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【邪念走】第12回 夜空に攻撃呪文を放つ。

「休日はストレス発散のためにランニングしてます」なんて話を聞くと、はいウソー。走って苦しい思いしてストレス発散にはなりませーん。そもそも余暇というものは体を休めるためにあるのであって、そんな貴重な時間にあえて体を動かす、しかも黙々と走り続けるという意味が不明。いみふ。と、ランニングを始める前は思っていました。そんなあたし。みんなもそう思ってると思う。そんなみんな。ランニング始めて一ヶ月あたりで気付きます。まじまんじ。

ああっ! すさまじくストレスが発散されていく!

これがいわゆる「ストレスが発散される」ということなのかと、具体的に実感できるほどストレスが雲散霧消。ランニング前のストレスが10だとすると、ランニング後のストレスは2くらいに軽減されている。だからストレスが溜まっていれば溜まっているほど、疲れていれば疲れているほど走りたくなるのだけれど、はいウソーって思ってらっしゃるでしょう。だからこれから大人の疲労の正体から説明します。

だいたい40代になってからの疲労というものは身体的疲労ではなく、ほとんどが精神的疲労である。走る体力は存外、残っているのだ。満員電車に揺られても書類の山を処理しても、上司に嫌味を言われても妻に叱られても、身体の体力はあまり減らない。実は心の体力が減っているだけ。

よって、退勤時はMP(マジックポイント)はゼロに近いが、HP(ヒットポイント)はほぼ満タンだったりする。つまり、仕事帰りの40代ってのは、使い物にならない魔法使いのようなものである。会社という壮大なダンジョンで呪文(主に防御系)を唱えまくり、MPが底を尽くと、退勤時間まで攻撃力の少ない杖でポコポコ殴って(キーボードを)業務に貢献しているつもりになっている。だから体力は余っているのだ。

そんな魔法使いな私、ポコポコポコポコ今夜も走る。MPはとっくにない、HPだって満タンだけれど魔法使いなので多くはない。よって走っているとすぐに苦しくなる。なぜ人は運動中に苦しくなるかというと、激しい動作により呼吸が荒くなり、早いペースで呼吸が行われるため、酸素の取り込みが間に合わず酸欠状態に陥るからである。酸欠状態ということはすなわち命の危険。息苦しいということは死に近づいているということなので、ランニング中の目下の最優先課題は「死なないこと」となる。

そんな死なないために必死に酸素を取り込んでいる状態のときに、現在の悩み事を思い出す。人の悩みは「金」「健康」「人間関係」の3つに集約されるらしい。「金」に関しては私は結婚して約十年、3万円/月の小遣い制なので悩みようがない。金について考える金がない。「健康」に関しては数年前に禁煙したしこうやってランニングだってしてるし、ちょっと血圧が気になるけれども深刻な問題ではない。となるとほとんどが人間関係ということになる。

「ああ、あの遅れている企画の進捗状況を苦手な上司に報告しなければならない。明日、会議の序盤に、私が、企画の進行を、面倒くさくて保留していたということを、できるだけ遠まわしに・・・・・・」なんて5W1Hにのっとった弁明を立案するが、

「明日、できなかったら明後日、会議の序盤もしくは昼休みの終盤に、私か私の部下かそうじゃない誰かが、企画の進行を面倒臭いというかやりたくないというか新規の業務にてこずっていたというかそんな理由で保留していた、というより温存していたって言い方の方がいいか! そう、温存してキープしてステイしていたってことを、できるだけ遠まわしに、報告の主旨が気付かれないくらいの遠まわしに、いつの日か『報告受けていない!』とキレられた時に、『いえ、あの時報告したアレのことです』と言えるくらい遠まわしかつ曖昧な表現で報告したい・・・・・・。ああ、もう少し早く着手しとけばよかったなあ」と、慎重かつ臆病になりすぎて12W7Hくらいになって混乱する。

だが、ランニングの最中、特に苦しくなってきた時にこの悩み事の対策を立案しようとすると、

「うるせえ、前を向け」

以上。そんなことより早よ酸素をよこせと私の肺が、魂が叫ぶ。ランニング中は後ろを振り向くことに何の意味もない。当たり前だが前を向かないと転ぶのだ。身体的に振り向くことができないと、精神的にも振り返ることができない。人は立ち止まっている時間があるから、後ろを振り向くことができるのだ。そして後悔が滲出し、新たな不安が噴出する。

要するに不安、悩みが尽きないということは、心が忙しいのではなく、実は心が暇なのである。

職場に必ず一人はいると思うが、暇な人は、働いている人よりも働いている感を出さなければならない。不自然な動きになったり余計なことをしたり業務の状況を大声実況中継したり取るに足らない些細なことを大問題に発展させたりする。心も同様、暇になると何だかいけないような気がする。今安心してると大きなしっぺ返しがくるような気がしてくるといった「安心への罪悪感」が芽生えてくる。

安心に入り浸っていざ危機が訪れた時に対応できず、「ほれみたことか」と言われないように、人は常になんらかの不安を抱え続けることによって安心するのだ。暇がバレないための忙しさ。安心してないという安心を得るための不安。ややこしいのだ。とにかく人の心はややこしいのだ。

だが、命の危険が迫ると、不安や後悔は後回しになり、全てが「それどころではない」という状況になる。しかも私は夜にランニングをする。夜は不安に襲われる、もしくは浸れる時間でもある。私は6年前まで都内の精神科救急病院の看護師長をしていた。精神科への夜間救急要請で一番多い症状が「不安」だということを知っている。

そんな不安が跳梁跋扈する時間にランニングすることによって、「うるせえ、前を向け、それどころではない」と、あらゆる不安がことごとく却下されるのだ。なぜならば酸欠状態で身体に酸素を供給することが第一優先であるから、あらゆる不安、後悔、懸念が「しょーもない」レベルに再振り分けされていくのだ。

悩み事1位だと思ってたものが、ランク外にリアルタイムに振り分けられる爽快感が、そこにある。

人は生きている限り、ある程度自分を偽って、他人を欺いて生きている。そんな不信、疑念、疑惑にまみれた人生の中でランニングしていると心が、体が、「いつまでもしょーもないこと考えてんじゃないよ」と、本音で語り掛けてくる。酸素を取り込み腕を振り脚を前に出すだけで、自分の心と体と本音で会話できるのだ。

HPもMPもゼロに近づいたとき、魂が全回復する。これがレベルアップというものではないのだろうか。

MPが切れた魔法使い、HPも底を尽きかけランニングより帰宅。家には愛する妻がいる。我が生涯の伴侶であり、あらゆる回復魔法を使いこなす僧侶でもある。「ただいま」ふとキッチンに目をやると夕食後の食器が溜まっている。僧侶は静かにテレビを見ている。

『夕食後の食器を洗ってから夜のランニングに出掛ける』という約束をうっかり破ってしまった。

影も形もなくなった不安が再び膨張を始める。落ち着いた呼吸が心拍が再び波を打つ。僧侶は静かにテレビを見ている。「・・・・・・ただいま」

へんじがない ただのシカトのようだ。

第13回 秘密結社であることを告白する。

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