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是ことり(ここ ことり)
2015年12月16日 21:00
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟です。興元は関ヶ原合戦の後、細川家を出奔。その後徳川家康の仲介で忠興と和解します。そののち、興元は秀忠の談判衆として取り立てられています。今回は興元と茂木藩に関する逸話を紹介します。『茂木町史5』より引用。興元の孫にあたる興隆が幕府に対し、加増を示す御朱印が度重なる保留のために領地御朱印状がないと届け出た旨の書状です。ざっくり現代語訳大権
2015年12月16日 20:58
細川興元は細川藤孝の次男。細川忠興の弟です。細川ガラシャは細川忠興の正室。興元から見ると義理の姉です。いつ頃からできたのか分からないのですが、現代の創作作品の中には一部、興元がガラシャに片思いしていた、という設定があります。しかもこれがまあまあな数ある。なぜ興元はガラシャに横恋慕し始めた描写が出てきたのかぶっちゃけよくわからない。けれど、興元とガラシャは二人とも「キリシタン」
2015年12月16日 20:54
細川興元は細川藤孝の次男。細川忠興の弟です。綿考輯録 忠興公(上)より。ざっくり現代語訳頓五郎(興元)殿は永禄九年丙寅の生まれで、天正五年の時は十二歳であった。御高名を上げたかどうかについては計りがたいことだが、戦場に御伴い、忠興君と共に先陣を切ったことはあるまじきことだともいえない。その理由はある時、太閤様の御前に身分の高い人々が列座され、忠興君の初陣である片岡城攻めのお話にな
2015年12月16日 20:53
細川興元は細川藤孝の次男。細川忠興の弟です。興元の出奔についてちょっと気になるところがあるので吐き出し。興元、出奔関ヶ原合戦の功績により細川家は領地が丹後から豊前に変わります。慶長6年12月、領地が豊前に代わってはじめて幽斎・麝香が中津城を訪れます。その時、中津城には細川家一門が大集合。一方、興元は所労(風邪という説も)を理由に欠席、興秋を名代にしています。忠興がそれをいぶか
2015年12月16日 20:50
細川興元は細川藤孝の次男。細川忠興の弟です。今回はその細川興元が、朝鮮出兵の晋州城の戦いでがんばったよ!という逸話の紹介。『太閤記』より引用。※文禄元年(1592)の晋州城攻防戦での最終決戦で興元が出ています。日付が6月になっていますがおそらく10月の誤りかと。ざっくり現代語訳かねてから言い定めていたように、竹束を付け、西楼を堀づたいに上り、城中(晋州城)を見下し、鉄砲で射すく
2015年12月16日 20:33
乗りパクした馬をパクられたおはなし。細川興元は細川藤孝の次男。細川忠興の弟です。今回は『綿考輯録』第3巻より引用しています。忠興が関ヶ原の戦いで使った甲冑やら指物の記録といっしょに書いてあって読んでて楽しい!ざっくり現代語訳御馬 本ふん黒糟毛この馬はもともとは日向の伊東氏の馬だった。が、黒田氏のものになり、そこから三好新右衛門(三好房一)に渡っていた。三好新右衛門が玄蕃殿(
2015年12月16日 20:13
前に乗せた「戻ってこいって軽率にいっちゃだめだよ!」逸話ともうひとつ、井戸ボチャの逸話。細川興元、なんでこんな話しか残ってないんだ??細川興元の関ヶ原原文(綿考輯録より)ざっくり現代語訳御年譜によると、古井戸の中へ馬と一緒に駆け落ちしたが、物に取り付いてなんとか井戸から上がってきた。従いの者と二人で馬に細引きを付けて引き上げようとするも、かなわずへとへとになっている所に敵の騎
2015年12月16日 20:11
細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。今回はちょっとほほえましい、父と息子の逸話を紹介します。『峰山郷土史』からの抜粋です。丹後時代の幽斎と興元のおはなしこの逸話は『岩滝町誌』&『丹後史料叢書』にも記載されています。『丹後史料叢書』『丹州三家物語』からの出典が一番古いのですが、近代なんですよね…近代以前の史料での記録はまだ見つけきれてないです。さっくり検索してみましたが封
2015年12月16日 20:09
この記事のつづきだよ!更に詳しく紹介していきます~!!※有料記事になります。
2015年12月16日 20:03
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。今回は興元が持ってた刀について調べたので、その内容を紹介します。自分が知っている、興元が所用していたと伝わる刀は「児手柏包永」と「国広」の脇差の2本。◆児手柏(このてがしわ)包永包永という人の作で鎌倉時代の刀。足利義晴→細川幽斎に下賜されて、二尺六寸(約80㎝)あったのを使いづらいから短くしたそう。この刀の特徴は刃紋。ふつう刀の刃紋は表裏ほ
2015年12月16日 19:58
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。関ヶ原の戦いののち、現在の栃木県茂木町になる場所に茂木藩を立藩します。今回は細川興元について、縁戚関係などをメモしています。情報があんまりなくて、ひとつひとつ自分で史料探して照合したものです。あやふやなところが多いですが、なにかひとつでも参考になれば幸いです。細川興元の家族について◆正室:いと(沼田清延娘)名前の出典がどこからなのか不明
2015年12月16日 19:52
寛永8年、忠利が自身の嫡男・六丸(光尚)を鷹狩に行かせたいと老中の大井大炊守に願い出て、興昌のところで鷹狩りしたとの記録。どうやら綿考輯録にもその記録があるようです~~そのときの書状について大日本史料から抜粋。この書状が発給されたのが、前描いた興昌vs忠興のあの長い書状からちょうど二週間後。たぶんまだぎくしゃくしてそう。補足として、興昌・光尚以後の肥後細川・谷田部細川は縁戚関係も
2015年12月16日 19:51
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。細川興昌は興元の嫡男、忠興から見ると甥っ子です。興昌(興元嫡子)の行動に口出ししてる忠興。これも大日本史料から引用しました。甥っ子にガチギレしている忠興の書状はこちらでも紹介しています▽それと寛永8年3月にも、興昌と妻吉左(使用人の奥さんかしら…)のやりとりについてまたちょっと怒ってた忠興。興昌vs忠興のやつにも書いてあった『絶言語候』って
2015年12月16日 19:50
細川興元は細川藤孝の次男、細川忠興の弟。細川興昌は興元の嫡男、忠興から見ると甥っ子です。今回は興元の長男・興昌にガチギレしてる忠興の書状について紹介。興元が立てた谷田部細川藩は大名じゃなくて小大名。なのに興昌が小大名なのに大名だけしか乗っちゃいけない輿に乗ったらしく、それを知った忠興が忠利にあいつなんなんだ!て感じのお手紙を送っています。出典は『大日本史料細川家史料』より。ざっくり