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銀河フェニックス物語【出会い編】 第四十一話 パスワードはお忘れなく まとめ読み版②

追いかけてきたロベルトにレイターはハゲタカ大尉の最期について伝えた
銀河フェニックス物語 総目次
<出会い編>第四十一話「パスワードはお忘れなく」まとめ読み版①

 レイターが死を恐れない理由。
 今、少しだけレイターの心に触れた。

『殺されたって構わねぇ。悲しむ人も恨む人もいねぇから』というレイターの孤独が伝わってきた。自白剤が普段見せないレイターを表に引き出している。

 レイターが続けた。 

「一つだけ言っておく。あんたの親父に殺された俺の仲間にも、俺と同じ年の子どもがいた」 
 彼の父もまた、彼と同じような境遇の子供を生んでいたということだ。    

 「……」
 ロベルトが無言になった。

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「この戦いを終わらせねぇと、憎しみはいつまでも連鎖する。それを断ち切るために、俺はこの仕事を請け負ってる」

 この仕事を請け負う? 操縦士? ボディガード? 

 レイターは連邦軍にいた。
 そしてロベルトの父の命を奪った。原因は戦争だ。レイターはそれを終わらせるために仕事を請け負っているという。

 話がつながりそうでつながらない。ピースの欠けたパズルを見ているようだ。

 PPPPPP…
 レーダーが反応した。
「どうやらあんたの仲間が来たようだな。さてと、俺たちはおいとまするぜ」
 レイターは船を急旋回させた。

「ティリーさん、右側の通話ボタンを押して七十五番にセットしてくれ」
 言われたとおりに操作する。

「連邦軍キャメロット号聞こえますか、こちらBP87ポイントから89へ移動中、救助願います」
『こちらキャメロット号、BP89ポイントへ向かいます』

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 アーサーさんの声だ。

 少し飛ぶと軍艦が待機していた。アーサーさんが艦長を務めるキャメロット号だ。
「後は着艦だ」
 緊張で手が震えた。ペーパードライバーのわたしがもっとも苦手としている着船。しかも初めて乗った戦闘機。

「どうせアーサーの艦だ。ぶつけても構やしねぇから」
『おい、聞こえているぞ』
 アーサーさんのいらだった声が聞こえた。

 
 わたしはただレイターの手を支えていただけだった。
 レイターはきちんときれいにキャメロット号に着艦させた。
 ぶつけて構わない、と言ったのはわたしの緊張を解くためだったのだろう。船をぶつけるという言葉はこの人の辞書にはない。

 
 戦闘機のエンジンを切るとほっとして身体中の力が抜けた。

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 後ろのレイターに話しかける。
「何とか助かったわね」
「ティリーさん、ケガはねえかい?」
「ええ、大丈夫よ」

「よかった」
 かすれた小さな声だった。

「レイターは?」
 怪我をしていることはわかっている。変な薬物も打たれたのだ。心配だ。
 次の瞬間、レイターが後ろからわたしの体を抱いた、ように感じた。

 耳元でささやくような声がした。
「ティリーさん、愛してる」

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「え?」
 今、なんて言った? 

 想定外の言葉に、胸が早鐘のように鳴った。息がうまくできない。
 背中にレイターの体重がかかる。体温が伝わる。熱い。 

 と、レイターの腕がだらりと力無く垂れた。
「レ、レイター?」
 答えがない。

 その時、上部のキャノピーが開いた。
「大丈夫ですか? ティリーさん」
 アーサーさんの顔が見えた。

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「は、はい」
 アーサーさんに手を引かれ、わたしがまず外へでる。

 レイターの体がグラリと傾いた。
「レイター!」

 レイターは完全に意識を失っていた。
 わたしは車いすで、レイターはストレッチャーで医務室へと運ばれた。

 現実感がない。
『ティリーさん、愛してる』
 さっきのは空耳?

 助かって気がゆるんだら、急速に眠気がおそってきた。  
 

* *

「自白剤に反応した兆候がある」

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 という軍医のジェームズの見解に、アーサーは怪訝な顔をしてベッドで寝ているレイターを見た。
「自白剤が効いた? レイターに?」

「ああ。医学的検査の結果だ」
 ジェームズの示した資料の数値は確かにレイターが自白剤の影響を受けたことを示していた。

 納得できないという顔のアーサーに、ジェームズは説明を加えた。
「かなりひどく暴行を受けてるんだ。そこへ致死量の自白剤が投与されればいくら薬物耐性があっても反応するよ。不可抗力だ。キーパスワードを明かしたレイターを責める事はできない、ゲリラ側の完全な条約違反さ」

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 こいつ、私とジェームズの話を聞いていたな。

 アーサーはじっとレイターを見つめて聞いた。
「それで、自白剤を打たれて、キーパスワードを吐いたのか?」
「ああ」
 それだけ言うとレイターは、急に吐き気に襲われ苦しそうに顔をゆがめた。

 ジェームズがあわてて汚物処理機を差し出し、レイターの背中をさすった。胃の中のものを吐き出すと、少し楽になったようだった。

 アーサーは納得したようにつぶやいた。
「なるほど、今も自白剤の影響下にあるようだな」

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「安物の自白剤は不純物が多くて、分解し切れていないんだ」
 ジェームズの説明を聞きながらうなずくアーサーを見て、レイターが恐る恐る言った。

「あんた何、うれしそうな顔してやがる…」
「今ならお前のいろいろな悪事を聞き出せそうだな。去年、裏金をいくら横領した?」

 レイターはあわててアーサーから目を逸らした。また気分が悪くなりそうだ。
「あんた、鬼かよ」
「冗談だ」

* *

『ティリーさん、愛してる』

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 レイターの声が聞こえた気がしてティリーは目を覚ました。

 一瞬、ここがどこだかわからなかった。白い天井。
 見回して思い出した。アーサーさんのふねキャメロット号の医務室だ。
 体が重たく疲れは抜けきっていない。でも、怪我をしたわけでもない。

 レイターは、レイターは大丈夫だろうか?
 ベッドからゆっくりとおりる。

「目が覚めたかい? 気分はどう?」
 優しい声が聞こえ、カーテンの奥の診察室から白衣を着た男性が入ってきた。聴診器を首から下げている。見るからにお医者さんだ。
「あ、あのレイターは?」

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「大丈夫だよ、隣の部屋で寝てる」

「彼はひどい暴行を受けたんです」
「見た目よりダメージは受けていないから安心して。レイターは呼吸や力の入れ方でちゃんと内臓を保護してたから」
 そうだったんだ。わたしは少しほっとした。

「僕はジェームズ。レイターとは昔、同じ戦艦に乗っていたんだ。今はアーサーのふねで軍医として働いている」
 白衣の下に軍服を着ていた。軍人さんだ。聞くのが怖いけれど聞かなくちゃいけない。
「連邦軍のパスワードが敵に漏れてしまったんですよね、どうなったんでしょうか?」
 わたしのせいで大変な事態になっているはずだ。

「大丈夫だよ、心配しなくても。レイターがちゃんと対処したから」
 ジェームズさんが微笑んだ。
 レイターがちゃんと対処した? パスワードを漏らしたのに? 

 意味が分からない。 

「それにしても、ひどい奴らだ。いくらレイターが頑丈でも、殴って蹴って、致死量を超える自白剤でパスワードを聞き出すなんて条約違反も甚だしい、前時代的で野蛮なやり方だ」

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 ジェームズさんが怒りだした。

 でも、微妙に違う。
 ロベルトがレイターに暴行を加えたのは父親の報復で、パスワードを聞き出そうとした訳ではなかった。

 ジェームズさんが続けた。
「レイターは、さっき一瞬意識を取り戻して、自白剤が効いてパスワード明かしたってアーサーに謝ってたよ」
 それも違う。
 自白剤では吐かなかったのだ。

 わたしのせいだ。
 わたしにナイフが突きつけられたから、レイターはキーパスワードを明かしたのだ。

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 レイターはわたしをかばって嘘をついている。

「ティリーさん、そんなに怖い顔しないで。あいつのせいじゃないから責任も問われない。大丈夫だよ」
 ジェームズさんはわたしの不安をやわらげようとして一生懸命に説明してくれている。

 確かにレイターは自白剤が効いて話を始めた。
 でも、それは、パスワードについてじゃない。ロベルトの父親についてだけだ。
 わたしが見ていた事実と少しずつ違う。

 ジェームズさんに本当のことを話そうか。いや、レイターに確認をしてからの方がいい。わたしはとまどいながらも、黙っていた。

 隣の部屋をそっとのぞいた。
 レイターが眠っていた。

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  ベッドの横に置いてあったイスに腰掛けてレイターの顔を見つめる。
 殴られた頬は腫れ、切れたまぶたには大きな絆創膏が張られている。

 『愛してる』という声がよみがえり、胸が苦しくなる。

 と、突然、レイターが苦しそうな顔でうなされはじめた。
 ジェームズさんは大丈夫だと言ったけど、あんな目にあったのだ。平気なわけが無い。
「苦しいの? 大丈夫?」

 どうしていいのかわからず、布団から出ていたレイターの手を握った。まだ、熱が高い。
 すべての指がテーピングテープで固定されていた。

 ジェームズさんを呼ばなきゃ。そう思った時、レイターがうっすらと目を開けた。

「レイター、大丈夫?」
 焦点が定まっていない。

嫌だ。赤い夢、見たくねぇ
 小さい声だったけれどはっきりと聞き取れた。赤い夢? 

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 赤い夢、という言葉に聞き覚えがある。どこで、聞いたんだろう。

 それよりとにかくレイターの様子がおかしい。
「嫌だ…嫌だ…」
 怯えて身体がガタガタ震えている。こんなレイターは見たことがない。

 レイターの目は開いている。
 けれど、レイターはわたしのことを認識していない。まぶたを開けたまま悪夢を見ているようだ。
 どうすればいいの? 激しく揺らして起こしたほうがいいのだろうか。いや、この人は身体中を痛めているのだ。

 レイターの頬を優しく両手で包む。

「大丈夫よ。大丈夫。もう大丈夫だから、安心して。大丈夫だから…」

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 レイターの光のない青い瞳を見ながら夢中で声をかけた。『大丈夫』と言う言葉を呪文のように唱える。

 と、声が届いたのだろうかレイターの震えが止まった。

「もう、大丈夫だからね」
 子供をあやすようにゆっくりレイターの胸をさすると、すぅっと眠るようにレイターは目を閉じた。

 な、何だったんだろう、今の?
 
「どうかしたかい?」
 ジェームズさんが部屋へ入ってきた。わたしの声を聞いて駆けつけたようだった。

「あ、あの、レイターが…」
 レイターを見ると、静かに寝息をたてていた。
「大丈夫そうだね。これなら夜には起きてくるよ」 


 ジェームズさんの言うとおりだった。
 夜、目を覚ましたレイターは元気そうにベッドの上で食事をとっていた。

「よっ、ティリーさん。飯、もう食ったかい? アーサーは食に興味がねぇんだけど、思ったよりこのふねの飯はうまいぜ」

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 いつものレイターだった。

 さっきの怯えた表情が、うそのようだ。
 あれは一体何だったのだろう。

 テーピングテープで固定された指は思うように動かないようで、手のひらでスプーンをつかみ、苦労しながらスープを飲んでいた。
「食べさせてあげようか?」
「まじ?  頼むぜ」
 レイターはうれしそうな顔をした。

 スプーンを受け取る時に手が触れた。
 元気そうだけど、熱は下がっていない。

 スープをレイターの口へと運ぶ。

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「うめぇ。ティリーさんに食べさせてもらえるとは、手ぇケガしてラッキーだな、俺」
 そう言ってにっこりと笑った。

 『愛してる』という声を思い出し、わたしはあわてた。顔が赤くなる。

「な、何言ってんのよ。馬鹿なこと言わないで」
 つい、つっけんどんな言い方になる。
「俺、バカなんだ。はい、あ~ん」

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 おちゃらけてレイターは口を開けた。
 レイターの近くでこうしてままごとのようなことをしていられることに幸せを感じる。

 わたしに『愛してる』と言ったことを、この人は覚えているのだろうか? 

「随分うらやましいご身分だな」
 アーサーさんが部屋に入ってきた。

「ティリーさん、気分はいかがですか?」
「大丈夫です」
「無理しないでくださいね。かなり疲れているはずですから」
「ありがとうございます」
 確かに疲れた。
 一体、自分の身に何が起きたのかもよくわからない。

 公共船が襲われてから、アーサーさんの艦に逃げてくるまで、わずか二時間の出来事だったと、さっき気づいた。

「キーパスワードの改修が終わった」

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「手間かけてすまねぇな」
 アーサーさんの報告にレイターが謝った。

 随分とあっさりした謝罪だ。
 大迷惑をかけたというのに、まるで家のガラスを割ってごめんなさい、というような謝り方だ。

「まあいいさ」
 アーサーさんも大したことじゃないという顔で答えた。

「おまえが漏らしたダミーのウイルスワードは解放連を通じてアリオロン側まで侵入を始めた。今頃彼らも慌てているだろう。今後この手は使えなくなったが、おそらく彼らの方が高くついた」
 ダミーのウイルスワード?

 レイターが漏らしたあのパスワードは本物のキーパスワードではなくて、ウイルスが仕掛けられたダミーで、入力とともに解放連に逆侵入をしたということだった。
 ジェームズさんが言うとおりレイターがちゃんと対処したのだ。

 不思議だ。
 どうしてそんな重要機密をレイターが知っているのだろう。

「連邦軍のキーパスワードって、レイターが不正に入手したんじゃなかったの?」
「あん? 不正入手?」

 アーサーさんがおかしそうに笑いながら言った。
「いくらレイターでも簡単に入手できるほど軍のセキュリティは甘くありませんよ」
「ふん、あんたが管理する前は楽勝だったぞ」

「じゃあ、どうしてレイターがそんな軍の機密を知っているのよ?」

 アーサーさんがわたしの目を見つめた。
「レイターは連邦軍の特命諜報部に所属しているからです」
「えっ?」

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 アーサーさんは今、あまりにもびっくりすることをさらりと口にした。

「お、おい! アーサー!!」
 わたしも驚いたけど、わたし以上にレイターがびっくりして、アーサーさんの肩を掴んだ。

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「痛たたたっつ」
 指のけがのことを忘れていたらしい。

 アーサーさんは平然とした顔で話を続けた。
「隠密班で任務単位で活動しています。簡単に言えばスパイです」

 ゲリラが言っていた通りの話だ。
「あ、あんた。服務違反だぞ」
 レイターが動揺している。こんなに慌てたレイターを見たのは初めてだ。

「父上、いや将軍の許可は得ている」

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 わたしが驚いたのは一瞬だけだった。
 逆にアーサーさんの言葉で不思議に思っていたことが次々と腑に落ちていく。

 レイターの周りでは、ただの操縦士とは思えないことが、これまでにもたくさんあった。

 革命のような大規模デモ、環境テロによる攻撃、ハイジャック…。『厄病神』は偶然ではなく必然で、そこには理由があったのだ。

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 頭で納得する一方で心がざわついた。
 レイターが現役の軍人だという事実に。

「ティリーさん。このことは内密にお願いします。特命諜報部員であることは家族に話しても服務違反になる案件ですので。ただ、チャムールは知っていますから、何か困ったことがあれば彼女に相談してください」
「は、はい」

 家族にも話せない秘密。
 どうしてアーサーさんはそれをわたしに明かしたのだろう。

 レイターと二人きりになったら、確認したいことがたくさんあった。

 レイターはアーサーさんに嘘をついている。
 パスワードを漏らしたのは自白剤のせいじゃない。わたしのせいだ。アーサーさんにちゃんと報告した方がいいんじゃないだろうか。

 特命諜報部員のことについてもきちんとレイターの口から聞いておきたい。

 そして、知りたい。
 レイターは覚えているだろうか。わたしに『愛してる』と言ったことを…

 けれど、その機会は訪れなかった。
 食事の後、レイターは眠ってしまい、わたしはレイターが目を覚ます前に帰された。

 この事件は小さな記事で扱われていた。

”元S1レーサーのレイター・フェニックスさんら二人がリル星系のゲリラに一時身柄を拘束されたが、自力で脱出した。フェニックスさんは指を骨折し全治一か月。身代金の要求などは無かった。”

 会社に一報が入ったのは、すでにわたしたちがアーサーさんのキャメロット号に保護された後だった。社内には緊張感も何もなく『厄病神』の船だから仕方ない、ということで片付けられていた。

 会社に顔を出すと、隣の席のベルが「良かったね」と話しかけてきた。

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「復帰一発目で厄病神と一緒だったのに仕事には何の支障も無かったんでしょ。ゲリラに連れ去られるのが、船を納入した後で良かったね。行きだったら大変だったよ。ティリーは休みがもらえるんだって? うらやましいな」
「う、うん」
「厄病神は指の治療でしばらく休むらしいから、みんな喜んでるよ」
「そうなんだ」
 わたしは適当に相づちを打った。

 実際には比喩でも誇張でもなく死にそうな目に遭い、一つ間違えば連邦の危機、という緊迫した状況だった。

 でも、このことは友人のベルにも誰にも話してはいけないのだ。
 これだけの秘密を抱えるのは辛い。

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重さに潰されそうだ。気持ちが塞ぐ。 
   

* *

 レイターは目を覚ますと月の御屋敷にいた。
 ここは俺の部屋かよ。

 気持ち悪い。吐き気がする。ひでぇ二日酔いみてぇだ。何なんだあの自白剤は。

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「入るぞ」
 アーサーか。一言言わねぇと気が済まねぇ。

 目が回る身体を制御して立ち上がる。
「あんた、なんでティリーさんに特命諜報部の話をした?」
「言っただろ、父上の了承は得ている」

「答えになってねぇ。ティリーさんが巻き込まれたらどうする気だよ」
 俺はあいつの襟ぐりをつかんだ。
「ティリーさんはすでに巻き込まれている」
 アーサーは平然とした顔で事実を俺に突き付けた。

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 ちっ、折れた指が痛い。

「くっそぉ」
 俺は手を離してベッドに腰かけた。

「今回の案件は、ゲリラ側の条約違反の自白剤によってダミーワードが漏れたということで報告書をあげた。だが、私はお前の報告を信じていない」
「あん? 相変わらず疑り深い、イヤ~な性格だな」

「簡単なことだ。私が『自白剤によってパスワードを吐いたのか?』と聞いたとき、お前は肯定した瞬間に気分が悪くなった」
「そうだっけか?」
「私の問いに対し嘘をついたからだ。あの自白剤は脳内の記憶と違う発言をすると嘔吐中枢が刺激される仕組みだからな」

「ったく、やな野郎だ」

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「お前に聞いておきたい。もし、ティリーさんを人質に取られて、ダミーワードのない最終パスワードを教えろと強要されたらお前はどうする?」

 アーサーは今回の状況をお見通しということだ。
 俺が自白剤ではなく、ティリーさんを人質に取られてパスワードを明かしたことも。
 ティリーさんを巻き込むのがイヤで黙っていたが、報告書もあがった今、もう隠す意味もない。

「迷わず吐くな」
 俺は堂々と答えてやった。自白剤による吐き気も何もない。
「まったくもって諜報部に不適格だ」
「しょうがねぇよ。宇宙が崩壊したって俺は目の前のティリーさんを守る。あんたはどうすんだよ? チャムールさんが人質にとられたら」
「……」
「答えろよ」
「……」

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「俺が代わりに答えてやるよ。あんたは絶対パスワードを言わねぇ」
「…」
 アーサーは無言のまま目を閉じた。
「だからあんたは将軍の跡取りができるんだ」

* *


「あんたはどうすんだよ? チャムールさんが人質にとられたら」
 レイターの質問が私の心をえぐる。
「あんたは絶対パスワードを言わねぇ」

 目を閉じるとチャムールとつきあう前の会話がまぶたによみがえった。私はチャムールにはっきりと伝えた。

 連邦軍かチャムールか選択を迫られたら「連邦軍を選びます」と。

 辛いが仕方ない。それは運命さだめだ。
 チャムールはそれをわかった上で、私との交際を選択してくれた。そこには感謝しかない。

 この私たちの痛みと苦しみが貴様にわかるか。

 宇宙が崩壊しても愛する人を守るだと。
 私は銀河連邦を崩壊させるわけにはいかないのだ。贅沢な選択肢がレイターには許されている。苛立ちが募り、口調が強くなる。
「そんなにティリーさんに好意があるなら、ちゃんとおつきあいを申し込めばいいだろが」
「フンっ!」
 レイターはふてくされたように私に背を向けてベッドに寝転んだ。
「俺は誰ともつきあう気はねぇんだ」

「ティリーさんは会社から休みをもらったそうだ。この屋敷へ招待するか」
「止めてくれ!」
 レイターの否定する剣幕に驚いた。 

「俺は、やっと決別したんだよ。なのに、俺がティリーさんを襲ったら、あんた、責任取れるのかよっ」
 お前は街でとっかえひっかえしていた女性たちの責任を取ったことがあるのか、と言いたいところをこらえる。

 自白剤の影響下、ティリーさんに対し自制がきかなくなる、という自覚がこいつにあるということだ。


* *

 自宅へ帰ったティリーは出張の荷物を片付けていた。 

 会社に顔出して簡単な報告書を提出したら、一週間休みをもらえることになった。
 『厄病神』との久しぶりの出張。生半可なことじゃ驚かなくなっていたのに、びっくりすることばかり起きた。

「レイターは私と同じ連邦軍の特命諜報部に所属しているからです」
 アーサーさんの低い声がとげのように引っかかる。

 夜、仕事を終えたチャムールが自宅へたずねてきた。

「無事でよかった」
 会うなりチャムールが泣きながらわたしを抱きしめた。

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 チャムールの温かさが身体中に染み渡る。

「チャムールは今回のこと知ってるのね」
「ええ、アーサーから聞いたわ。大変だったわね。生きて帰ってこられて本当によかった」
 わたしはふわっと気持ちが軽くなるのを感じた。チャムールには隠さなくていいのだ。今回、どんなに怖い目にあったか。

 チャムールに聞きたいことがたくさんある。

「チャムールは、レイターがアーサーさんと同じ仕事、そのぉ…特命諜報部にいるってこと、前から知ってたの?」

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 わたしの問いにチャムールはうなずいた。

 予想していた答えだったけれど、不快な気分がわたしを襲った。

 特命諜報部のことは家族にも話してはいけない機密なのだから、わたしが知らないのは当然で、チャムールは将軍家のアーサーさんと結婚を前提につきあっているのだから、知っていても不思議じゃない。

 チャムールに怒るのは筋違いだ。怒り? 怒りじゃない。嫉妬だ。
 レイターのことは、わたしの方がよく知っていると思っていた。
 でも、全然わかっていなかった。

 厄病神のその本当の理由も。

 チャムールがコーヒーに砂糖とミルクを入れた。チャムールは甘党だ。かきまぜながら、わたしの顔を見た。

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「ティリーに伝えたかった。レイターが特定の人とつきあわないと言っているのは、フローラを忘れられないということもあるのだけれど、それだけじゃなくて、特命諜報部員ということもあるのよ。危険な仕事だし、特命諜報部であることは家族にも言えない」

 チャムールはずっとわたしに話したかったのだろう。
 いつもより饒舌だった。

「家族にも言えないことを、どうしてアーサーさんはわたしに話したの?」
「将軍家の特権」
 と言ってチャムールは少しだけ笑った。

「レイターは自分が諜報部員だという秘密を持って女性とおつきあいをすることはできないと考えているわ」

 前にベルから出張先で聞いた話が頭に浮かんだ。

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 レイターが特定の彼女を作らないのは、亡くなったフローラさんのこと以外にも理由がある、と本人が言っていたと
 ずっと気になっていた。それが、これだ。
 

「ティリーは、レイターがフローラの余命について聞かされていなかった話って聞いてる?」
「うん」
 とまどいながらうなずいた。

 あれは、将軍の就任二十周年パーティでレイターと月のお屋敷へ出かけた時のことだ。
 壁に飾られたフローラさんとの結婚写真を見ながら、彼は辛そうな顔で口にした。
「アーサーは知ってたんだ、フローラの命が長くないって。俺は…バカ息子だから知らされてなかった」と。

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チャムールはコーヒーを一口口にしてから続けた。

「レイター自身が最愛のフローラの隠し事に傷ついたから、交際相手に秘密を抱えた恋はしたくないのだろうって、アーサーは分析している。だから、ティリーともつきあえない、って彼は自分で決めつけてるのよ。アーサーはレイターに幸せになってほしいと思ってる。だから、お父上の将軍にレイターが諜報部員であることをあなたに伝えることを以前から了解取っていたの。レイターをフローラの呪縛から解き放ちたいのよ。レイターはティリー、あなたを愛してるのだから」

 愛してる、という言葉を聞いた瞬間、胸がドキンとなった。

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 『ティリーさん、愛してる』
 レイターの声が耳の奥で聞こえた気がした。

「レイターはね、宇宙が崩壊してもティリーを守る、ってアーサーに言ったそうよ」
「えっ?」
「あなたが人質に取られたら、パスワードでも何でも敵側にばらすんですって」
 チャムールの話からわかった、レイターはきちんとアーサーさんに説明したんだ。キーパスワードを明かしたのは自白剤ではなく、わたしを人質に取られたからだということを。

 また一つ肩の荷が下りた。

 それにしても、宇宙が崩壊してもわたしを守るって、まるでプロポーズだ。
 ほんのりと湧き上がってくるうれしさを封じ込めて応じる。

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「ま、わたしを守るのはレイターのお仕事だからね」

 チャムールがわたしの目をじっと見つめた。思慮深い彼女の瞳がいつもと違う色に見えた。
「ティリーがうらやましい」
「え?」
 チャムールがわたしをうらやむ理由に心当たりがない。

「アーサーはね、私が人質にとられても、軍のパスワードは漏らさない。たとえ私が目の前で殺されても」
「そ、そんなことないでしょ。アーサーさんはチャムールのこと愛してるんだし」
 わたしはあわててフォローした。けれどそれが空虚に空回りした。
「将軍家でなければね…」

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 チャムールはさびしそうに続けた。
つきあう前にアーサーから言われたの。連邦軍かわたしのどちらかを選択することになったら、軍を選択します、あなたを守ることはできませんって」
「知らなかった…」
 チャムールとアーサーさん。お似合いの二人はいつも仲睦まじくて、お互いを信頼していて、わたしはうらやましかった

「私はアーサーのそういう所も含めて好きなの。だから、あの人のためになら死んでもいいと思ってる。でも、やっぱり本音ではティリーがうらやましい」
 わたしは言葉を無くした。チャムールの覚悟に。 

 わたしはそこまでちゃんとレイターと向き合っていない。

 レイターはいつもちゃかしていて、わたしはいつも拗ねていて、お互い、大事なことに踏み込まないままここまできてしまった。

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 一度だけ近づいたことがある。
 火星宙域で催された連邦軍の航空祭

「少し前に、チャムールが航空祭に誘ってくれたのも、わたしたちのことを考えてのことだったのね」
「ええ」
 チャムールがうなずいた。
 わたしの故郷アンタレスは軍を持たない。父は連邦軍の駐留に反対している。連邦軍の催しには、気乗りがしなかった。

 けれど、航空祭で美しい軌跡を描いて飛ぶ戦闘機を初めて見て、心が震えた。綺麗なフォルムの機体の前でレイターとかわした会話を思い出す。
 実戦で、五十二戦五十二勝だと彼は言った。その中には殺されたロベルトの父親も入っていたということだ。

 あの時、少しだけレイターの気持ちに踏み込んだ。
 戦闘機を撫でながらレイターは語った。「人の命を奪うことがあっても、それは味方の命を守るための手段で、目的じゃねぇ。船に罪はねぇ」と。

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 感情はついていけてないけれど、理解ができなくはない。
 チャムールとアーサーさんは考える機会をわたしたちに与えようとしてくれていた。

「ティリーが軍隊を快く思っていないことは知っているわ。でも、アーサーはどうやったらこの戦争が終わらせられるかをずっと考えている。そして、どうしたら双方が最低限の被害で事態を収拾できるかを基本に作戦を練っている。そして、それを実現するためにレイターが動いている」
 レイターの名前を聞くと心が震えた。

「何年かかるかわからないけれど、この戦争は終わる。将軍に言わせるとそのために無愛想な息子とバカ息子が頑張っているんですって」

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 レイターも同じことをロベルトに言っていた。
『この戦いを終わらせねぇと憎しみはいつまでも連鎖する。それを断ち切るために俺はこの仕事を請け負ってる』

 わたしの知らないレイターが突然目の前に現れた。

 全てがつながっている。
 ぼんやりとしていた像がくっきりと結ばれていく。

 きちんと話がしたい。
 レイターは将軍家の居宅『月の御屋敷』で静養している。 

「わたし、レイターのお見舞いに行きたいわ。チャムール、連れて行ってくれない?」

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 月の御屋敷は一般人が簡単に行けるところではないけれど、チャムールにとっては彼氏の自宅だ。

 チャムールが困ったように目を伏せた。
「それが、ティリーには来てほしくないって、レイターが…」
「ええっ?」
 どういうこと? わたしはショックを受けた。

* *


「坊ちゃん、これを見てください。絶対に変です」

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 任務を終えて三日ぶりに月の屋敷へ戻ったアーサーは侍従頭のバブに声をかけられた。

 レイターの部屋をノックをする。
 中にいるのはわかっているが、返事がない。

 寝ているのか。

 部屋には鍵がかかっていた。
 私は屋敷のマスターキーで勝手に開けた。
 照明はついておらず薄暗い。

 相変わらず散らかった部屋だ。足の踏み場がない。気を付けながら進む。

 ベッドの上のレイターは私が部屋に入ったのにも気づかず、布団を抱え込んで丸まっていた。

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 覗き込むと苦しそうな顔をしていた。汗もひどく、うなされている。自白剤の影響か。

 昔もこうして苦しげに寝ている彼を見たことがある。

 嫌な予感がする。
 その時、
「やめろぉぉぉーー!」
 レイターが叫んだ。  

 驚いて一瞬後ろへ引いた。寝言だ。部屋の照明をつける。

 レイターの息が荒い。
「おい、しっかりしろ。起きろ!!」

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 レイターの体を揺さぶって起こす。

「う、うわあぁぁぁ」
 目を開けたレイターが恐ろしい形相で私を見つめた。
「あ、あんたか。びっくりさせんなよ」
 肩で息をしている。

「びっくりしたのはこっちだ。大丈夫か?」
「フン! あんたに起こされて気分が悪いだけだ。勝手に人の部屋入ってきやがって」

「バブさんがお前の様子が変だ、と言うから見に来たんだ」
「あのばあさんが、俺のことを変だってのは昔っからだろが」

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「お前、バブさんの作った大好物のフライドチキンを食べなかったそうだな。いつから食べてないんだ? 脱水症状を起こしているな」
 私はレイターの机の一番上の引き出しを開けた。

「勝手にさわんなっ」
 レイターの声を無視し、袋に入った小型の注射器を取り出すと封を切った。
 七年前の物だが、大丈夫だろう。フローラのために常備されていた栄養剤。

 レイターの腕に打ちながらたずねた。
「何の夢を見た?」
「あん?」
「悪夢を見たんだろ」
「悪夢ってことはあんたの夢か?」

「真面目に答えろ。『赤い夢』を見たんだな」
 レイターは絞り出すような声で答えた。
「ああ」

 想像通りの答えだった。封印が解けてしまったということか。

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「いつから?」
「フン、あの自白剤を打たれた後は、寝ても覚めても地獄だ」
 不純物の混ざった安物の自白剤は、思った以上にやっかいだ。体から抜けるのに時間がかかっている。

 レイターが見る『赤い夢』。
 自らの血で溺れ死ぬ夢だという。人を殺した記憶が見せる悪夢。初めて人を殺害した時の体験がフラッシュバックを起こす。子どものころからのストレス障害だ。

「何があった?」
「あん?」
「この自白剤はたちの悪い薬だが、ここまでお前を追い込むのはおかしい。一体、何を隠してる?」
「別に、何でもねぇよ」
 言いたくないことなのか。

 レイターが参っているのは明らかだ。
 精神が限界に来ている。

 眠れない、食事も摂れない、衰弱したその先にあるのは廃人か死だ。
 こいつは、潜在的に死に対して願望を持っている。
 フローラの下へ行きたいと。

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 自白剤がその深層心理を顕在化させている。このままでは危険だ。

「記憶を消せば楽になるぞ」
 私は過去と同じ提案してみた。
「あん?」
「局所的な電気ショックによる治療だ」

 人を手に掛けた記憶が消えれば悪夢を見ることもない。封印ではなく『赤い夢』を消滅させる。
「前も言っただろ。記憶が消えても俺がやったことは消えねぇんだ。過去に俺がしてきたことは、俺が引き受ける」  

 薬物耐性を持っているレイターに薬物治療は難しい。
 毒物が効かない身体というのは有益な薬も効きが悪い。不純薬物に汚染された身体にこれ以上きつい薬の投与はリスクが高すぎる。

 打つ手がない。

 こいつは昔、フローラとこの家で暮らすようになって『赤い夢』を見なくなった。そのフローラはもういない。

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 ぽつりとレイターが言った。
「赤い夢の中で、時々、俺は救われる」
「救われる?」
 救われると言う話は初めて聞いた。

「よくわかんねぇが、ティリーさんの声が聞こえるんだ。『大丈夫、大丈夫』ってな。俺に絡みつく血が透明なティリーさんの瞳の色に変わって、俺は息ができるようになる。夢の中のティリーさんは俺を赦してくれるんだ。本物のティリーさんは俺を怯えて見てるってのに」

 一体、二人に何があったのだろうか。レイターを死なせないための情報が不足している。

 アーサーは自室に戻るとチャムールとの専用回線を開いた。

「お帰りなさい」

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 モニター越しにチャムールが微笑んだ。彼女のゆっくりとしたテンポが身体に染み渡る。
「ただいま」
 この三日、リル星ゲリラ案件の後始末に忙殺され、チャムールとは連絡も取れなかった。
「ティリーと話したわ。レイターのお見舞いに行きたがっている。止めたけれど」
「まだ無理だな。思った以上に薬の抜けが悪いんだ。よくない状況だ」
 あの弱った状態で、あいつがティリーさんに会うとは思えない。 

 今回、レイターが特命諜報部員であるという機密をティリーさんに打ち明けるにあたってフォローをチャムールに頼んだ。
 それと同時に、二人がゲリラに拉致された時の状況について聞いてほしいと依頼した。レイターは嘘ばかりつく。

 厄介なお願いだがチャムールは嬉しそうだった。
 純粋にティリーさんの力になれるということが一つ。
 そしてもう一つはおそらく、チャムールが一人で抱えてきた将軍家のプレッシャーの共有。

 チャムールの報告は思わぬ問いかけから始まった。
「アーサー、ハゲタカ大尉、って知ってるわよね」

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「ああ、もちろん知っている」
 不思議だ。なぜ、その名前がでてくるのだろう。
 今回のゲリラがアリオロン軍と接点を持っていたとはいえ『ハゲタカ大尉』が死亡したのは十年前。レイターがワートランド海戦で撃ち落した

「ティリーによると、その息子がレイターに復讐をしようと罵声を浴びせながら暴行を加えたんですって」
「そういうことか」

 抜けていた情報がピタリとはまった。

「レイターは抵抗もせず、ただ蹴られていたそうよ」

 自分が殺した男の息子に糾弾される。
 愛してやまないティリーさんの目の前で。
 レイターも辛かっただろう。「本物のティリーさんは俺を怯えて見てる」か。

 ハゲタカ大尉を望んで殺したわけではないのに。

 『赤い夢』を見るわけだ。
 ハゲタカ大尉を撃墜し、ハミルトン少佐を失ったワートランド海戦の後も、あいつは『赤い夢』に苦しんだ。

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 一方で、レイターはティリーさんに救われていると言った。
 おそらく希死念慮をティリーさんが引き止めている。あいつの気づかない、心の奥深いところで。

 人の命を奪ってきた過去と連邦軍人という現在の身分を、ティリーさんがどう受け止めるかはわからない。だが、レイターは理解されたいと望んでいる。

「ハゲタカ大尉の息子をレイターは最後逃したんですって」
「そうか」

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 仲間を失ったハゲタカ大尉との戦いは、あいつだけでなく私にも苦い記憶だ。
 レイターが積極的に話さない理由はわかった。

「ありがとう、チャムール」
「お礼なんて言わないで、私は友人としてティリーとレイターに幸せになってもらいたいのよ」

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 人間は不思議な生き物だ。
 言葉にしなくても表情で感情を伝えることができる。それでも、共通認識があれば言語が一番正確に情報を伝達できる。

 言葉で表現することは大切だ。

「チャムール、愛している」
「どうしたの? 私もよ、アーサー、愛してる。おやすみなさい。

* *

 レイターは、どうしてわたしに見舞いに来てほしくないのだろう。ティリーはため息をついた。

 休暇をもらって自宅でのんびりしていたら疲労感はすぐに取れた。頭に浮かぶのはレイターのことばかりだ。

 聞きたいことがたくさんある。
 けれど、特命諜報部という秘密が明かされた彼はわたしと話したくないのだろうか。

 レイターに会いたい。伝えたい。

 ハゲタカ大尉の息子ロベルトにレイターは言った。「俺は殺されたって構わねぇ。悲しむ人も恨む人もいねぇから」と。

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 いや、そんなことはない。レイターがロベルトに殺されたら、わたしは悲しい。ロベルトを恨むかもしれない。
 レイターに絶対死んでもらいたくない。この気持ちを伝えておきたい。

 時々、レイターはフローラさんがいる死の世界へ向かって突き進んでいく。
 でも、死んだら悲しむ人がいることを知ったら、少しは歯止めになるんじゃないだろうか。
 わたしじゃ駄目だろうか。

 何度も何度もレイターの声が頭の中で響く。

『愛してる』
 胸の鼓動が速くなる。アーサーさんのふねに着艦した時のレイターの熱を背中に感じる。

「ティリーさん、愛してる」

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 あれは、自白剤の影響でレイターは本心を口にしたのではないだろうか。

 いや、空耳だったかもしれない。
 わたしが彼を好きなために、自分に都合よく妄想のように聞こえただけに違いない。

 いや、レイターだってわたしのことを…

 バランスが取れない天秤ばかりのようだ。気持ちがいったりきたりする。
 そのたびに心が削られていく。
 知らず知らず涙があふれた。 

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  耐えられない。ちゃんと確認したい。

 今がチャンスじゃないだろうか。
 あの人はすぐに本心を隠す。レイターに自白剤が効いているという今こそ、絶好の機会だ。

 休暇を利用してアポなしで月の御屋敷に行くことを思いついた。

 将軍家の居宅は厳重な警備がされている。
 チャムールの紹介なしで入れるだろうか。
 侍従頭のバブさんはわたしのことを覚えていてくれるだろうか。
 不審者と思われるだろうか。
 
 たとえ、会えなくてもレイターの近くへ行きたい。

 我ながら大胆な行動だ。けど、もうじっとしていられない。わたしは突き動かされるように月へ向かう準備を始めた。      (おしまい)
<出会い編>第四十二話「同級生の言うことには」の前に
<ハイスクール編>「火事の日の約束」

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