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【90年代小説】 シトラスの暗号 #1

※この作品は1990年代を舞台にしています。作品中に登場する名称、商品、価格、流行、世相、クラス編成、カリキュラム、野球部の戦績などは当時のものです。ご了承ください。
※文中 †ナンバーをふったアイテムは文末に参考画像を付けました。


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あなたは深いところで、とても良く知っています。
たったひとつの魔法、たったひとつの力、たったひとつの救いがあることを。
それは「愛すること」だということを。
あなたの苦しみを愛しなさい。
それに抵抗しないこと、それから逃げないこと。
苦しいのは、あなたが逃げているからです。
それ以外ではありません。

ヘルマン・ヘッセ

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1997年6月、東京近郊の大学附属高校

Ⅰ.BREAKE OUT !


 職員室にはオヤジな臭いが漂っていると、わたしは思う。
 それは、バーコーダー御用達のあっまぁーいポマードの臭いだったり、カップの底に染み付いたインスタントコーヒーの焦げたような臭いだったり、ラークやらキャスターやらマイルドセブンの臭いだったり。
 秋頃の急に寒くなった日の朝だと、タンスから出したばかりのコートの防虫剤の臭い。
 だけど今は6月だから、エアコンのフィルターから吐き出される、酸っぱいようなカビ臭いような臭いがメイン。健康に悪そうだ。
 こんな所に長く居たら、持病のアレルギー性鼻炎が悪化してしまいそう。
 わたしはすごく粘膜が敏感。そのせいでアレルギー性鼻炎なのだと思うけど、症状が出てない時は、犬みたいに鼻が利く(ハンカチや靴で犯人捜せって言われてもイヤだけど)。
 だから、こういう所にしばらく居ただけで、髪の毛や制服に臭いが付いてしまうのが耐えられないわけ。
 入学式や授業参観の時の、大晦日の演歌歌手のごとく着飾ったお母様方の臭いもダメ。猛烈な吐き気とめまいで気が遠くなりそうだった。いやマジで。

「ごめんごめん、気が利かなくて」
 わたしを呼び出しておいて、「ちょっと待ってて」と席を外していた織田先生が、ファイルを手に戻ってきた。
 隣の席から椅子を出して「どうぞ」とわたしに促す。
 隣はピロピロの席だ。座るのやだな。
 若井弘博ひろと。3年男子体育担当。ある生徒が弘博をひろひろと読んだことから、あだ名がピロピロになった。
 脳みそ筋肉でできてる系で、汗臭いしワキ毛ボーボーだし、女子からは大概嫌われている。
 いやとも言えず、仕方なく座る。高さが合わない。かかとが床につかなくて足をブラブラさせそうになる。
「悪かったね、呼び出したりして」
 織田先生はファイルを置くと、椅子を回してわたしと向かい合わせに座った。
 瞬間ふわっと淡い柑橘系の香りが流れて、澱んだ空気が浄化される。
「構いません、部活入ってませんから」
 悪いと思うならやめてよね。悪態は心の中だけにして、優等生のお返事をする。
 あの匂い。廊下ですれ違った時に一瞬だけ感じるやつ。
 あれは嫌いじゃない。自己主張弱めの香り方もいいと思う。
 でもこの人は嫌い。嫌いなんだ。

 物理担当、織田修司。この4月から講師で入ってきた。
 背が高い。スタイルがいい。歯並びがきれい。流行りの3†1つボタンスーツ。男のくせにツルすべ肌。爽やか。フレンドリー。理系なら当然頭がいい。そして何より顔がいい。とてもいい。
 始業式で挨拶をしただけで黄色い歓声が上がり、瞬く間に校内一のアイドルになった。女子高生にキャーキャー言われて、教師のくせに不謹慎じゃない?
 隙がない。スペックは完璧だ。完璧すぎて気持ち悪い。何か裏に黒いところがあるんじゃないかと勘ぐりたくなる。
 ルックスがいいだけでもチートなのに、その上頭もいいなんて、許せない。
 胡散臭くてわたしは嫌い。生理的に受け付けない。右へならえでファンをやるつもりは毛頭ない。わたしはそういう薄っぺらい女子高生とは違うんだから。

「まず訊いておきたいんですが」
 机の上に置かれた薄緑色の2穴ファイル。水木清香みずきさやか、背表紙にわたしの名前が見える。
「僕の授業はわかりにくいと思いますか?」
 僕。僕ですよ。品行方正お坊っちゃま?
 答えずにいると、
「あるいは……君は物理が嫌いかな?」
 子供に訊ねるような口調。バカにしてるの?
 そりゃあどうせわたしは子供でしょうけど。でももう高校3年なんだから。
「物理は嫌いじゃありません。先生の授業も、特にわかりにくいってことはないと思います。結構人気あるみたいだし」
 それは本当。実験をしながら考えさせる、生徒参加の授業だから退屈しない。お陰で物理を嫌いにならずにすんだと思う。
 でもこの人は嫌いなの。絶対的に。
「ありがとう。ただね、人気があるのと授業を理解してもらってるのとは、違うみたいなんだよね。どうも生徒たちは、僕の授業を面白実験ショーかと思ってるようで」
 面白実験ショー。ナイスなネーミング。
 確かに、実験を見せられてそれが面白かったからといって、公式が覚えられるわけじゃない。後は生徒個人の問題なのだ。
 好きなのとわかるのは違うと思うし、わかるのとできるのも違うと思う。
 言っておくけど、わたしはそうじゃない。何がって? わたしは面白がってるだけじゃなくて、きちんと理解してるし、公式も全部暗記している。
 なのに、先月末の中間テストで55点を取ってしまった。
 厳密に言えば、「しまった」ではなく「やった」だ。取ってやった。理由はまた後で。
「悪いけど、君の成績調べさせてもらったんだ。そうしたらね……」
 事務用椅子をギッと回転させて、机の方に向き直った。
 視線がぶつからないようにと今までうつむいていたわたしは、ようやく顔を上げることができる。
 先生は例のファイルを開いてパラパラとめくった。
「驚いたよ。君、数学得意なんだね。1年の初めからずっと100だもんなあ」
 それはわたしの成績一覧表らしかった。

 説明しておこう。
 うちの学校、某大学附属S高校の通知表は100点評価になっている。中間、期末の得点を平均したものに、平常点をプラスマイナスした数値がそのまま書き込まれるのだ。5段階評価に直すと、86以上が5になる。
 数学がずっと100っていうことは、100点しか取ってないってことだ。これはちょっと自慢。
 だけどうちは附属校だから、テストなんて結構ユルユルなんだけどね。


「地学も生物も、100じゃないにしろ全部5だね。国語、英語関係も5。社会科は4が多いなあ。社会は嫌いなの?」
 黒地にペンシルストライプのスーツ。物理教師の尋問は続いている。
「嫌いです」
 弁護士を呼ぶことも許されないわたしは即答する。
「どうして?」
「興味がないから」
 そうだ。アパラチア山脈がどこにあるかとか、大化の改新が何年だとか、GNPがどうしたとか、わたしには関係ない。
 ついでに、わたしの成績がどうだろうとこの人には関係ない。
「あー、わかるよー」
 は? 何が?
「自分で経験できないと実感わかないよね。だから僕の授業では実験を取り入れてるんだ。たとえば地理ならフィールドワーク、つまり実際その場所に行ってみると、理解が深まるんだけどね」「ローマ帝国に行くにはどうしたらいいですか?」
「それは無理だねえ。でもローマに行けば遺跡が残ってるから、当時の様子を調べることはできるよ。コロッセウムとか、カラカラ浴場とかね」
 なるほど、さすが理系だ。返しにソツがない。
「世界史を理解するには、何か中心になるものを決めて、それを縦軸にして系統立てて読み込んでいくといいよ。宗教とか戦争とか。キリスト教がオススメだね。ローマ帝国もキリスト教が国教だったし、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、アフリカ、オセアニア大陸まで席巻してる。イスラム教も原点はキリスト教と同じだし、戦争もキリスト教が原因のものが多い」
 へー、驚いた。勉強しろってみんな言うけど、勉強の仕方を教えてくれた先生は居なかった。
 おっといけない。だからってわたしは転ばないわよ。改宗するつもりはないんだから。
 わたしの横を、坊主頭の男子生徒が通り過ぎた。野球部だ。ユニフォームが汚れている。汗の臭いがした。
 また汗臭い季節が来るのかと思うと、うんざりする。
 職員室や特別教室のある中央館にはエアコンが付いているのに、一般の教室には扇風機だってない。窓全開で下敷パタパタの世界だ。私立のくせにケチくさいったら。
 理事長なんか運転手付きの†2ンチュリーでご出勤なされて、その運転手に1日中車を磨かせているというのに。その優雅さを少しは生徒に還元してほしい。
 そういうわけで、体育の後はヒサンな状態だった。

 もともと男子校だったせいで、うちの学校は女生徒の数が極端に少ない。3年生は1クラス40人中10人しか居ないのだ。
 それでもまだいい方で、わたしたちの上の学年は2/3が男子クラスだったらしい。共学校に入ったのに3年間男子クラスだったという、泣くに泣けない逸話も先輩から聞かされている。
 入学したての頃、3年の男子クラスばかりが入っている北館(通称隔離病棟)に、怖くて近寄れなかったのを覚えている。
 だって、女子が廊下を歩いているというだけで、教室中の窓という窓から好奇の視線と口笛、黄土色の歓声が降り注いでくるのだ。
 抑圧されたリビドー。サカリのついた猛獣。〈隔離病棟〉のネーミングはダテじゃない。
 幸い、わたしたちの代から男子クラスは廃止された。お陰でかわいい後輩たちが恐怖にさらされる心配はもうない。
 年々女子の志願者は増えているから、今の1年生は6対4位の割合になっているようだけど、やっぱり断然男子の方が多いのだった。
 だから体育の後の教室はものすごく汗臭い。それに安物のコロンの匂いが混ざって、もうグチャグチャ。4限だったらゲロゲロだ。食欲なくすわよ。


「ごめん、脱線したね。ここからが本題なんですが」
 この人、髪がサラサラだ。何もつけてないように見えて、たぶんナチュラル系のミストか何か使ってる。手ぐしでサイドに流した感じ。
 そういう、わざとらしくないところが、かえってわざとらしいのよね。ワイシャツはいつも糊が利いてるし、パンツのプレスもきちんとしてる。いかにもなイイ男って、どうもなあ。
「わかってると思うけど、この間の中間テストの話ね。やっぱりというか、数学は100点。化学も92点。頑張ったね。ところが」
 最後の「が」にアクセントを置いて、息をつく。この上なく爽やかな笑顔を浮かべていた顔が、急に曇った。
「僕の物理はいきなり55点と」
 頭痛と歯痛と生理痛が一度に来たような顔。いや、生理痛はないか。まあいいや、そんなことは。
 55点は3の範囲だ。
 よく考えたら、赤点でもないのにどうして叱られなきゃいけないんだろう。なんか腹立ってきた。
「体育はずうっと3ですよ」
 そうなのだ。お勉強はできるけど。それは数多くあるわたしの欠点の中でも、特に気に入らないところだった。
「そうなんだ? いや、そういう問題じゃないんだけどね」
 ああ、余計なこと言ってしまった。わざわざ自分から敵に弱みを見せることなかったのに。
 敵? 敵なのかしら、この人。でも嫌いだし、敵かもね。




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