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うつが治ったときの話:後編❷

末っ子を産んで三ヶ月後に全く予想していなかった子宮摘出術を受けた。

開腹手術も4回目だから、術後に自分がどんな状態になるのかあらかた分かったつもりでいた。
まず痛みと麻酔後からくる体のしんどさ。
過去にはそれに加えて頭痛や腰の痛みに苦しんだ時もあった。

しかし今回は、体が重くベッドに沈んでいくような感覚とやたら体中に管がついていて、3回の帝王切開後の状態とは大きく異なっていた。
健康体で出産のためにお腹を切った帝王切開とは全く違う状態だった。

手術翌朝の手荒な扱い


手術翌日の朝に目を覚ますと、「シャーシャー」と何かが流れる音が聞こえていて、一体この音はどこから聞こえてくるのだろう・・・と不思議に思った。
度重なる出血と手術で私は半分くらいの量の血を失っていて極度の貧血状態だった。

手術翌日のヘモグロビンは6.5まで下がっていた。
(女性は12〜16)
このシャーシャーいう音は頭の血管に血が流れている耳鳴りだった。

傷の痛みは耐えられないほどではなかった。
術後は1日目から離床し少しでも歩いた方がいい。
きっともうすぐ看護師が来るだろう・・・そう思った。

あらためて自分の体の周りに目をやると、やたらと管がはいっているのに気がついた。

腕には点滴、尿管カテーテルはバッグに繋がっている。
ここまでは今までの帝王切開後と同じだが、今回はそれに加えてお腹からカテーテルが2本。
(繋がっているバッグは2個だったが、カテーテルは腹部に3本入っていた)

ぼんやり目を開けていると予想通り看護師がふたり入ってきた。
1人は若く20代前半くらい、もう1人は50代のベテラン風。

「ハロー,グーテンモルゲン!」

「さぁ起きあがってトイレまで行くわよ」


部屋は個室で、ベッドから3メートルくらいの所にトイレと洗面台があった。
予想はしていたがいざ寝ている姿勢から起きあがるのは気合いがいる。

普段は全く意識しないが、寝ている姿勢から起きあがるって大変だ・・・といつも手術後に思う。
起き上がるためにはお腹や腰に力がいる。
その辺に痛みや傷があると、この動作がいかに過酷なものかは今までも散々味わってきた。
今回はそれに加え体の力が入らない。

そんな私の状態を慮る様子もなく、ふたりのナースは私を起こすべく態勢を整え始めた。
支えてもらいながら上体を起こし脚を下ろしてベッドの縁に腰かける。

この段階で、ものすごい眩暈がした。
グルグルと視界が回転し、私は倒れてしまわないように思わず下を向き目をギュッと瞑った。
とても目を開けていられない。

じっとベッドの縁に項垂れるように座って、この嵐のような眩暈に耐えていると私の向かいにいた年上のナースが、

「そうじゃなくって!」「顔を上げるのよ!」

と言うが早いか私の顎をグイッと引き上げた。

「さぁ目を開けて!」

これから立って歩かないといけない患者が、動きださないでいるのに焦れたのだろう。
そして若手の方が足にサンダルを履かせた。

未だに手術の時に来ていたガウン姿だったので、
「今着替える?」と尋ねられた。

履かせられたサンダルを足でよけた。

このサンダルは救急搬送された時に履いていたもので、底が若干厚いものだった。
こんな管だらけの状態で、足元が悪ければ絶対に転ぶだろうと思った。それに転倒してもちゃんと抱き留めてもらえないことを動物の勘で感じていた。
だから何も履かずに歩きたかった。

着替えるにしても、こんなに管がたくさん入っていては相当時間がかかってしまう。
考えただけで気が遠くなりそう。
座っているのもギリギリでこれから歩くことを考えたら、着替えなんて後回しでかまわない。

「ナイン(ノー)」


若手がまた私にサンダルを履かせようとするので
「ナイン」と言い拒否した。

「フッ、全部ナインなのね!」

冷ややかに鼻であしらうように言う声が聞こえた。

顎を雑に持ち上げられて、こんなことを言われた悔しさと怒りで猛烈に腹が立った。
けれど、とにかく身体に力が入らない、言葉を発する気力がなかった。


「ナイン」の理由は何なのか、眩暈で顔を上げていられないこと、このサンダルでは足元が不安なこと、着替える力がないこと。
それらをドイツ語で説明することができなかった。


とにかく座るまできたのだから、立ち上がってトイレまで行く。
そのことに意識をフォーカスしないと・・・

私の身体にくっついている管を持ってもらい、支えられながら一歩ずつ慎重に足を前に出す。

動くとやはり痛い。
でも止まるわけにはいかない。

ふらつきながらでも転ばずになんとか洗面台の前の椅子に座り洗面をして、また立ち上がって回れ右をして同じようにベッドまで戻る。

ベッドに戻った時は息も絶え絶えだった。

「ちょうど朝ごはんが来たから、食べてね」

と、ふたりはすぐに部屋から出て行ってしまった。

極限状態

ベッドは頭側が上がっていて、座った状態で私は取り残された。

このベッドは電動式ではなく、頭側で止められたレバーを倒さなくてはフラットな状態にできないものだった。

今の私はひとりでベッドに横になることもできない。

とても朝ごはんを食べれるような状態ではなく、一刻も早く横になりたかった。
記憶があいまいだが、ナースコールか何かをしてベッドを元に戻して貰った。

横になると体が布団に沈みこんでいくようだった。
鉛のように重く泥のように身体が溶けてしまうような感覚だった。

さきほどのナースたちの言動・・・

なぜあんな風に扱われないといけないのだろう。

私は意地悪でナインと言ったわけでもないし、がんばって立ち上がろうとしていたのに。
自尊心が踏みにじられたし形容しがたい無力感に襲われた。

何も言い返せなかった。
あんな扱いを受けたのに毅然とできずなにやってるんだろう・・・
私はなんでここでこんな風になちゃってるんだろう...

ベッドのなかで涙が後から後から流れてきた。

掃除のおばさんが入ってきたが、後にしてもらうように頼んだ。
おばさんは泣いてる私を見てそそくさと出て行ってくれた。

ベッドのなかで私は完全に独りだった。

全く気持ちの整理ができないまま、子宮が無くなってしまったこともどう受け止めて良いのか分からなかった。

体は限界までくたびれていたが、精神はどこか明晰だった。

泣くと頭のなかがシーンと静まり、脈絡なく様々なことが思い起こされ、そのうち次々に人の顔が浮かんできた。

東京の病院で出逢った患者さんたち。

リベリアで多産が祟って体がボロボロになって亡くなったシアという女性。
子宮内感染で子宮を全摘した二十歳そこそこの女の子。

彼女らの痛みや苦しみをみてきて、きっと私は理解できていないと分っていたけれどやっぱり分っていなかったなぁ....


ぜんぜん解かっていなかった

こんなに辛いけれど私は死ぬ病気じゃあない
今がどん底でもこれからよくなっていくんだから

あのひとたちは反対に、これからドンドン悪くなっていくしかなくて
これから悪くなるしかない日々が待っていて
どんなにかしんどかったのだろう・・・

あぁ私はなにも解かっていなかった...


そして突然あるシーンが蘇ってきた。

滝田さんが言ったこと


それは26歳の頃、外科病棟2年目の時。

よく受け持っていた患者さんがいた。

その方は滝田さんといって40代後半の患者さんだった。
末期で、私が受け持ち始めたころはもう自力では歩けない状態だった。

ベッドに横になっていても厚みが殆どないような小柄で華奢な女性だった。
控えめだが少し神経質なところもあり、しっかりとした口調で自分の希望を伝えるひとでもあった。


「このクッションはここね、飲み物はここに置いてください。あ、これはこうして欲しいの」

“いろいろ注文をつけてうるさくてごめんなさいね” と謝るのも忘れないどこか品のある人だった。
同僚のなかには彼女を面倒くさがる人もいたが、はっきりと意思を伝えてくれる滝田さんが私は好きだった。

ある朝、日勤の受け持ちになり挨拶のため訪室した。

 今日一日受け持たせていただくみきです。よろしくお願いします。

「あぁ今日はみきさんが担当なのね」
「よかったわぁ。今日は好い日だわ」

歌うように朗らかに滝田さんは言った。

“あなたに受け持ってもらえてよかった”と言われたことが嬉しくて、ずっと記憶に残っていた。
このシーンが突然蘇った。

「今日はいい日だわ」

そのとき、唐突に思い至った。


今日はいい日...?


それじゃあ、滝田さんに「今日は悪い日」はどのくらいあったのだろう?

私は自分が褒めて貰えたことが嬉しくて、本当に言葉通りに受け取っていた。
ずっとずっと10年以上。
何度もこの場面を思い出してきたのに、今の今まで気がつかなかった。

あの時の彼女のように、動かない重い肉体に沈んで苦しがってそしてようやく辿り着いた。
全く見えてなかった裏側にあったもの。


ものすごい衝撃に襲われた。
誰かに頭を殴られたような揺さぶられるような気持ちだった。

うつになって以降ずっと思っていたことがあった。

アフリカへ行くという長年の夢を叶えて、人生に関わる大事業もして、
好きな人と結婚して子供に恵まれて・・・

鮭でいえばもういつ死んでもよい時期だ

もう人生を充分生きてきたから、もうこれ以上はいいんじゃないか

これ以上生きている意味がどこにあるのだろう?

私は人生を解ったつもりでいた。


なにをやっても“どうせ~だから”と思ってきた。

「~」に入る言葉は、新鮮味が欠けてエンディングが判ってしまうようなものばかり。


どうせつまらない
どうせ楽しくない
どうせ終わってしまう
どうせやったって大したことない
どうせ、どうせ....

ジンセイナンテ モウ シッテシマッタカラ 
イキテイテモ イミガナイ


どう拭おうとしても、振り払えない纏わりついてくる厭世的な気持ちだった。

しかし、
あの日ベッドのなかで知ったのは、


そうじゃない、

人生は生きるに値する

だって私は何も解っていないから。

自分がいかに思い上がっていたのか、井の中の蛙のように傲慢だったか。
人生のことをすべて解ったつもりで生きていた己の小ささ。


心の底から自分の至らなさを理解した出来事だった。

うつが治っていた


退院してしばらくは気がつかなかった。

数カ月後の師走にDVDで映画を観ていると、終わりで涙がボロボロ零れていた。

もう何年も映画で泣くことなんてなかったのに。
産後うつになってから、あんなに好きだった映画もどうせ作り物だと、冷めた目で見ていた。
その自分が映画を観て泣いている・・・・


この時にうつが治っていることにやっと気がついた。

輸血はしなかったので、貧血が治るまで数週間かかったし、末っ子がまだ乳飲み子でどうしても授乳は続けたくて必死だった。
母乳は血液から作られるので、貧血だとおっぱいが出ない。
ほとんどミルクにしても、おっぱいだけは吸わせて完全に乳房から飲むのを忘れないようにした。
授乳が終わると息が上がった。
階段も休み休みじゃないと上がれない。

自分の肉体と周辺のことにしか注意が向かず、日常に慣れていくことに気を取られていた。

私のうつはこれまでずっと低空飛行状態で、大きな下がりもない代わりに上昇もなく、このまま色彩の乏しい世界でやっていくのだろう・・・と諦めていた。

だから2013年が終わろうとしている時に、治っている状態の自分に気がついても実感に乏しかった。
信じられず、また前の状態に容易に引き戻されるのではないかと疑っていた。

また逆戻りするかもしれないと。

その日の天使


あれから8年近くが経つが本当にうつから脱却できた、と安心するのに数年くらいかかった気がする。

自分のうつがなぜ治ったのかと何度も考えてみたが、あの打ちのめされるような経験のお陰だと思っている。

どうせ...と思っていた自分がいかに解っていなかったかを、
極限状態が、私のどうせ〜だから....を蹴り上げたのだと思う。


正直に書けば長い時間あの看護師たちを恨んでいた。
ずいぶん酷い扱いをされた、と。

でもあのとき丁寧な看護を受けていたら・・・
私はうつから脱却できたのだろうか?


中島らもさんの「その日の天使」というエッセイがある。

その日の天使

死んでしまった ジム・モスリンの、
なんの詞だったのかは忘れてしまったのだが、
そこに“The day’s divinity, the day’s angel”という言葉が出てくる。

英語に堪能でないので、おぼろげなのだが、
ぼくはこういう風に受けとめている。

「その日の神性、その日の天使」

大笑いされるような誤訳であっても、別にかまいはしない。

一人の人間の一日には、必ず一人、
「その日の天使」がついている。
その天使は、日によって様々な容姿をもって現れる。

少女であったり、子供であったり、
酔っ払いであったり、警察官であったり、
生まれて直ぐに死んでしまった、子犬であったり。

心・技・体ともに絶好調の時は、これらの天使は、人には見えないようだ。
逆に、絶望的な気分におちている時には、
この天使が一日に一人だけさしつかわされていることに、よく気づく。

こんな事がないだろうか。

暗い気持ちになって、冗談でも"今自殺したら"などと考えている時に、
とんでもない友人から電話がかかってくる。
あるいは、ふと開いた画集かなにかの一葉によって救われるような事が。

それはその日の天使なのである。

夜更けの人気が失せたビル街を、
その日、僕はほとんどよろけるように歩いていた。

体調が悪い。

黒い雲のように厄介な仕事が山積みしている。
家の中ももめている。
それでいて明日までにテレビのコントを、十本書かなければならない。
腐った泥のようになって歩いている、その時にそいつは聞こえてきた。

「♪おっいも~っ、おっいもっ、ふっかふっかおっいもっ、まつやのおっいもっ♪買ってちょうだい、食べてちょうだい、
あなたが選んだ憩いのパートナーまつやのイモッ♪」


道で思わず笑ってしまった僕の、これが昨日の天使である。
中島らも その日の天使

                動画8分18秒~


「その日の天使」という言葉だけ憶えていて、
後から調べてみて、中島らもさんの文章と知った。

私にとってあの時の二人組の看護師が、
「その日の天使」だったようだ。

きっと自分も知らないうちに気がつかないまま誰かの天使になっているのかもしれない。
あそこに立っているあのオジサンも、今日の誰かの天使かもしれない。

そう思うとき風景は私に優しく微笑んでくる。


日暮れの街
夕暮れがすきな兄弟猫

後書き

このお話に登場する滝田さんのことを少し。

病棟のスタッフとして患者さんの情報というのは、詳しく得られますが滝田さんについては「独身で親族もいない」という簡単な情報がカルテに記されているだけでした。


彼女は天涯孤独のひとでした。
週に2回ほど元職場の上司とその奥様が来られていましたが、その方達について我々スタッフに話すこともなくいつも淡々とされていました。
それ以外のお見舞いはありませんでした。

まるで「去る者は追わず来る者は拒まず」といった風に受け止めておられるように思いました。
泣き言や愚痴も聞いたことがありません。
だからあの時の台詞はどこか彼女らしくなくて、
私は嬉しさもありましたが驚いたのです。
ああいう風にストレートに親愛の情をみせてくれたことに喜びを感じました。

うつから脱却できてからいつも思います。

今、もしあの場面にもう一度戻れたら....

「滝田さん、好い日だって思えない日が有るのですか?」

と応えたい。
そうして弱音を漏らせなかった彼女の話しに、もっと耳を傾けてみたい。

当時の私は若く健康で、そんな自分が不治の病に苦しむ方々を看護をして良いのか?
私が持っている、健康や若さといったものをひけらかしているようで心苦しかった。

今、年を重ねてあの頃に聴いた話しが不意に蘇ってくることがあります。


自分の経験とともに、それらを noteに綴っていくことでその声がいつか誰かの、必要としている人の元へ届くようにと願っています。


2022年1月28日(金)

みきとも


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