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誰でもない時間

 京都に行ったことを(ぼんやりと)書いた。

 滞在のうち3日間を友人たちと過ごし、4日目はひとりでと決めていたけれど、その日をどのように過ごすかまでは考えていなかった。どこかに行くときは、わりと下調べというか、行きたい場所を決めてあればそれに沿った時間割までを計画する性格なのだけど、今回は考えようとしても頭のなかが霞がかったようにうすぼんやりとしていて考えられずにいたのだ。

 友人たちと別れて、その夜には決めるはずが、決められなかった。仕方がないので、朝起きてからやっといくつかの候補をあげ、行き方や交通機関、時間を決めていく。「時間を無駄にしたくない病」を持っているせいでこういうことにすごく緊張する(乗り物に関しては手順などまで画像検索しておく念の入れよう)。

 行った場所は、上賀茂神社、下鴨神社、それから東寺。新幹線の時刻やお土産を物色する時間を考えて、これがぎりぎりというところ。

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 上賀茂神社では特別参拝がおこなわれていたので、嬉しくなって参拝させてもらうことにした。受付を済ませ、神職の方に案内をしてもらい、本殿と権殿の参拝ができた。
 敷地を流れる川にはつがいのカモがいて休んでいた。

 下鴨神社に移動する。最初に河合神社にお詣りしようとおもい、糺の森のなかをゆっくりと歩く。幅の広い平坦な道の両側にたくさんの木々があって、新緑色のアーチができていた。鳥の声がするし、風で揺れる葉擦れの音もする。
 たくさんの人が歩いていたり、休んでいたり、絵を描いていたり、自転車で走っていたりするけれど、このひとたちは私がどこの誰なのかなんて知らない。そうおもったら驚くほど安らいだ。

 誰でもないと感じていられる時間が好きなのかもしれない。眠っているときも同じような理由で心から安らぐ。仕事からも家族や友人知人からも離れて、もしかしたら肉体からも離れていられる時間。あとも先も考えなくていい。
 暮らしている場所では、あちこちに知り合いがいる。買い物をしたり、ただ歩いているときにたとえひとりだったとしても、誰かに見られていたり(「この間あそこで見かけたよ」)声をかけられたりすることだってある。近くに家族が住んでいたり、気にかけてくれる古い知人や友人たちの存在は心強く安心ではあるけれど、ときどきそれらが不要なことだってある。

 友人たちと過ごした3日間は、(簡単にではあるけれど)記事にしたように3つの場所への登拝が主だった。みんなでわいわい登るのでなく、目的地まではほとんどひとりで進んでいく。その時間をおのおの味わい、合流してから共有したり、しなかったり(言葉にできない)した。
 ひとりだからこそやりたい事ややってみたい(出来てみたい)事がある一方で、それもいいけれどみんなで(誰かと)体験してみてそれもイイという事がある。旅の途中も、帰ってきてからもそんなことをおもいながら暮らしている。

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 糺の森のなかではそんな『誰でもない時間』を感じ、よろこんだ。
 参拝を済ませ、境内をまわっていたら、鳥居のところに結婚式で来ているのだろう花婿と花嫁をみた。鳥居の朱色と白無垢姿の花嫁さんの組合せが、はかなげできれいだった。お宮参りなのか、正装をして赤ちゃんを抱っこした夫婦などもいた。

 次の目的地の東寺に向かった。日が高くなってきた。門を入ってから御影堂にあがらせてもらう。香のかおりが気もちを落ち着かせてくれる。それからしばらく敷地内であちらを見たりこちらを向いたり、手を合わせるなどする。金堂と講堂の特別公開がおこなわれていて、まだ時間があったので拝観していくことにする。

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 ふたつのお堂のなかは暗く、静かで、ひんやりとしていた。とくに講堂の立体曼荼羅に圧倒される。
 お堂をあとにし、五重塔を写真におさめたり、瓢箪池で甲羅干しをする亀たちを見て東寺を出た。宝蔵のところにはカモの家族がいた(かわいかった)。

 

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