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わが子にがんばってほしいと思うことがいけないことなの?


下記の記事ですが、ちょうど一年前にブログで書いた記事です。

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 昨日は小学校のマラソン大会に出かけました。本来ならば火曜日にマラソン大会はあるはずだったのですが、雨天順延のため、水曜日の開催となり、奇跡的に観に行くことができました。

 マラソン大会といっても距離は短く、学校の周りをクルっと一回廻って帰ってきて、おしまい。というものですので、あっという間に終わってしまいます。

 というわけで、観に行くにあたっての注意点はとにかく時間厳守!
遅れようものならわが子の学年が終わっている・・・ということもあるのです。

 学年ごとに走るのですが、一年生から順番に、とはならず中学年、小学年、高学年という順番です。わが子は一番最初のグループですので、なおさら時間厳守!!なのでした。

 あわてて着替えて、会場入り。

 雨天順延のせいか、来ておられる保護者の方もまばら(多分、火曜日の開催日にお仕事の休暇をとっておられたのでしょう)でした。

 いやぁ、結果(順位)はともかくとしてがんばっていましたね~。
わが子は本人でもびっくりなくらいがんばれたそうです。

 一生懸命に走る姿はうれしかったです。
 仕事中の妻にもlineでほめてあげて、と送る。
 わが子は家に帰ってから得意満面で妻に報告し、妻もほめてくれたようです。

 ほんとうにうれしそうでした。

 ここで現れたのが親の欲目 いかんいかん!です。

 親の欲目は愛だろうか?
 欲目というからには欲にまみれたものだろうか?
 親の欲目は信頼だろうか?

 他人と比べることは本来、意味はないものなのだけれど、本来の自分というものがほんとうにあるのかどうかも疑わしい。

 人は自分の言葉のように話したり、人は自分の気持ちのように話したり、語ってみたり、信念として大事にしたりするものなのだが、そうは言ってもどれもこれも他人の言葉や、他人を投影して出てきたものだ。

 誰かの持っている信念が強固であればあるほど、その発生した場所を調べてみるといいと思う。

 おそらく本人的には否定したいだろうが、他人から派生したものだ。

 では、本来の自分とは・・・?

 親の欲目が現れるとき、ぼくはわが子に投影している。
 しかし、わが子を通してその欲目を現実化しようとすることはあってはならない。

 その反面、誇らしげに、うれしそうにマラソン大会のことを話すわが子のことをぼくも自分のことと同じように誇らしく思っているのだ。

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↑ ここまでが一年前のブログ記事でした。


 がんばって書いているなぁ~(笑)
 それと同時に昨日のことのようにわが子のがんばっている姿を思い出しますね。

 この記事の中では、欲目のはじまりがどうのこうの言っていますが、すべてのものごとのはじまりは愛です。愛からすべてがはじまります。たとえそれが憎しみであったとしても、そのはじまりは愛です。愛するがゆえに憎むのです。憎しみでさえ愛からはじまる、生まれるわけですから、それ以外のことは言うまでもありません。

 一年前にはわからなかったことですが、一年たったらこういったことも言えるようになったのですね。すべてのはじまりは愛だ!なんて。ぼくも成長したのかな(笑)?

 ちなみに今年のマラソン大会は順延もなく、無事予定日に開催されましたので、ぼくは観戦できないまま終わってしまいました。しかたないですよね~、日程変えてほしかったなぁ~。

 代わりに仕事を休んで観に行ってくれた妻に聞いてみたら「がんばっていたよ」でした。わが子に聞いてみても「がんばったよ」って言っていました。

 そのくせにその日の宿題の日記には全然違う内容のことを書いていました。保護者がサインをして次の日に先生に日記を提出するのですが、マラソン大会って?って思うほどノータッチでした。マラソン大会はキライなのかな?


本日もお読みいただき、ありがとうございます。

読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。