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"意義"の追求が自滅を招く話

こんにちは!

先日、精神科医の泉谷閑示さんの本を読み、その後、こちら↓のラジオ(の音声)を聞いていて、色々なことを思いました。

【大竹まこと×泉谷閑示×町亜聖】 労働を生きがいにするな!増えた現代人の有意義病

今日は、色々思ったことをシェアさせていただければと思います。

内容はこちら。

・必読の価値あり『「普通がいい」という病』-泉谷閑示
・意義を求め過ぎる近代~現代
 →日本とドイツに通じる家父長制度が意義の存在を高めている?
 →現代のアメリカ社会はプロテスタンティズムから離脱したい?
・意味とは
・自分と他人を超える=自分も他人も無い

今回は、『必読の価値あり『「普通がいい」という病』-泉谷閑示』について書いていきます。

『「普通がいい」という病』-泉谷閑示


泉谷閑示さんを知ったのは、こちらの記事『幻想の画家・ルドンの「黒」と人間の「闇」』を読んだことがきっかけです。

ルドンという画家の絵を通して、現代に失われつつある闇の部分について書いているのですが、闇という部分というのは一つの側面のことです。

泉谷さんは、この記事でこのように言っています。

現代の社会は便利で効率的ではあっても、生の感覚の持ちにくい、白けた「光」の世界ばかりになってしまったように思われます。

現代において、効率的であることや合理的であること、便利であることなど意義に重きをおいて意味をわすれてしまっている状況が、現代に生きる人を生きづらくさせていると言っています。

個人的に同じタイミングで、「調子の良い時、悪い時がなぜ存在するのか?」を考えていました。

ここでは詳しくは書きませんが、ちょうどその時に私は調子の良くない時の状態も自分にとっては重要な状態であると思ったのです。

つまり、良い時は良い良くない時も良いと、どちらの状態も大切だと思ったわけです。

これだけだと「なんのこっちゃ?」ってなってしまうかと思いますが、これからご紹介する泉谷さんの本『「普通がいい」という病』について、知っていただければと、なんとなく理解できると思います。

『「普通がいい」という病』では、全部で10講に分かれています。

冒頭で、テネシー・ウィリアムズの戯曲『ガラスの動物園』の中に出てくる、ローラが大切にしているガラスのユニコーンの角が割れてしまうシーンを引用します。

ユニコーンの角は簡単に言えば、一人一人が持つ個性の象徴です。

このユニコーンの角が割れてしまったことで、ローラはこのユニコーンが他の(角が無い)馬とは違うという、引け目を感じることもなくなることに悲嘆の色を残して安堵します。

言ってしまえば、角という個性があることで生きづらかった状態から、角という個性がなくなることで生きやすさを得られたと同時に、現代はそうした角の切除のようなものが行われていることを、泉谷さんは指摘しています。

この個性が失われていく背景には、先程の意義という存在が誤って用いられていることがあります。

ポイントになる言葉は”それが何になるの?”です。

例えば音楽を聴くということで考えてみましょう。

「音楽を聴く意味はなんですか?」と聞かれた時に「聞いていると楽しいから」、「この音が好き」、「音楽を聴きながら本を読むとリラックスする」などなど、音楽を聴く動機を答えるでしょう。

現代では意義が正しく用いられず、「楽しいと何になるの?」、「その音が好きだとどうなるの?」、「音楽じゃなくてもリラックスできるんじゃない?」というように音楽を聴く(楽しむこと)の意義を問おうとします。

実際に音楽を聴くことの意義を突き詰めると「それ音楽じゃなくてもよくない?」とか「音楽いらないんじゃない?」となります。

このような評価をする時に「それって意味ないよね」という言い方をしますが、この場合の意味の使い方は誤っていますし、意義を問うことも使い方として的を得ていないことになります。

なぜかと言えば、音楽を聴くことで定量的な数値として、生産性を評価できないからです。

楽しいとか、心地よいとか、リラックスできるとかは、個人の主観なので数値化できません。

つまり、音楽を楽しむことに意義を求めること自体が無意味だともいうことになります。

音楽を聴くことについては、意義ではなく意味を求める(聞く)ということであれば問題ありません。

意味とは味わうことです。

つまり、音楽を聴いて楽しさを味わうとか、好きな音を聴いて爽快さを味わうとか、リラックスして心地よさを味わうという、個人の喜びの体験を語ることはできます。

そこに他人が介入できるとすれば、その楽しんでいる相手の様子を見て共感するということに尽きるでしょう。

他人が共感ではなく、何かに役立てようと意義を問おうとすると、上記のように「意味ないよね」という結論に至ります。

泉谷さんが、クライアントさんとセッションをする中で、多くの人が意義を問われたが為に、楽しむこと自体に何か生産性が伴っていないという無力感から「何もする気になれない」などの悩みを抱えていることが分かったそうです。

この事について、泉谷さんは、頭(=理性)と心・身体と分けて説明します。

音楽を楽しむ時に心・身体は喜びに満ちているのに、頭(=理性)が意義を問おうとして心・身体の反応は正しく無いと評価し、楽しいという味わうだけでOKなものをどんどん閉ざしていってしまいます。

泉谷さんの表現で言えば、感情に蓋をするということになります。

この頭(=理性)による支配を特には意義というものの使い方を正しく理解して、意味というものが個人の味わうべきもの以上でもそれ以下でも無いことを知るだけでも違うと思います。

楽しさを味わい、頭(=理性)も心・身体が喜んでいる状態を肯定できる(具体的にはもっとプロセスがありますが)ようになることで、クライアントさんは、生まれ変わったように自分というものを再発見できたと泉谷さんは語っています。

このような状態になっていく為のヒントをニーチェのツァラトゥストラを引用されたり、仏教なども取り入れて解説されています。

更に、頭(=理性)と心・身体が一体になった状態というものの先に何があるのかも禅の教えを元に解説しているのですが、その例えが個人的にとてもわかり易かったんですよね。

なんかこの泉谷さんの『「普通がいい」という病』を読むことで、初めて自分がフラットになれるヒントがあるように思いました。

フラットになると、不思議ですが、「あれもしたい、これもしたい」と行動したいというウズウズ感が出てくると思います。

さて、次回は意義を求める現代において日本とドイツの関係について、興味深い相関関係がある点について自分が思ったことをまとめてみたいと思います。

【次回】・意義を求め過ぎる近代~現代
 →日本とドイツに通じる家父長制度が意義の存在を高めている?
 →現代のアメリカ社会はプロテスタンティズムから離脱したい?

コーチングのことも書きたいのですが、ゆくゆくはコーチングにつながっていくことから今回は泉谷さんの本を紹介させていただきました。

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

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