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真理子のリアル人生劇場〜波瀾万丈 初めに。
生い立ち・恋愛・結婚・離婚・夢・・・そのさまざまな人生のステージで
その時ごとに予想もしなかった局面にもがきながら生きてきて、振り向けば
ナント波瀾万丈な人生であったかと。
少しづつ語ります。
誰かの心に届く場面があればと願って。
①〜〜生い立ち〜〜
7才の時だったか、
「この人が今日からお母さんだよ」って父に言われて会わされたその人は目鼻立ちのはっきりとした美人な女の人だった。
あたしのママはどこに行ったの?
父は言った。
「ママはお前達を捨てたんだ」
あたしは幼かったけど泣いたりしなかった・・・ただその時あたしの心には小さな穴が空いた。
起きた事の意味は幼いあたしにはよくわからなかったけど、(ママは居なくなってこの人が次のママになったんだ)って受け止めたのは確か。
その時から生活が激変した。
父と新しい母は商売を始め、メチャメチャ働きだして、あたしの事など見向きもしなかった。
あたしの長い髪を毎日ママがとかして結ってくれてたけど、バッサリと短くされて男の子みたいになった。
知らない家に移ってほっとかれて心の中が落ち着かなかった。
そしてふと思いついた。
そうだウチの商売で使ってる手さげ金庫の回し鍵の番号を覚えて、鍵を閉めちゃおう、そしたら、真理ちゃん、開けてってパパや新しいお母さんが言うから、いいよあたし開けられるよってあたしが開けたら
真理ちゃんすごいねってあたしの事振り向いてくれるって思った。
鍵の番号を見て記憶してから回して閉めて、ドキドキしながら待ってた。
父が近づいてきた!
「お前が閉めたのかーー!」
「うん、あたしね鍵の番号知ってる」
「ふざけんな!今すぐ開けろ!」といきなり殴られて、父は激昂してあたしの片腕を引っ張って家の中を引きずっていった。
手さげ金庫の前で突き落とされて、
「開けろ!」と怒鳴られてあたしは恐怖で体は硬直しながら鍵をあけた。
父は金庫を持ってさっさといってしまった。
あたしは放心状態で、声はあげなかったけど
泣いていたんだと思う温かい液体が頬を伝ってきたから。
それが恥ずかしくてすぐに拭った。
引きずられた背中もすごく痛かった。
その痛みと哀しみの中であたしは父に心を閉し、そしてこれから先、絶対泣かないと決めた。
その時からあたしにとって父はただ恐怖の人になった。
それから父は日常的な些細なミスでも殴ったり怒鳴ったりした。
醤油をこぼしてしまったとか、呼んですぐ来なかったとか・・・。
それでもあたしが10才になって妹が生まれる迄はまだましだった。
あたしが10才の時妹が生まれた。
小さなまるっとしてかわいい妹。
大好きになった。
でも小学校から帰ると妹の面倒をみなければならず、友達と遊びには行けないので友達に遊びに来て貰ってお風呂場で(自分の部屋などない)妹を側に置いて遊んだ。
夜には妹をおぶり、小柄なあたしは三輪車に乗って、父達が商売の片付けの終わる夜の12時近く迄、待っていた。
毎晩、背中に妹を背負い、あたしが作った物語を聞かせた。
その内おばさん(継母の妹)が妹をおばさんの家に連れていって面倒を見てくれるようになった。
その頃、私(11才位かな)と兄は2人でアパートに住むようになった、理由はわからない。
夜になると兄と二人で父と継母の家から古いアパートに帰っていった。
子供の二人暮らしって今思えばありえないね。
でも父と継母のいないアパートは全然寂しいとかなくてむしろホッとしてた記憶。
朝はアパートから何も食べるものもなく学校に直接行ったので空腹だった記憶がある。
小学校の運動会の日、親が見に来てくれた事はもちろんないが、お弁当も作って貰えなかった。
昔の運動会のお昼は家族が持って来たお弁当を家族と一緒に校庭で食べた。
昼時、心細さでいっぱいの頃、兄が何処かで菓子パンを買ってきて手渡してくれた。
それを握りしめてひとり立って居ると友達のお母さんが、「ここに一緒に座って食べよう」と言ってくれてそこのレジャーシートに座らせて貰った。
「良かったら食べてね」と差し出されたお重箱には見たこともないオカズが色々入っていた。
「ステーキだよ」と友達が教えてくれる。
何て素敵なお弁当なんだろうと思った。
運動が大好きだったあたしは運動会は好きだったけど、運動会の食事は哀し過ぎた。
その後ももちろん運動会に親が来ることなどなくお弁当を持っていった事もない・・・。
一方で家の商売は繁盛して、新しい住宅付き店舗に引っ越してあたしも小学校を転校した。
そして転校した小学校では運動会の昼食は生徒たちだけで教室で食べることになっていた。
あたしはもうその頃には自分の家庭が大嫌いだった。
小学生の何年生だったか忘れたけど、兄と二人で家出して祖父(父方)のところにいった。祖父は何も言わなかったが、祖父の後妻さんが「あんた達は可哀想な星の元に生まれたけど仕方ない」と言われて、そうか、大人になって出て行くしか逃げ道はないんだと思い、嫌々家に戻った。
小学校高学年からは学校から戻ると商売の手伝いをしなくてはならなくなり、「勉強する暇あったら働け」言われてとにかく働いた。
休みの日など一日中働いた。
朝食はなしでいつも空腹だった。
働いたからとお金どころかおやつだって貰った事もなく、遠慮がちに夕食にチャーハンが定番だったかな。
妹が幼稚園に行く時お弁当を作って貰っていてそのおかずのウインナーが余れば1〜2本、朝それを貰えた。
商売は食堂だったが、家庭用の余分な食品はいっさい買ってないので、何かを勝手に食べるような事もできなかった。
いつもお腹が空いてた。
妹のお弁当の食材はあってもあたしには食べるものがない・・・あたしには飲むものは水しかないけど、妹用には乳酸菌飲料が買ってある・・・それを飲む事は出来ない。
継母は妹にずっとビオフェルミンという錠剤を飲ましていた。
妹は病気なのかとずっと思っていたけど、それは腸の健康の為の乳酸菌だったと知った時、一錠さえ貰う事も出来なかったのがこの家でのあたしという人間の状況だ・・・あたしの居場所などここにはないのだと知った・・・18才になったら絶対出て行こう・絶対・・再度誓った。
ピカピカの新品の家具の揃った妹の部屋。
その隣のあたしの部屋はほぼ誰かのお古の古く暗い家具ばかり。
ねえ、何でそんなに差別するの・・・血が繋がってないから?
「勉強する暇あったら働け」と言われて勉強する暇もなく働いたけど、クラスでずっと上位だったよ・・・。
運動会に来てもらった事もなかったけど体育も5か4でリレーの選手だったよ
絵も上手だよ、漫画家になれるねって言われる位。
でもそんな事関係ないんだね・・・何の愛情にも値しない存在なんだよね・・・
それからもあたしは学校から帰ると働いて休みの日も働いた。
高校は進学校だったから何も勉強しないままでは少しづつ遅れていった。
ある日の下校時に友達が言った
「これからお母さんと夕食の買い物。今日は煮魚かな〜」
羨ましかった。
大好きな友だちだった。
でも住んでる世界が違うと思った。
あたしにはない普通の家庭。
7才の時に私の心に空いた小さな穴は少しづつ大きくなって、今ではいつも心の中に寒々しい風が吹いている。
17才だったかクリスマスに友達が集まるって時、どうしても行きたかった。
いつも休みの日も友達と遊ぶ事も出来ず友達との時間が欲しかった。
あたしは出かけると継母に言って出かけた。
継母は何も言わなかった。
7時過ぎだったかに帰った。
その夜継母が
「今日は真理ちゃんが居なかったから忙しかったわ〜」と言った。
父がいきなり「何遊んでるんだ!」とあたしを殴った。
1年間休みの日も働き、冬休みは大晦日まで働いてたった1日クリスマスに友達のところに行っただけで殴られなきゃいけないんだろうか・・・。
この人は父親なんかじゃない、とその時思った。
商売が繁盛し、別会社も起こしそれも軌道に乗り、名誉職にも付き地元の名士と呼ばれるほどにもなってた父は人間としてクズだ!と思った。
継母も我が子を可愛がりあたしを労働力としてしかみてなくて、都合の悪い事はあたしのせいにしてきた。
大っ嫌いだ、こんな2人。
家の雑用はあたしがやってきたのだからあたしが居なくなって困ればいい!
それからまもなく家を出た、貯めてきた5万円と紙袋一個分の着替えだけを持って。
次回に続く。
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