日々是メモ 「読書感想:生と死の解剖学(養老孟司)」
7月16日金曜日の気づき
・植物 なし
・読書 『生と死の解剖学』養老孟司(マドラ出版)を読んだ。(以下、感想長文)
「生と死の解剖学」というタイトルだが、解剖学についてとどうこうではなく、解剖に携わる著者が考える「生と死について」という内容である。”臓器移植に対しての議論(どこで死を判断するのか)”を原点に、日本人の生死観に対して著者の考えが書いてある。
日本の生死観について、普段何も気にせず過ごしているであろう読者に対して、日本人の一般大衆の生死観に対する変化を歴史になぞらえて説明していたり、時間をテーマに問いてきたり、様々な引き出しで生死観について述べている。この本の中では、「こころ」と「身体」についても多く語られている。「こころ」はどこにあるのか、身体はただのこころの入れ物なのか?というようなテーマだ。
こんな風に考えることもできるのか、と私の中には新しい観点が見つかった。そして、デジタル化・精神へのフォーカスが高まっているこの時代。どんどん身体が不必要になっていきそうな未来。そんな未来が現実味を帯び始めている今こそ、この本を読んでみると面白いかもしれない。
1993年の初版ということで、悪い意味で、平成初期から今の日本の社会も人もなんら変わっていないと悲しくも感じたが、平成生まれの私の世代は、いかにいろいろな面でスピーディーな変化の中生きている世代なのだろう、とも感じた。極めて逆の感想なのだが。そう思ったということは、時代は1993年より激しく変化している、ということなはずだ。
日本人を囲む社会や状況(文明的なもの)は大きく変化しているものの、人間の中身は変化していないのかもしれない。
人間の内面の変化は外側(社会や技術)の変化にはとても追いついていないというか、伴っていないのかもしれない。しかし、これは平成生まれの私だから感じる感覚なだけかもしれない。
本か新聞かメディアかなにかで(不明確ですみません)、「戦後よりも明らかに日本は裕福で自由で余裕のある社会になったはずなのに、心の病気や若い人々の自殺など、悲しい死は多いし、日本人の心はむしろ貧しくなっているのかもしれない」という意見を聞いたのを思い出した。人間の精神面について過去と現在を比較することはできないが、「生きると死ぬ」って平和だからこそ何か自分とは別な感覚になってしまっている気は、確かに否めない。
2000年生まれの世代は生死についてどう感じているのだろう、
令和生まれの人たちはどう感じるのだろう(今はまだこの世代は本も読めないけど)、と各世代のちがいがあるのではないかと気になった。
たまには、今必死に生きる普段の生活をすこし頭の片隅において、このようなテーマについて考えを巡らせるのも、大人の贅沢な時間の過ごし方かもしれない。
以下、気になった個所を引用してメモしておく。
自然とは、我々にはなかなか予想がつかなくて、計算ができないものである。そういう、何が起こるかわからない世界は住みづらいと思うように、みなさん育ってきたでしょう。だからきちんと計画して、予定通りにことが運ぶようにしなさいということを、社会は教えています。しかし、しれが行き過ぎると、それがすべてだと考えるようになって、奇妙なものに不思議さを探すようになるんです。
最近、「臨死体験」とか「霊証」というものが流行ったりしているのも、そうことに人間が興味を持つようになってきたこと自体、実は、我々自身が最初から持っている不思議さやおかしさに関する感性がなくなってきていることの現れであって、それはホントはなんでもないことなんです。
(↑こうやって言語化されないと、自分の感性に疑いをもつ機会ももうないので、はっと考えさせられる部分であった。)
なぜ自然を排除するか。それは、自然は予測できない面を必ず持っているから。予測不能なものは、台風や冷害だけでたくさんだというんでしょうね。そうやって徹底的に自然を排除し、コントロール可能な人工物で固めたのが、今の我々の住んでいる社会です。これを僕は「脳化」と呼んでいる。つまりこの社会というのは、すべて人間の脳を経由して形作られているんです。(省略)日本の場合、この排除の仕方がかなり徹底している。(省略)歴史書を読んでも、戦国以前と江戸時代以降は歴然と違う。
著者の養老孟司さんといえば、テレビ番組でおなじみの生物学者・池田先生と共に昆虫採集に海外に行く程の虫好きである。その虫好きの一面を感じることができた文章箇所もあった。(抜粋しないのだが)
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生死観について自然をテーマにした文も書かれていたので、私の自然観も考え直される本であった。
ここ最近で感じるようになったことのひとつでもあったが、平成生まれの私が知っている自然はもう本来の自然ではなくて、「人間の手が加えられた自然」しかないんだろうな、と思う。
自然が好きだ、と簡単に言ってしまうけども最近は「私は本当の自然をきっと知らない」ということを同時に思うのだ。
俗にいう「自然観察する自然」、例えば山や森や蝶や虫たちだけでなく、食する野菜なども、決して昔のものとは違うと思う。
野菜はどんどんおいしくなって、幼少期に食べていたものとは違うと感じることが増えた。同じ「ほうれん草」でも品種の違いということに済まず、きっとあの時食べていた野菜とは全く別物のものなのだろう、と最近は思う。
「ほうれん草も、もう基本的にはどのほうれん草もサラダほうれん草のように茎も柔らかいし、えぐみも少ないものが主流だから、茎からゆでる必要はない」と、料理番組をみて驚愕した。確かに、えぐみは少ないし根元の赤いほうれん草もほとんど見なくなった。ほうれん草の概念が変わっていると目の当たりになった瞬間である。(今のほうれん草の下処理としては、ふつふつしたお湯にさっと浸す程度でいいらしい!茎からゆでるのはアップデートされていないことになる…と思って強烈に印象に残っている。)
時代の変化が速いからこそ、要所要所で自分の考え方を整理して、言語化して、残しておくことはますます貴重になるかもしれないと思った。いつでも振り返れるように。
・人間 フォークリフトの免許を取る際に、「自分は出来る」と暗示をかけてみることを試し、見事効果を実感してから、「出来る、できる、大丈夫」と必要に応じて自己暗示をかけるようになった(笑)。
もちろん、少しでも根拠をもてるように事前準備を怠らないように心がけて。
・育児 最近、また癖のある夜泣きが復活した。室温にも注意をして、少なくとも去年の夏よりは居心地のいい寝室空間を作れているはずなのだが、なぜだ?と考えた結果、「布団が子供用」なことが原因かもしれない。寝相が激しく、布団で寝れてないことが不快で夜起きてしまうのかも…。大人用の布団でねてもらってみようかなぁ。
・ニュース オーストラリアで「黒い悪魔」と呼ばれる動物が3000年ぶりに自然交配に成功したというニュース。3000年ってなんでわかるのか…という部分が気になって仕方がなかった。(※朝のテレビで見聞きしたニュースなので3000年が確かかにわかに自信がないものの、確か3000年って言ってた気がする…怪しいが…
・エンタメ ジブリ三鷹の森美術館が経営継続のためのクラウドファンディング(目標1千万円)を始めたら、1日で80%達成していて、先ほど確認したらすでに目標達成していた件。さすがジブリ。
・今日のおめでとう 睡魔に負けそうだったが、すべきことをしてnoteを書いて言語化の練習ができたこと。昔の自分なら寝ていた。
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