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「笑い」の持つパワー ‐‐『ライフ・イズ・ビューティフル』感想メモ 2021/7/31の日記

・『ライフ・イズ・ビューティフル』を観て、昨日まではそれを題材にしたレポートの執筆に追われ、バイトに追われ、なんだかとても忙しかった。

・おかげでレポートは過去最悪の出来で、大学4年にして初の「落単」の二文字がくっきりと見えている。「卒業単位数は足りている」という余裕が生み出した怠惰と、計画性の無さが原因だ。

・それでも、せっかく映画を観たのだから、こちらでレポートの内容をかみ砕いて、感想記事を書こうと思う。

・1997年に公開されたイタリア映画『ライフ・イズ・ビューティフル』。コメディアンとしても名高いロベルト・デニーニが監督・脚本・主演を務める作品で、第二次世界大戦下のナチス・ドイツによる「ホロコースト」をユダヤ系イタリア人の家族から描いた。

・物語の序盤は、主人公・グイドと後の妻であるドーラとのラブロマンスを基調に進み、息子・ジョズエを授かると戦争の足音が大きくなる。強制収容所に舞台を変えてからは圧倒的な絶望を目の前にするのだが、グイドはジョズエに対して「これはゲーム」だと説き伏せ、その絶望の一切を悟らせないように努めた。最後の最後まで最愛の人の「笑い」のために生きたグイドの姿勢に感涙必須だ。

自身の「ホロコースト」に対する理解の欠如

・「ホロコースト」について、東京五輪開会式で演出を担う小林賢太郎氏をきっかけに最近耳にすることが増えた。小林氏がコントで揶揄した事実は決して許されないが、この問題を通して私が思ったのは、その災厄について理解が欠如していることだ。

・私たち日本人は「ホロコースト」と聞くと、アウシュビッツでの大量虐殺を思い浮かべるが、決してそれだけにとどまらない。本作の舞台であるイタリアでもあったし、他の強制収容所でも行われた。

・そもそも、「反ユダヤ主義」は第二次世界大戦以前の昔からヨーロッパで蔓延る問題だった。それが第一次世界大戦をきっかけにドイツで過熱し、当時隆盛していた「優生学」が加わることで、ナチス・ドイツによる「ホロコースト」に繋がる。

・私は残虐性の実態もさることながら、反ユダヤ主義が持つ歴史性に対する理解の欠如が、今回のような問題を生み出したと感じた。理解を深めていかないと、日本は「人種差別」という問題に対する根本的な解決に向かわない。

・そんな歴史的な災厄を本作はグイドによる「笑い」で表現する。そこには喜劇性の中に、深い悲しみが垣間見えた。絶望や悲しみを「笑い」や「喜劇性」で包み、私たちに考えを促すのだ。

「笑い」の持つエネルギーの強さ

・絶望の中、グイドは最愛の人の前では最後まで「笑い」をもたらし続けた。ジョズエにとっては純粋な「笑い」であり、そのなかに生きることで、戦争の絶望の大きさに無知でいられた。

一方、グイドにとってはどうだったのか?グイドはどうして、あれだけの絶望の中で「笑い」を提供し続けられたのだろうか?

・それは「愛」というエネルギーもあるが、絶望を「笑い」に還元することである種の「抵抗」を試みていたのではないかと思うのだ。そして、観客である私は、両者の「笑い」を観て、両者の気持ちが分かる立場だからこそ、「笑い」が「悲しみ」の表現として解釈される。

また、「笑い」に包まれているからこそ、「ホロコースト」という凄惨すぎる出来事を何とか受け止めることができるのだ。

・ジョズエ、グイド、観客、それぞれにとって「笑い」の持つ意味が変わる。そうした「笑い」の多層性、そしてそのパワーを感じられる。

・ただ、揶揄するだけでない。真の「笑い」がある気がした。

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