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わけると間違う

 われわれは分けてものごとを考えることって実は慣れていて得意だからつい無意識的にやってしまっていて、無意識にやっているからこそやっかいで、瞬間的にその行為を済ませてしまうから瞬時に敵か味方かをかぎ分けて、排除したり近づいたりする。好きかきらいか?とか、合う合わない?っていうのも基本的に瞬時に決めていたりしませんか。仕訳というか区分けというか。

 こういったことと陰と陽にわけるということとは本質的にちがっているのだけれど、ちょっとわかりにくい部分もあるのかな?と思いますのでそういったお話をしてみようかと思います。

 陰陽と五行ってこの世のあらゆるもの、万物を陰と陽、それと五行で説明しようとしている強引さもおもしろいけど、全くもって当てが外れているわけでもないところがまたおもしろいと思っていて、たとえば人間の感情なんかを五行で現わしてみますと、怒り、喜び、憂い、悲しみ、恐れるになります。これが陰と陽を呈して表出されるわけですが、これなんかも人間の感情なんてその程度のものだ、と言い切っているようにも思えておもしろいなと思うわけです。そう考えると人間が持っている複雑な感情なんてこの5つから派生したものなのかもしれませんし、持っていてややこしいなって思っている感情もずっと突き詰めていくとこの5つのどれかに帰結するのかもしれません。

 五行を考えるよりも先に考えるのは本来は陰と陽です。陰陽五行という言葉あるくらいですからそうなのです。たとえばある人が陰だなぁとします。おそらくこの人は陰である、と。その人が悲しんでいたとしてもその感情表現は表からはわかりにくいかもしれませんよ。誰にも告げることなく、毎日の仕事ややらなければいけない日々のことを淡々とこなしながらもただひたすらに悲しんでいるのかもしれません。反対に、この人は陽だなぁっていう人が悲しかったらわかりやすく悲しんでいるだろうし、悲しいですって言うかもしれないし、メールが来るかもしれないし、飲みに誘ったら泣きながら語ってくれるかもしれません。

 そういった部分からも陰と陽っておもしろいなって思います。陽の人に黙っとけって言うとそりゃストレスたまりますよね。内にこもりすぎて爆発しそうになります。陰の人なら全然平気でしょうけど。

 陰と陽でもその強弱や程度によってもまちまちになってきますので、それはそれなりにややこしくなってはくるのですが。

 こういった思考をしていても注意をしないといけないのが陰と陽にわけてっていう考え方です。それも陰がいいとか陽がいいとかって無意識的にジャッジしてしまうことです。ほんとうに無意識にやってしまっているので注意がひつようです。思った以上にわれわれは得意ですので。

 陰と陽の成り立ちは陰があって陽があるわけではなく大いなるもの、これを太極って言うのですが、その太極が陰を呈したり陽を呈したりするだけで、そもそも同じひとつのものなんです。

 でもなんだか無意識的に分けてかんがえてしまう癖がありませんか?たしかにスポーツを観るときとかも純粋に競技として観るよりも、誰かやどちらかのチームに加担して観た方がおもしろくありませんか?勝った負けたって楽しむのってどうしても何かに加担した時です。好きなチームが勝ったとか応援している選手が優勝したとか。そういった話題ってニュースにもなりやすいですし、人々の熱狂を生みます。先のラグビーのワールドカップなどもそうですね。日本チームが勝ったらうれしい、とか。

 われわれはそういったものの観方に慣れていますし得意なのです。普段からやってしまっていますから。ですからわかっていても陰がいいとか陽がいいとかっていう発想になってしまうのですね。

 ものごとのすべてを善悪で区別することはそれはできないですし、とても窮屈な社会になるのでは?と思います。みんながいつでも善の側でいれるとは限らないですし、善の側にいつづけることも大変な苦労があるでしょう。悪の存在を許さない社会は寛容ではありません。息が詰まりそうな社会です。寛容でない社会はとても窮屈で生きにくそうですね。しかし、ほんとうは悪があるから善があるのです。

 世の中の人が美しいものの美しいを知るのは、それは醜いもののあるからであって、陰があって陽があるっていうわけではないけれど、美しいものは美しいものだけでは存在できないものなのです。病気があるから健康が有り難いと思う。そう考えると健康を有り難がる人は病気だったり不健康を知っている人なのです。そうでなければ健康になんて興味もないことでしょう。病気があるから健康という概念もあるのです。

 まぁ健康という考え方が病気がないという程度の概念はもったいない話ですがね。たとえがうまくなかったですね、これは。

 そういった二極化したものに優越をつけるのはほんらいではありません。どちらでもいいんです。どちらも同じことなのです。どちらが優れていてどちらが劣っているということもないのです。でも今の社会はそういった潮流が強すぎてすべてを優越や比較対象で飲み込んでしまっています。

 陰極まれば陽になる 陽極まれば陰になる。という言葉があるように偏り過ぎたものは反対側に大きく転換します。さっきの例で言いかえてみますと善が極まって悪になる。美が極まって醜になる。こんなことってさもありなんって感じですよね。元々からひとつの同じものをわけて考えて価値づけることにそれほど大きな意味はないように思うのですが。いかがでしょうか?


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