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売れない作家の末路〜おばあちゃんのガソリン

私は中年になる今まで、売れない物書きを続けてきた。
他の仕事に就いたことは一度もない。

保育園児の時に、覚えたてのひらがなで綴った物語が実家に保管されているので、記憶にもない幼少の時から、自分の空想を書き続けてきたことになる。
魚が生まれてすぐ泳ぎ出すように、ペンを持った日から毎日書き続けた。
私はそういうふうに生まれた生き物だった。
私の人生の殆どは空想の中にある。
学校にいても、家族と居ても、常に脳みその半分は自分で作り出した向こう側の世界に没頭していて、大人から見たら、いつも心ここに在らずで、まともな集団生活のできない、問題のある子供に見えていただろう。
他人に馴染めず、まともに学校に通えず、他の生徒が帰ってから放課後に支援学級に行っていたこともある。
現実から外れた場所にいて、空想の世界が自分の住処で、そこから双眼鏡を逆さに除くように世の中を見ていたので、現実の自分の名前を呼ばれてもしっくり来ない。
今思えば離人症のような感覚で生きていたと思う。
親や友達から見えている私は氷山の一角で、水面の下にある私の妄想王国のことは誰も知らない。
そこが私の住処で、私の遊び場だった。
私はその世界のことをずっと書き続けた。
ペンを持って、余白があれば、チラシの裏でも、教科書の隙間でも、どこでも埋めてしまう。
何も書かなかったのは修学旅行の日くらいだ。
書けば私の妄想は、ただの現実になる。
紙の上にあって、手のひらに乗せることもできる。
それを友達や家族に読んでもらうこともできる。
書くことは私にとって、真の意味でのコミュニケーションだった。

高校生の時、東京から編集者が訪ねてきて「あなたには才能がある」と言った。
初めて他人に認められ、これからこの人についていけば新しい人生が始まるんだ、と思った。
ルネッサンス時代の宗教画のように、天から神が降りてきて、自分の全てが救済された瞬間だった。
私は私に名前をつけた。
ペンネームだ。
本名よりずっと自分の本当の名前に思えた。

それから、壊れた蛇口のように、書いて書いて書きまくった。
毎日12時間も書いた。
時には何日も徹夜して、誰にも会わず、他のことは何もせず、鍵を閉め、カーテンを閉め、ヘッドホンをして、ダイバーのように向こう側の世界に潜り続けた。
紙の上を走る自分の手が、暗闇で轟々と燃えている。
もはや現実の世界は、食事と排泄をしに戻ってくる場所でしかなかった。
書くものがない時でも締め切りはやってくるので、指を突っ込んで吐くようにしてでも書いた。
自分を救済して、物語を授けてくれる、神に報いなくてはと思っていた。
季節が変わるのも、歳をとるのも尻目に、全てを捧げて書き続けた。
毎日毎日、
何十年も。

そうやって書いたものは、
ひとつとして、
売れなかった。
熱狂的なファンはいくらか付いて、その存在は幾度も自分を救ってくれたけれど、
商業的にはギリギリ採算が取れる程度。
それでも生活に不自由することがない程度の収入は確保できていた。
しかし近年には、出版社に赤字が出るようにな数字になってしまった。
そうなると、熱心に援助してくれていた編集者も、スッと離れていく、
仕事をする場がどんどんなくなっていく。
慣れない持ち込みの営業をしても、編集者の言うような修正がうまくできなくて、断られてしまう。

あまりに独りよがりに創って来たのが悪かったのかと、脚本術やシナリオ作法を読み、売れている作品も研究し、今までの自分の作品のどこが悪かったのか必死で分析した。
流行っているジャンルや受けそうなネタも考えた。
そうやって、売れるための万全の準備をして、作為的に作ろうとすると、一粒の言葉も自分から出てこなくなる。
凍りついたように手は止まってしまう。
描くことは私にとって排泄のような行為で、世はピンク色が流行っているから、ピンクの糞を出そうとしても無理に決まっている。
排泄物の色は摂取した食物に左右されるだろうが、何を摂取してきたかは、私がどう生きて来たかということであり、ピンク色の生き方なんかしてないから、ピンクの糞が出るわけない。
他の人が書くようなものは、私には書けない。

その間にも排泄物は溜まり続けるから、いつものやり方でまた書き始める。
止めどなく出てくる。
私にはこの方法しかない。

新しい作品を作っているときは、爆弾を作るテロリストみたいな気分だ。
これが世の中にぶちまかれたら、大変なことになるだろうとほくそ笑む。
世界中の人間が、私の想いを思い知るだろう。金も入ってくるだろう。

でも、一度として、大爆発は起こらない。
小さな爆竹みたいな、ニュースにもならない、
みじめな私の爆弾。

お互い売れずに励まし合っていた作家友達は、それぞれが苦節を乗り越えてついにヒット作を掴んだ。
その本をお祝いに買ったのに、帯に書かれた「何十万部突破」という文字を見ると苦しくて、中身を読めずに本棚の奥にしまってしまう。
友達の成功を喜べない自分が恥ずかしく辛い。
テレビや映画はヒットした原作を実写化したものばかり。
電車や新聞に華々しく広告が載っている。
これが自分の作品ならどんな気持ちだろう。
出版社は売れる作品にしか広告費を使わないから、自分の作品の広告を街中で見ることはない。
同級生は子供が成人し、親に家を建てたりしている。

命もいらないほど書くことに全てを捧げ、結婚していなくても、子供がいなくても、家がなくても、書いてさえいれば全然大丈夫だという自信があった。
生まれたら泳ぐ魚のように、私は書くように生まれたんだから、
他の人とあまりにも違う人生だけど、
絶対に、大丈夫と。

だけど今日、また新しい本がまるで売れなかった。
同じ事を何度も繰り返し、もう、今度こそ、と思えるような気力は残されていなかった。
自分の作品には何か決定的な欠陥がある。
とっくに証明されていた事実に、ずっと目を瞑って居ただけじゃないか。
むちゃくちゃに泣いて、一年かけて作った本をビリビリに破いた。

本を引き裂く時、生き物の腱を引き裂く時のような、ブチッとした感触と、小さな悲鳴と、滴る血が見えるような気がする。
私は微かな痛みを感じながらも、一気に力を込める。
ウクライナ戦争の影響で紙の値段が上がり、1番安い紙しか使ってもらえなかったから、思ったよりも簡単に本は真っ二つになる。
デザイナーさんが考えてくれたカバー、編集さんが作品を讃える言葉を添えて巻いてくれた帯、手触りまで考えて選んだ表紙を、引きちぎって引きちぎってバラバラにしていく。

ばら撒かれた断片に印刷された細切れの文字は、引きちぎられて意味のないものになっていく。
でも私には、私にだけは、それがどこのどんなシーンかわかってしまう。
この紙くずは、あの夜、苦心して搾り出したあのページだとわかってしまう。
千切れた紙屑の中に、登場人物がいて、海があって、鳥が飛んでいて、物語が息をしている。
生け作りにされた魚がまだパクパク息をしてるみたいに。
私はお構いなしにどんどんどん紙屑をゴミ箱に放り込んで行く。
この世に必要ないゴミみたいな作品を年月かけて書いていたのだ。
ゴミはゴミ箱がお似合いだ。

以前境界性人格のリストカットについて書いたが、これは私にとって自傷なのだ。
誰かに八つ当たりしたいが、どう考えても自分のせいなので、攻撃対象は自分の本になる。

もう、しのうか、
とか思ってみる。
安易で実に馬鹿みたいだ。
今のところ健康で、全身に血液が脈打ち、生きようとしている60兆個の細胞を、息の根止めるまで締め上げるのは、とんでもなく大変だろうなと想像する。
今の自分にその気力はない。
体は死にたがる私などお構いなしに、もう目覚めたくないのに瞼を押し広げ、腹を空かせて何か食わせろ、と言う。
仕方なく冷蔵庫の残り物で何か作ってやる。
まだ私は私を養う気なのかと呆れる。

報われなかった割に、自己肯定感は強い。
自分の本はゴミなのだと言い聞かせるためにゴミ箱に捨ててみたけど、本当は間違った物を書いたなんて1ミリも思ってない。
私と同じくらい、私の本は脈打って生きている。
バラバラにされても、ゴミ箱の中でも、まだどうしても生きている。
私は本当に死ぬほどには、まだ自分を嫌いになれていない。

この恥知らずの自己愛はどこからくるのだろうと思う。
おばあちゃんの顔が浮かんでくる。

アドラー心理学では子供は叱っても褒めてもいけないらしい。
叱ると叱られないように回避行動をとり、褒めると報酬を求めて行動するようになるから、らしい。
しかし、私の周りの大人たちはとにかく私を褒めて育てた。
それは子どもに対する「おだて」ではなく、本気の「心酔」だった。
特におばあちゃんは、常に私を天才扱いした。
子供の頃、私は歌うのが好きだった。
おばあちゃんは、3歳の時に私がこれだけ歌えたという童謡の楽曲リストを書き出しいて、いつまでも大事に持って居た。
子供の頃描いた絵や文章を、宝物のように保存していた。
小学校の頃作文で賞を取った事を、私が大人になっても自慢していた。
私がプロになってから書いたものは、おばあちゃんには難しくて理解できなかったようだ。
それでもいつも私の本を眺めて褒めてくれて、自分の孫は世紀の大天才だと死ぬまで信じて居た。
それで私も自分を天才だと思い込んだ。

中学生の頃、クラスの男子全員にいじめられたことがある。
掃除の時間、私の机だけバイキン扱いされて誰にも運ばれず、外を歩いていると石を投げつけられた。女子は全員見て見ぬ振りをした。
それでも、自分をいじめる奴らの見解に流されて、自分はバイキンだから死のう、なんて一度も思わなかった。
自分には絶対にすごい価値があって、いつか世の中にそれを思い知らせると、心の底から信じきっていた。

おばあちゃんの注ぎ込んだガソリンは、まだ体の中に少しだけ残って居て燃えている。

親も私の仕事をいつもたくさん褒めてくれた。
親が死んだら私は誰に褒めてもらうために仕事をすればいいんだろう。
その時にもまだガソリンは残っているんだろうか。
1人で、誰にも知られぬ妄想を抱えて居た子供の頃から、ずっと書き続けて、
いつかみんなに必要とされて、電車の中にも新聞の中にも自分の書いた世界が溢れて、誰もが私の世界を知ってくれて、氷山の下の世界が現実に共有される未来は、
きっともう来ない。
喉から手が出るほどそれがほしくて、嫉妬する心を抑えて、いつか自分も、と鼓舞して、階段を這い上がるように生きて来たけど、振り向くと今まで登って来た階段はどんどん消えていく。
後戻りすることもできないし、もう登る力もない。

ガソリンはまだあるけど、車にガソリンを入れても空は飛べない。
魚は鳥になれない。
そのことに気づかず、自分もいつか空を飛べるはずと思い続けていたんだ。

ドブ川に浮かんでる魚の死体を思い浮かべる。
白くふやけた体はところどころ破けて、澱んだ川の流れに押されながら、ゆっくりと水の中を転がって行く。
転がるうちに、腐った体はふわふわとちぎれ、やがて体は闇の中へ沈んでいく。 

泳ぐ生き物として生まれて、誰に教えられることもないままに泳ぎ始めて、
泳いで泳ぎ着いた果てがそんな最後だったとして、
魚は自分を恥じるだろうか?
きっと自分を憐れむ涙一粒だって流さないだろう。

私はそんな誇り高い最後を迎えられるだろうか。

人生はまだ続く


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