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あの日燃やせなかった二枚目の遺書
あの日、僕は一度死にました。
正確には今現在生きてはいるのですが。
鬱の症状で何もできず、正体不明の不安に襲われて。
とにかく毎日が辛くて辛くて。
何もかもが苦しくて苦しくて。
ただただ時間が過ぎていくだけの日々を送る自分に堪らない程に嫌気が差して、自分が生きていること自体が申し訳ないと思い込み、その先を生きることに絶望していたあの日。
確かに、あの日あの時首を括った際に僕は一度死んだと思うのです。
ただしそれはもしかすると心がその時に一度最期を迎えたということなのでしょうか。
その後、幸か不幸か拾ったこの命。
僕はまたその命を捨てようとしました。
そしてまたもや命拾いしたのです。
未だにそれが良かったことなのかどうかはわかりません。
本来であれば僕はもうとっくのとうにこの世に存在していなかったはずなのです。
あの日から僕の中で"死生観"というものが変わった気がします。
言葉の本来の意味とは少し違いますが、あれから生きた心地がしているとは思えないのです。
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ところでひとつお伺いしたく思います。
あなたは遺書を書いたことがありますか?
僕は二度ほど、遺し書きをこの世に置いてあの世に行こうとしました。
あの世に行こうとしたのは二度ではありませんが。
しかしながら何れも失敗に終わりました。
初めて書いた遺書。
冷やかしや冗談なんかではなく、本心を綴った胸の内からの遺書。
下手な字で色々と書いた記憶があります。
大まかな内容は拙いながらも友人などへの感謝の旨を伝えて欲しいということと、なによりも家族への感謝の気持ちを書き記しました。
思ったより長文ではなかった気がします。
きっと端的にまとめたのでしょう。
でないと、長く書くと書いているうちに未練が生まれてしまうから。
恐らく文字数にして300文字足らず。
その300文字以内に、これまでの人生の締めくくりを便箋だかルーズリーフに書き認めたのです。
その遺書を書き終え、さあこれで今生に未練は無いと思い実行に移しました。
しかし失敗。
結果未遂に終わりました。
それからしばらくした後、その遺書はベランダの灰皿で燃やしました。
しかしまた数年前のとある日、棚の整理をしているともう一枚の遺書が出てきました。
勿論書いたこと自体は覚えています。
懲りずにその後に再び事に及んだ際に書いたものです。
遺し書きをしていない時もありましたが、その時は書いていました。
ですが見つけたその遺書を僕はもう一度燃やすことができずにいるのです。
それは自分自身への戒め(いましめ)の意味なのか。
それとも一つの記録のようなものなのか。
今でも自分としてもあの日の二枚目の遺書を燃やせずにいる理由をはっきりさせられずにいます。
内容は一枚目に書いたものと然程(さほど)変わりません。
周囲の人たちへの感謝の意と、「親より先立つ親不孝をお許しください」という文字。
今思えばそんなこと到底許してくれるはずがありません。
今も二枚目の遺書は引き出しに仕舞ってあります。
あの日、一枚目の遺書をゴミ箱に普通に捨てるのではなく火で燃やしたのは自分なりのけじめのつもりでした。
ですが、やはりどうしても今もなお二枚目の遺書は燃やして処分することができていません。
それを燃やすことができた時、僕は今より少しだけ強くなれるのかもしれません。
弱かったその時の僕にけじめをつけることで。
未だに僕は抑うつも抱えていますし、不安障害やその他の疾患も治ってはいません。
ですが遺書を書くに相当するような事に及んだりはしばらくしていません。
それでも時折全て何もかもを放り出してあっちに逝きたくなる時もあります。
まあいつかまた折を見てどこかのタイミングで燃やすことができればいいや、とまだ完全に弱い僕はまた先延ばしにしてしまうのです。
灰皿とライターひとつがあれば完了するのに。
それと一応火消しの水と。
この文章を書きながらも「なんだかなぁ」と、頭の中はぐるぐると考え事でいっぱいで思わず溜め息を吐いてしまうのです。
ひろき
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