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「弱さ」という剥き出しの感情

僕は弱い。

弱いことを知っている。

過去に別の記事で「弱くて強いを目指す」ということを掲げた。

それは今も僕の中で変わっていない。

弱いからこそ、強くなれると信じている。

弱さを知ることは、きっと誰にでもできることじゃない。

そして自分が弱いのだと公にするのも、もしかしたら珍しいことなのかもしれない。
ただそれは自分の見識が狭いだけかもしれないけれど。

弱い生き物だから、苦しむ誰かに寄り添えるものであれると、僕はそうでありたいと願って止まない。

僕はこの「弱さ」という剥き出しの感情をみっともないとは思わない。

弱さを知って、強みに変える。

その過程で必要不可欠な一つのピース。

弱いからこそ見える世界がそこにきっとある。


周りと一緒に大人へと向かう階段を僕は見事に踏み外した。

皆がグングンと階段を昇っていくその後ろ姿を、僕は後ろに転げ落ちながらこの眼に焼き付けてきた。

僕はなんて情け無いんだ。

僕はなんて弱いやつなんだ。

悔しかった。

自分を恨んだ──── ──── 。

「お前はどこまで弱ければ気が済むんだ」

しかし、何をどうしても弱いままだった。

そして涙を流すばかりだった。

寧ろその弱さには磨きがかかってきているのではないかと思うほどだ。

しかし、それなりに弱いものとして生きていると、弱いなりの見方が生まれた。

世の中は決して優しいだけの世界ではない。

きっとこの世界には「弱いもの」が必要なんだ。

それはどこぞの「ヒエラルキー」を支えるための弱さではない。

誰かに都合よく踏み台にされるための弱さではない。

ただの傷の舐め合いをするためだけの弱さではない。

それは、例えばどこかで誰かがあまりの辛さに耐えかねて涙を流している。
そんな時、必要以上に何も言わずに側にいるための弱さがきっと必要なんだ。

その時、ようやく「弱くて強い」という芯の通ったものがきっと生まれる。

少なくとも僕はそうであると信じている。

弱りきった時、側に弱さを全開に剥き出した者が居れば、その人は少しは安心できるかもしれない。

僕はその材料で一向に構わない。

それであなたの心の荷がほんの少しでも軽くなるのなら。

剥き出しの弱さという感情。

僕はそれを手放してはいけないのかもしれない。

誰かのためにこの残りの人生を費やすのであれば。

僕は弱さを手に入れた時、そう決心したつもりだから。

弱さというぼろぼろな覚悟。

それは生半可なものではない。

性善説だとか、難しい話はここには要らない。

偽善に見える?

好きに言っていればいい。

だってこちとら弱いんだから。

それと、こんな話もついでに。


無敵とは、必ずしも極上の強さではない。

見極めることに人一倍長けていて、勝ち目が無い相手とは戦わない。

そうすれば負けることはなくなるらしい。

負けることがなければ、無敵という言葉が勝手に付いてくる。

無敵とはある種の弱さを知ったものが手に入れることのできる強さなのかもしれない。

負けることのない弱さ。

弱さにおいては無敵。

一見矛盾しているようで、其の実それは確からしい。


これからも僕は、弱さという剥き出しの感情を胸に生きていかなければならない。

そしてそのうちに"弱さから生まれた強さ"を手にできる、そうなれるその日まで弱さと僕は向き合って、弱さと僕は付き合い続けよう。

恐らく長い道のりであることだろう。

まずはその間生きていくと断言できる覚悟も決めないといけない。

弱い者が、弱いなりの苦難の道を歩んでゆく。

その道すがらでどれだけ誰かの心の側に寄り添えるだろう。

その一足一足を着実に踏み締めていく。

きっと、弛んだ地盤にこの剥き出しの弱さという柱は立たない。

忘れてはいけないのは自分と真っ向から見つめ合うこと。

その弱さを隠そうとしたっていずれ剥がれる。

ならそのままでいい。

きっとそれが他でもない自分だから。


ひろき

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