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男の弱さ 〜『ドライブ・マイ・カー』を観て(読んで)

 最近、とは言っても1年以上前のことだが、家族以外で大切にしたいと思える人ができた。彼女と過ごす時間は僕の人生のなかで間違いなく最も強い光を持って輝き、その光はいまも衰えることなく僕の時間のなかにおいて存在を示している。

 もっと彼女と多くの時間を過ごしたい。もっと彼女のことを理解したい。彼女と永遠を分かち合いたい。

 そんな一見すると甘美な欲求は一歩間違えれば、彼女を深く傷つけることもある。上記にある言葉にはどこか所有欲が垣間見える。いくら彼女と過ごす時間が増えようと、他の人と比べて彼女を理解できていたとしても、彼女と永遠を誓ったとしても、僕が1人の人間であるように、彼女だって僕のガールフレンドである以前に、1人の人間である。

 彼女との濃密で耽美な瞬間に触れていると、僕は時折その事実を忘れそうになり、そんな自分に恐れを感じる。

 そんな折に観た『ドライブ・マイ・カー』という映画。村上春樹原作の短編小説を濱口竜介監督が脚本を手掛けて制作した作品だ。映画を観た後、原作小説を買って読むほど、映画と小説が描こうとしていたものに心を打たれた。僕は本作に、一つの「男の弱さ」を見た気がしたのだ。その弱さとは、自分の弱さと向き合うことができない「弱さ」である。

「男の弱さ」自分の弱さと向き合えない"弱さ"

 愛する妻を亡くした舞台俳優、演出家の家福(西島秀俊)と、高槻(岡田将生)が車内で会話をするシーンが印象的だ。妻を亡くしてから、その喪失感と妻が抱えていた”秘密”に苛まれる家福と、身体を重ねたことで、妻とその”秘密”を共有した高槻。深夜の高速道路のなかを2人は車内で見つめ合った。

 小説においては車内ではなく、バーでオン・ザ・ロックを傾けながら話す。家福は亡くした妻のことを「本当には理解できていなかった」と語り、それが「何よりつらい」と語っていた。そんな家福に対して、高槻は以下のように語る。

高槻「(・・・)でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。(・・・)本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。」(太字は記者による)
小説より抜粋

 この一節は、他者理解の諦めと他者との付き合い方に関する一つの考え方を提示している。どれだけお互いのことを理解していると信じていても、全てを理解することは不可能であり、そしてもし他者を理解したいのであれば、まずは自分を見つめなくてはならない。ガールフレンドを「他者」と表現することはどこか冷たいようだが、どこまでいっても彼女は他者だ。

《鏡》としての他者

 この一節を反芻するなかで、鷲田清一先生の『顔の現象学』という本が想起された。「顔」に焦点を当てているが、僕はその根底にあるものは他者理解への諦めだと読んだ。そして、本書でも、他者と自己の関係性を以下のように論じていた。

わたしとわたしの顔とのその絶対的な隔たりを埋めるもの、あるいは消去するものとして、おそらく他者の顔はある。わたしの近づくことのできないわたしの可視性にそのつど応じてくれるものとして、つまり わたしの《鏡》として、他者の顔はある。(太字は記者による)
鷲田清一『顔の現象学』(1998) 講談社学術文庫より

 「わたしの《鏡》としての他者」という論は、裏を返せば”わたしの顔”は、他者の《鏡》であるということができるのではないだろうか。つまり、他者を理解しようと思うのであれば、他者と相対したときの自分自身を見つめなくてはならないのだ。

 僕らは心のどこかで、愛する人のことをすべて理解することは不可能であり、そう願うなら自分を見つめなくてはならないことを知っている。作中の家福もそうであったし、ぼく自身もこの一節を読んだ際に感じたものは、新鮮さとは異なるものだった。

 愛する人のすべてを知りたい。そんな欲求を持った、少なくとも僕と家福は弱い。しかし、弱い自分をどこまでも拒絶する。そして、その”弱さを拒絶する”ことこそ、僕が本作に見た”男の弱さ”であった。同時に、弱さを受け止めることができた時、ぼくらは強くなる。それは、愛する人を守ることができる強さに繋がっている。23歳、若輩者のぼくは、そう思うのである。

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