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愛じゃないものにしがみつくのは何故

愛じゃないものを
愛だと思い込んで混乱しているからです。

いつものふと考えたことをまとめただけの
すぐ終わるシリーズです。

こんなことを悩んだことありますか?

・好意を向けられる対象や状況が気持ち悪い
・好意を持つと自分が徐々におかしくなって
 対象または状況に不自然に暴走して
 気味悪がられる
・興味のない対象にしつこく絡んで嫌われる
・他人を自分と平等に扱えず、距離感を誤る。
 賞賛が過ぎるか、ふざけがすぎるか、
 怖いから遠ざけるか、
 ストレスになるのに距離を詰める
・人といると無意識に緊張し我慢しているため
 よく寝込んでしまう
・裏切り、いじめ、報われなさを
 よく経験する

自分の中で
好意と冷淡さ、愛情と憎悪、関心と攻撃性が
入り乱れているからです。

言うことなすこと本心でなく、
抑圧が行われすぎた結果であるため
いざ「感じるべき、表現すべき」感情を
言動にアウトプットすると
とことん誇張がすぎて
不自然で自分にも他人にも
不毛な嘘と大根演技をかます
ハメになっています。

私はトラウマのようなノリで
記憶の苦しい断片がよく
フラッシュバックする者です。

箇条書きのことは昔長年
ひと通り繰り返してきました。

今はさすがにそこまで自分に痛みを
呼び寄せるような行動に
支配されることはなくなりましたが、
人との関係性を自然には
力を入れて築かなくなりました。

しかしこちらが自分の自然でした。
気づくまでは一般的な「輪の中にいる状態」を維持しようと、仕事またはサバイバルのように限界を超えて頑張りすぎていました。

基本的には人といると喜びよりは、
「こうでもしないと排除される」
「得するためだ生きるためだ」
という恐怖とストレスに
駆り立てられていただけで、
裏目に出たり疲れ果てたりするのを
繰り返していました。

そういう過去の経験が
根強い孤立感を作っています。
断片がフラッシュバックすると
何故そんな経験ばかりして
今も上手く人と関われないのだろうと
トラウマの暴風の中を歩きながら考えます。

理由のひとつは親でした。
親が「自分のため」とか
「愛情である」という文脈で
全然そうではない
気まぐれや不誠実なことをしていたのですが、

決して前提の文脈の否定を許さなかったので
混乱を習得してしまいました。

「嫌なものが愛だったりするらしいので
『喜んで』と快く受け入れ我慢強くあるべき」

「私が不快に感じても
 おかしいのは私の感覚のほうだ。
 普通じゃないのを隠して
 他人が共通の『普通』を楽しめるように
 理解されない自分を押し殺すべきだ」

この2箇条は
正常な感覚を捻じ曲げるのに十分でした。

ナンセンスであります。
偽って自他を疲弊させ不快にさせた上
冷淡で敵意を溜め込む孤独な人間が
ますます出来上がっていくだけでした。

これにふと気づいたときにハッとしました。

自分の中の自動修正が引き起こされました。

つまりは、
ストレス下の自分から出た
偽りの歪んだ愛情表現も
他人からの不誠実で不愉快な好意も

それは愛情が不快なものである
ということにイコールするのではなく

不快なものが愛情ならば自分が悪いという
誤った関係付けを辞め、
ただ嫌だったという素直な気持ちに留まり
愛情だの憎悪だのの二次解釈災害を
発生させなければいいだけでした。

視野の曇りも胸の鉛も
スッと払われていくはずだと
確信をもって気づきました。

不快は誤解によって
発生するかもしれませんが、
強迫観念で我慢して耐える癖を
解かないと、
何重も自分を傷つけて
視野がクリアであれば
見えていたかもしれない
誤解の手がかりも
決して見えてきません。

No, Thanksの精神と誠実さは
自他との健全な関係性に
不可欠と再認識しました。

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