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記憶の引き出しの中から

祖母のことを、そして彼女を巡る物語を綴りたい。

令和という元号を、初めて聞いた時に反射的に親しい気持ちがしたのは私の祖母の名前が「令子」だったから。レイコという名前はよくあるけど“令”という字は珍しいと予々思っていたので新しい年号にこの字が使われるなんて..と少しはしゃぎたい気持ちになった。

大正の終わりの方に生まれたこの祖母が他界して20年近くが経つ。
2年近く前にあるnoterさんのコメント欄に少し祖母の思い出話を書いたことがあって、その方から「ぜひちゃんと書いた方がいい」との言葉を頂いた。その大好きだった英国在住のnoterさんのことは未だに思い出すし、今日は私の誕生日なので自分のルーツに纏わる話を書きたいと思う。

隔世遺伝

私にとって両方の祖母は近しい存在だったが、特に令子さんは私の子供時代の記憶と深く結びついている。家業に忙しかった両親をサポートするために、毎日電車に乗って家に手伝いに来てくれていた。

思い出すのは台所に立つ令子さんの後ろ姿だ。母が作る料理と同等量かそれ以上の令子さんのご飯を食べて私は大きくなった。
土曜日の昼はうどん、お好み焼き、焼きそばのどれかで「みきともちゃん何がいい?」と必ず前日に聞いてくれた。
その時の気分で選んだものが、土曜のお昼の食卓に並ぶ。そんな何気なく続くやり取りこそが、日常に紛れてる愛情だったのだ...と今しみじみと感じる。
もう一人の祖母より実感として近く感じるのは、感性みたいなものが令子さんとは近かったこともあるんじゃないかと思う。
子供の頃、爬虫類が好きだった者同士、妙に気が合った。一世代飛ばして結びつく隔世遺伝的な絆が私達の間にはあった。

二人の祖母は共に俳句を愛したが“種田山頭火”については意見が真逆だった。
母方の祖母は「山頭火はよく解らないから好きじゃない」とハッキリ言ったが、私はそのなんでもありなところが好きだと言うと令子さんは「私も好きよ」とのことだった。
山頭火の混沌さに令子さんがどう惹かれたのか、今でも山頭火の句を見ると、この時のエピソードを思い出す。

七五三の記念写真
左手が令子さん、右手が母方の祖母
しかし載せるのを躊躇うほどイモい...🍠

山頭火は幼いときに母を自死で失い、おそらくそのことが彼の一生をある程度決定づけた。
お屋敷の井戸に身を投げた理由は、夫が妾を同じ屋根の下に囲い、その生活を苦にしてのことだったが、私の祖母も同じ理由で苦しめられた半生を生きた。

医者の息子として二代目ボンボンで育った祖父は、父曰く「かるい男」で相当な女ったらしだったらしい。京都の芸者さんには山ほどモテたし、なにより二号さんを囲い家には半分しか帰ってこなかったそうである。
令子さんはストレス性の胃潰瘍を拗らせ、胃をほとんど摘出する手術を受けている。
まだ幼かった父は約一年もの時間、病気療養中の母の元から離されていたことがあるらしく、そういう不全家庭に育ったことが父の性格形成に大きな影響を与えてるのだろうと思う。相当に屈折し“父親”というロールモデルを持てないまま大きくなったのが父だ。
私の父に抱く鬱屈もまた大きいけれど、この背景に思いを馳せる時に、家族間に脈々と流れる負の遺産みたいなものを感じずにはおれなかった。それを次の世代に渡さず終わらせることに苦心したところがある。

孫娘もまた夫の女性問題に悩まされる道を歩く事を令子さんが知ったらなんと言うだろう?とある時期考えたことがあった。
きっと“可哀そうだったね”と抱きしめてくれたんじゃないかと思う。そんなところまで似なくてよいとは思うけれど、そういうコトもあるのかも知れない。
娘にも息子たちにもよきパートナーに恵まれる人生を歩んで欲しいと心から願っている。
何国人でも同性でもなんの問題もない。
なにより一番に彼らを愛し大切にしてくれるなら。いつの日かそんな相手に巡り合って欲しい。

モグラとヘビと想い出

さて話を令子さんにフォーカスすると、彼女の際立った異質ユニークさを巡る思い出が幾つかある。

弟が誕生する前だったと思うので4歳くらいのお話なのだが、ある日とても嬉しそうな表情で我が家に来た令子さんが、「さっきすごく珍しいものを見つけたのよ!」と言いながらイソイソと白いハンカチに包まれたものをハンドバックから出してきた。
大切そうに開いたその中には、なんと死んだモグラの赤ちゃんがいた。
「モグラの赤ちゃんなんて滅多に見れないわよ!私も初めて見たわ」と満面の笑みの令子さんとは対照的に母は悲鳴を上げて飛びのいた。

令子さんと私は話し合って、当時住んでいた団地の入り口の小さな小さな植え込みの所にこのモグラちゃんを埋葬することにした。
お気に入りの“モグラのモグちゃん”と名付けた縫いぐるみを手にして、本物のモグラちゃんとじっくり見比べてみて「ほんものにはめがないねぇ」「本当だねぇ」と二人ひとしきりじっくり観察をした。
令子さんは実に残念気に「本当にいいの~?もう埋めてしまいますよー!」と大声で上からこわごわ覘いている母に呼びかけたが、そういうものが大っ嫌いな母は、

「いいんですー!早く埋めちゃってください!!」

私たちは顔を見合わせて「勿体ないね、見ればいいのにね」と言い合った。子供心にも最後のチャンスをものにしようとしない母がもどかしかった。自分が母とはかなり異なった存在だということを幼いながらも、はっきりと体感した最初の出来事でもあった。

🇩🇪まで来てくれたモグちゃん


令子さんは、尋常学校時代に自分の箪笥でヘビも飼っていた時期があったそうだ。

「でもね...ある日学校から帰って来たらいなくなっていてね・・・」

母親が留守中に発見してしまったそうで“捨てられてね”と無念そうな表情で語ってくれた。
勝手に捨てたことを憤っていたが、自分が母親になってみて箪笥で発見する側の気持ちを想像して初めて“とんでもないな・・・”と思った。

その母というのは実母亡き後、後添えに来た継母であまり仲が良くなかったそうだ。
後年、夫とのことでいくら悩んでも、彼女にとって気軽に戻れる実家というのはなかった。
令子さんは最後、老人ホームに入りそのまま近くの病院で亡くなるが、同期間私は地元にいたのでよくお見舞いに行くようにしていた。

ある日、ほんとうに何気なく隣に座って日向ぼっこをしていたら唐突に幼い頃の話を始めた。

わたしだけ親戚に家に預けられてね。
妹は残ってたのに。
なんでわたしだけやったんやろう...?

それは遥か昔、祖母が7歳くらいの時、実母が闘病中のことだった。幼い妹は年齢的に預けるのが難しかったから親元に残されたのだと思うけれど、令子さんにとってはずっと、“私だけが”という思いだったのだ。

その当時、やや認知症気味だったけど、そうやって心のたがが外れた時に封印していた80年近く昔の記憶が蘇ってきたのだろう。
おばあちゃんの中に幼い少女が今でもいるんだなぁと「なんでやったんやろうね・・・」と言いながら同じように少し涙ぐんだあの日のことは、祖母とふたりだけの思い出になっている。
祖母の中に眠っていた幼い少女はまた、自分のなかの子とも重なって思い出すたび、心の奥に在る柔らかで脆いものに触れる気がする。

暗い記憶

私の幼い頃の記憶に密に関わる令子さんだが、どこか暗い雰囲気が漂い、それを疎ましく感じる気持ちもあった。大好きだけど煩わしい。
家族間の愛憎のようなものの片鱗が私の中には確かにあって、それに悩まされたこともあった。

土曜日だけは母が遅くまで仕事で、令子さんと一緒に夕食を摂ることになっていたが、その時だけ「食べたくない病」に罹って、ずいぶん令子さんを困らせた。自分自身でもなぜこんなにも食欲が湧いてこないのか不思議だった。
今思えば、母不在の寂しさや彼女が纏う独特の雰囲気が私から食欲を奪っていたのだろうな、と思う。

我儘を言って困らすことをワザとする自分の、そんな嗜虐的気持ちがたまらなくイヤだった。そんな時、令子さんは心底困った表情で厭わしそうだった。5歳下の弟をとても大事にする姿からますます反発することがあった。
令子さんは夫に対しても、息子に対しても生涯うまく対応できず、ひたすら相手の気持ちを損なわないように気を使い続けていた。
さんざん世話をかけたはずの息子、私の父だがあまり令子さんを大切にしておらず、どれほど彼女が献身したかを同じ家庭内で見てきた者として、父に対して義憤を抱いたこともあった。

自分が様々な経験をするなかで別の目を持って見たとき、令子さんにはどこか“大事にされない何か”を纏った側面を持つ女性だった事もまた否定できない。
幼くして母を喪くした彼女は、素直に親愛の情を出せる可愛げのある女ではなかったのだろうか。
大事に思っている相手に大切にされないことほど哀しいものはない。
変わったところも多々ある人だったが、善良で姑としてもつねにフェアだった彼女はもっと現世的に大切にされるべきひとだった。
そうあって欲しかった。
そんな思いから大人になってからは、なるべく優しくしたいと思ってきた。
子供時代の罪滅ぼしの面もあったが単純に馬が合う部分も大きく、孫のなかで一番時間を過ごした最も近い関係だったと思っている。
臨終にも立ち会い、最期を父と伯母とで看取ることができた。

満州からの縁

これから書く下りは「なかなか書けないな」と思っていたが、関係者もほぼいなくなったので思い切って書いてしまおう。

軍医だった祖父と一緒に祖母も満州に渡り、敗戦の年の5月に引き揚げ船で帰国している。
「日本の敗戦が近い」という軍の内部情報のお陰で敗戦後の引き揚げという悲惨な出来事に遭遇することなく祖国に戻ってこれた。
長い間、祖父が満州で何をしていたのかは親族もよく知らなかったが、祖母が他界して数年後に伯母の口から衝撃的な話を聞くことになった。

それは、祖父の二号さんは“満州の石井部隊の石井隊長の娘だった”ということだった。軍医として祖父はあの悪名高き七三一部隊におり、戦後何かの縁で隊長の娘と出会いそういう仲になったのだった。
祖父は脳腫瘍で49歳という若さで他界しているが死後、令子さんはお妾さんだった相手の女性と話し合ってきっちりと財産分与もしている。
向こうには一人息子がいて、女性は祖父の姓を名乗らせたいと言ってきたそうだが、珍しい苗字だったため“それは許さない”と断ったと聞いた。

父にとっては異母弟に当たるこの叔父の存在のことは、長いあいだ心の何処かにあって気になっていた。全く交流のなかったこの男性の存在が浮上したのが数年前。
その日は唐突にやって来た。
行政から、亡くなった旨の連絡が入り相続の意志の有無を明らかにしなくてはならなくなったからだ。こういう場合の相続は「相続を受ける」と返答して初めて、その額、借金も含めて知らされるそうだ。大金が転がり込んでくるのか、借金を背負わせられるのかは蓋を開けてみないと分からない。当然、父も父の兄弟もこれを断った。
彼には他に家族はなく、最も近い親族は一度も連絡を取り合わずに終わった父達だった。住んでいた場所もそう遠くない所で、当然父のことは名前からも容易に辿れたはずだが、生涯一切のコンタクトも無かった。
“祖父のもう一つの物語が終わった”と感じたが、独りで亡くなった彼のことを完全に忘れないでいたい。

祖父は手術後、一度は社会復帰もできたそうだがすぐに再発した。
その死の床で令子さんに、
「ボクはなにも悪いことはしていないのに、どうしてこんな目に遭うんだろう」とさめざめと泣いたそうである。
なんて答えたの?と問う私に、令子さんは少しシニカルに笑いながら、

「そうね何もしてないのにね・・可哀そうに」

そう言って手を摩ってあげたわ。

でも...そんな訳ないわよね?


祖母を、一人の女性としての “令子さん” を、
様々な気持ちで思い出すことがあります。
私にとっていつも、ずっと大好きな“令子おばあちゃん”です。

令子おばあちゃん、有難う
孫として貴女に出逢えてよかったよ

令子さん、ゴッドファーザーの曽祖父、祖父
因みに曽祖父は祖父を超えるモテ男だったそうで、悋気な曽祖母は夫の精を抜いてから外出を許したとかなんとか...


終わりに

長いお話を最後まで読んでくださって有難うございます。

いつかこの祖母のことを纏まった文章のなかで書き表したいと思っていました。
今年は辰年で私は年女ですが、祖父もまた同じ辰年でした。
会ったこともない祖父ですが、祖母や父を通してその存在について想いを馳せるときがあります。
私が生まれる60年前に生を受けたこの祖父がいなければ私自身も存在していませんでした。
きっと私の代までで、小さな歴史のなかで消えゆく諸々のものがあるでしょう。そういう記憶の断片を書き記す場が在ることに感謝です。

最後に、私の大好きなnoterさんでファミリーヒストリーを多く書いておられるそらさんの言葉も私の背中を押すものになりました。

ありがとう、そらさん🌎


40代で未亡人になった令子さん、美人でモテモテだったが“もう男は懲り懲り”だったそう。
肌質が似ていて思春期にもニキビができたことがないのは
祖母も同じだったと聞いた。





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