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『21世紀の「大人」を考える』①『「老人」は、どこにもいない(のかもしれない)』。

 「超高齢社会」になっている。平均年齢でいえば、明らかに、とても「高い」国になった。

見え方と思い方のギャップ

 病院の待合室などで、5〜6人の明らかに「高齢者」の人たちが話している姿は、よく見かける。

 ある時、「えー、見えない」という声が聞こえてきて、どうやら、年齢の話らしく、その声は女性からあがっていたが、見た目の感じよりも、ずいぶんと若い印象の響きだった。さらによく聞いていると、昭和の年号がいわれ、その実年齢よりも10歳は若く見える、つまりは、ここにいるのは、どうやら同世代の70代くらいの方々らしかったのだけど、その声を聞いて、失礼にならない程度に見ていたのだけど、どの人が若く見えるのかは分からず、見事に同質性を保っているように見えた。

 たぶん、自分たちも似たことをしていると思う。
 クラス会など、同じ世代が集まると、特に40歳を超えると、その年齢に見えない、という話題は、たぶん、今もどこかでされていると思うくらい、ポピュラーなことのはずだ。そして、「見えなーい」のどこまでが本当に思っているのか、その裏に嫉妬があるのか、逆の意味が含まれているのか、そんなことまで考え始めると、さらに違う話になってしまうので、問題は、そうした会話がされている中年のグループがあったとして、それを、20代の人が見た時には、おそらくは、どの人が「歳より若く見えるのか」が分からずに、見事に同じ世代の集団に見えるはずだ。

 そして、そのまま、歳をとって、周囲からの見え方と、自分からの思い方のギャップはうまらないまま、年月がたっていくのだと思う。もしかしたら、そのギャップが広がるのが、「老いる」ということなのかもしれない。何しろ、自分の姿は鏡など、外部からの視点でしか分からないからだ。

「年齢差」への距離感

 10年くらい前に、昭和の終わりに生まれた20代の人に、平成生まれは分からない、どう思います?みたいなことを聞かれたことがあったのだけど、すでに私には、その違いは分からず、どちらも若くて、やはりキラキラしていて、その輝きの質がどれくらい違うのかを理解するのは難しかった。

 人生の時間を1日にたとえる場合があるから、若い時は、「午前中」で、太陽の光を正面からあびて輝いているのに対し、歳をとると「午後」から「夕方」になり、光が弱くなった上に、もしかしたら背中から浴びているから、微妙にシルエットになり、顔が輝くのは難しくなっているのかもしれない、とも思うようになった。

 この若さの輝きに、エロス的なことだけでなく、若いというだけで、ある種の光を放っていることが分かるようになったのは、自分が年をとった、ということだから、ちょっと悲しくもあったのだけど、酒の席で自分だけウーロン茶を飲み続けていて、その時に、その「年齢差」の分からなさについて、伝わるかどうか分からないけれど、確か、こんな答えは返したような記憶もある。

 昭和の終わりに生まれた人と、平成の始めに誕生した人の差は、その地点に立っている当事者にとっては、その差が50センチであっても、大きい差に感じるはずだった。だけど、わたしは同じ時間に生きているけれど、ずいぶん前に、この世界にやってきて、だから、年齢的には遠い場所にいるから、何十メートルから先だと、50センチの差の違いがわからない。ごめん。そんなことを言ったような気もするが、もしかしたら、記憶はねつ造されている可能性もある。それでも、年齢の差は、そんな風に見えるのだと、今も思う。逆にいえば、若い人から見たら、40歳より向こうの「年齢歳」は、ほぼ一緒に感じるのかもしれない。

「人生経験」という言葉

 自分より、若い人に、人生経験があって、などと言われると、それが社交辞令だったりしたとしても、恥ずかしい。それは、「人生経験という言葉」に値する重みや厚みがあるような「人生経験」がないからだと思うのだけど、それでもふと考えると、「人生経験」という言葉にふさわしい「経験」ってなんだろうとは思う。

 アメリカのトランプ大統領(もうすぐ元・大統領になるけれど)は、とても波乱万丈なのは間違いないけれど、「人生経験が豊富」と言えるのかというと、個人的には微妙だと思う。「人生経験」という言葉は、「秘かに」という要素や、「誰から見ても立派」みたいなニュアンスが必要ではないかと思うから、やっぱり「人生経験」が豊富になるのは、自分にとっても、ほぼ不可能ではないか、とも考える。

精神年齢で「老人」の人はいない(と思う)。

 精神年齢という言葉があって、確か20代や30代のころのほうが関心があった。だけど、さらに年齢を重ねると、そのことに対しての関心そのものが薄くなるのは、長く生きられるのは、ある意味で恵まれていることだと思うのだけど、年はとるけど、それにふさわしいほど、成長していないのではないか、ということに直面したくないからだと思う。年齢なりに成熟していくことができてないのではないか、と一番感じているのは、その本人だからだ。だから、時々、自分の実年齢が嘘ではないか、と思う時があるほど、自分の気持ちが、ある時期から、変わっていないことに、がく然とすることがある。

 精神年齢が、実年齢と一致していたとして、たとえば、50代や60代や70代になって、その年齢にふさわしい成熟をしていたら、それは本当に「人生経験が豊富」な結果という感じになると思う。でも、ある年齢より上の精神年齢の人は、実はいないではないか、と思うこともある。

 「精神年齢」での最高到達地点は、多くの場合は、たぶん40代くらいではないだろうか。言葉では「もう年だから」と言ったとしても、よく聞くと、実年齢が60代でも70代でも、まだ40代くらいの気持ち、どころではなく、気持ちは20代だったりする人も少なくないような気がする。

 それは、自分やその周囲という限られた範囲の現象に過ぎないのかもしれないけれど、立派で成熟した大人(イメージでいえば、精神年齢が50代以上の人)は、自分の行動範囲の狭さを差し置いても、やっぱり少ないと思う。それよりも、実年齢が「高齢者」であっても、気持ちまで「老人」の人は、その人が生きている以上、本当はいないのではないか、と思うことが、だんだん多くなる。

「論語」の基準

三十才で(学問に対する自分なりの基礎)を確立した。
四十才で戸惑うことがなくなった。
五十才で天命を悟った。
六十で何を聞いても動じなくなった。
七十になってからは、心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった。

 この中では、四十にして惑わずが有名だけど、考えたら、孔子の生きていた時代は、紀元前500年くらいなので、平均年齢を考えると、七十歳を超えて生きていた孔子は、長生きになるはずだ。それに、この時代の四十歳は、おそらくは、今で言えば、少なくともプラス10歳くらいと仮定すると、そのあとの年齢の成熟度も、ずいぶんとゆっくりしているようにも思える。

 天命を悟るのが、今の年齢で、六十歳だと考えると、間に合うのだろうか、といったようなことを感じるし、現在で、八十歳になって、やっと心のおもむくままに行動しても、道理にかなう行為になる、といったことになるのは、遅くないだろうか、と思ってしまう。

 ただ、今の八十歳を見て、この道理にかなう行動は、まだ無理ではないか、と思う一方、八十歳まで元気でいられたら、ここまで完全にいかなくても、少しは近づけるのではないか、といった励みにもなる。

 2000年以上前、今よりはるかに平均年齢が短かいと思われる時に、これだけの年齢にならないと、これができない、といった見立てをしていたというのは、時間の猶予を与えてくれている、という気持ちにもなるが、それよりも、人間は成長、もしくは成熟するには、時間がかかるという見極めをしている、ということかもしれない。

 日本だと、人生わずか50年、ということを意識して、本当にそれに近い年齢で亡くなった織田信長が有名だけど、論語の基準でいうと、まだ天命を悟る前に亡くなった、という見方すらもできる。

 そう考えると、年齢の成熟の基準というのは、ずいぶんと違うのだけど、それは、文人と武人の違いということかもしれない。

百歳を生きた人の感覚

 義母は103歳まで生きた。それは長生きだと思ったけれど、日常では家族としても、年齢をそれほど意識していなかった。義母自身も、100歳を超えた、ということに関しては、うそみたいというような言い方をしていた。

   超高齢者、ではあったし、耳が聞こえなくて、ほぼ1日ベッドにはいたけれど、その振る舞いは、時として若さを感じさせ、表情も豊かで、本人の意識としては、精神年齢は100歳ではなかったと思う。

 一度、手術のために、胃の検査などを行い、その頃は九十歳を超えていたはずだったけど、医師に驚きと共に、「七十歳くらいの内蔵ですね」と言われても、まーまーまー、と言ってはいたのだけど、そんなに嬉しそうでもなかった。もしかしたら、もっと下、60代とか、50代でないと、「年より若い」と言われた気持ちがしなかったのかもしれない、というような気配だった。

 八十歳でも、九十歳でも、たぶん本人の気持ちでは「老人」ではないと思う。
 体が衰えても、気持ちはそこまで「老人」にはならない。
 逆にいうと、そこまで成熟するのも難しい。

 孔子は、七十歳までを語っているのだけど、もし、もっと生きて八〇歳を超えたら、どんな基準を示したのだろうか?とも思うけど、もしかすると、実年齢は100歳を超えたとしても、人間は成熟したとしても精神年齢は七十歳までが限度ということかもしれない。そして、今の社会で、成熟しているという意味での「精神年齢七十歳」を超える人は、ほぼいないという印象がある。

 もちろんちゃんとした人ほど目立たず、静かに生きている可能性が高いので、自分が知らないだけかもしれない。だけど、もしかしたら、成熟度でいうと、「精神年齢六十五歳」を超える人もいないのかもしれないし、「老いる」という意味では、何歳になっても、気持ち的には、30代、40代、みたいな人が多いから、成熟度としても、気持ちとしても、「老人」はいないのではないか、と思う。


 そう考えると、成熟した大人、違う言葉でいえば「まともな大人」とは、21世紀の今、どんな人なのかは、考える必要もあるようです。「まともな大人は、どこにいるのか?」(リンクあり)については、また、別の機会↓に考えてみたいと思っています。



(参考資料)



(他にもいろいろと書いています↓。読んでいただけたら、うれしいです)。


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