(書かないことが多くて申し訳ない)、ひとつは、やっぱり、何かに関してもっとうまくなりたい、どこか目指したい場所がある場合、そこには強い欲求、もっと言うと情熱やある場合には怒りのエネルギーや、地位や名誉に対する強い欲求や、それ以外の多くを犠牲にする覚悟とかが必要になってくる。それらを抑え込んでしまえば、フラストレーションが溜まって他人や社会への批判や暴力として現れるかもしれない。そうして悪だけが深まって、生産がないのであれば、もうどっちがいいとか言えなくなってくる。
 そういうことをあれこれと考えていたら、他のものごととのバランスを考え、健康に留意し、稼ぎや生活を守るためなどといって、挑戦をしない人生というのがすごくつまらないものにおもえてきた。これは、基本的におっかながりの私自身のことを言っている。

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 ぜんぶよいことというのはなくて、何かいいことがあればだいたいにおいてその反対側のものを引き受けることになる。
 車を手に入れれば維持する費用がかかるし、おいしいものをたくさん食べたら健康やスタイルを犠牲にしなくちゃいけないし、家族が増えれば喜びと同時に責任が増えてお金だって必要になるし、家を建てた瞬間からどんどん老朽化していき所有している間あらゆる面倒が持ち込まれる。成果を上げて財産を手にすれば周りから妬まれ、維持や相続に消耗する。
 ふたつよいことはない、というのはほとんど何にでも当てはまる。つまり何かしらの才能とかも、あるいはそうなのだろうか。

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 スタン・ゲッツの伝記を読んで、その生涯の痛ましさと、その対極にある美しさや周囲からの賞賛に、胸を打たれっぱなしだった。まだ読み終えるまであと少しある。
 先日父のマガジンで取り上げた、ボサノヴァの誕生についても、この本の中にはその時代のことが詳しく書いてあったりして、父はその時代をリアルタイムで体験したんだな、などとぼんやり考えた。

 いつものように、読む人からしたら書き散らしでしかない文章だろうけれど、なんだか書かずにいられなかった。
 こういった読書や観察というのは、私にとっては思考がどこまでも変容し、あるいは拡がって動き続けることを感じる行為であって、結論や解釈をつけるようなことではないようだ。
 最後まで読んでくれた人には感謝しかない。


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