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noteを始めて、いつの間にか、変わってしまった「意識」は、元に戻らないのだろうか。

 コンビニに寄って、他のものを買おうと思っていたのに、習慣のように「スイーツ棚」に寄ったら、初めて見るような、「おいしそうな」新作があったので、妻と一緒に食べようと思って、二つ買った。

 帰る時も、そのスイーツがつぶれないように、と時々、他にもいろいろなものが入っているバッグの中のポジションを気にしながら、自転車に乗っていた。

 無事に持って帰って、妻は喜んでくれて、だけど、もう夕食前だったので、明日食べようと話をしただけで、ちょっと楽しみだった。

コンビニのスイーツ

 翌日。袋を慎重に開けて、全体が柔らかそうなものだったので、気をつけて持ち、見た目は口が開いたタイプのシュークリームだったが、食べ始めると、これまで、あまり記憶にないような、柔らかさと、絶妙なバランスのある甘さで、とてもおいしかった。

 妻も、「とてもおいしい」と満足そうで、それも含めてよかったのだけど、食べ終わって、あ、写真撮るの忘れた、と思った。それは、これだけおいしかったので、noteに書こう。でも、その時は写真があったほうがいいのに。と反射的に考えていたからだった。

 あれ、昔、こんなこと、思っていたっけ。

 以前は、おいしい時や、うれしい時も、その場だけのもので、それは自分の記憶とか、思い出に残ればいい、と自然に思っていた。というより、そういうことを意識していなかったと思う。

 自分にとっては初めてのSNSであるnoteを始めて1年以上が経った。

 それを続けてきたら、自分の体験などを、すぐnoteに書きたいと思う気持ちになる。そんな習慣がついた。

 だけど、目の前のことを撮影したい、といった思いなども含めて、どこか浅ましいというか、ケチくさいというか。そのままに、そこにいる、ということができなくなっていて、「伝えたい自分」がいつもいるようになってしまったのだろうか。

 そんなことを思うと、それは、いったんそうなったら、もう元に戻れないのかもしれない。それは、どこか不自由になったということなのだろうか、などと思った。

新写真論

(著者の結婚式にて)
妻が「式の様子をSNSにアップするのは控えてほしい」と言ったところ、みんな写真を撮ること自体をやめたこと。これを見て、式の最中だったがぼくは大興奮であった。これはつまり、シェアできない写真は撮る意味がないと思っているということではないか。

 写真について論じた本の中で、こうした文章があり、これは筆者自身の結婚式での出来事だったのだけど、スイーツを食べて、noteに書かなきゃ、と思った自分の感覚と、ちょっとつながるのかもしれないと思った。

「シェアできない写真は撮る意味がない」という感覚になっているのでは、という指摘をする著者の大山氏は、とても鋭いと思うけれど、指摘を受ける側にとっては、その感覚が日常になっているから、もしかしたら、それ以前の感覚を思い出せなくなっている可能性もある。

 私自身も、何か少し違う体験をしたときは、これをnoteに書きたい、と思った瞬間に、少し冷静というか、いわゆるメタ視点になってしまい、その体験自体に、本当に没入できなくなっているのではないか。

 そして、すでに、その感覚に踏み出したら、元に戻れなくなっているのかもしれない。

 それは、どこか寂しかったり、怖い感覚にも近かった。

二度目の体験

 最初にただ、おいしく食べたコンビニスイーツがあって、それは、とても楽しい時間でもあったのだけど、その写真を撮るのを忘れていたことで、このnoteに書けない、などと思っていた。

 次に、また買って、撮影して食べたら、気持ちが違うのだろうか、と考え、自転車で、図書館に行った帰りにローソンに寄った。

 メモまでしたのに、この前のスイーツはなかった。

 それでも、フライドポテトのことを思い出したのは、以前、食べて、noteにも書いて、また買ってこよう、などと思ったからだった。

 フライドポテトは、だから買うことにして、またスイーツコーナーに戻り、もう一度、よく見た。といっても、そんなに広くないのだから、さっきなかった商品はないのだろうと思う。さらに、気持ちの中で、この前と同じものを買って、食べて、その差を考えて、書きたいのに、と思っていて、それで、やっぱりnoteに書くことにしばられていることに気づく。

 ただ、やっぱり、このスイーツコーナーのスイーツは、同じものを買えない時が多いように思う。

新しいスイーツ

 少し迷ったけれど、棚の上にあったゴディバとのコラボのスイーツにする。
 エクレールショコラキャラメル。350円。

 私は、チョコが好きなのだけど、かなり味も強そうな感じがしたので、妻にはどうだろうと思って、「おさえ」として、棚から選んで、クイニーアマンも買う。

 それからローソンの「飲むヨーグルト」は比較的安いのと、新しいパッケージデザインが妻には好評なこともあり、買って、レジ袋も購入して、そのあと、薬局に寄り、急いで洗剤などを買って、帰った。

「ごめん、この前と同じのを買おうとしたけど、なくて」

 などと言って、買ってきたものを見せたら、

「大丈夫だよ。というより、おいしそー。ありがとう」。

 と妻は素直に喜んでくれた。

 ただ、その会話のあと、慌てて、商品を並べて、写真には撮った。
 やっぱりnoteにしばられている部分は、ある。

 さっそく、おやつに食べることになった。
 クイニーアマンは、別の日に半分ずつにする予定になる。

エクレールショコラキャラメル

 パッケージを開けて、中身は豪華だった。

 「撮らなくていいの?」と妻に言われる。

 そんなになんでも、撮影しているのかと思うと、やっぱり「どうなのだろう」と、自分に対して、思う。

 エクレールを開けて、少し引き出す。
「豪華列車みたい」と妻は笑い、食べてから「おいしーい」とさらに嬉しそうで、それだけで買ってきてよかったと思うのは、たぶん、noteに書いても、書かなくても変わらないとは思う。

「なんか、ゴージャス。濃厚だし」

 私も食べ始めて、金箔らしきものがあるのを発見し、妻に伝えると、覚えがないというので、全体を見たら、たぶん、どちらか片方にしかないので、知らずに食べてしまったのではないか、という微妙な結論になったけれど、そのことに関しては、ほとんど気にしてないようだ。

「これ、ナッツもローストしてあるよね
 …エクレア、っていうよりは、もっと豪華な感じがして、味も充実してる」

 食べ終わってから、さらに言葉が足される。
やっぱり、美しい姿だと思う。ドレスみたいな

 エクレアで社交界があったら、誰だろう
 うーん、男性かも」

 私も、何人かの芸能人の名前を出したが、どうもしっくりこないらしく、しばらくたって忘れた頃に、妻が言った。

「福山雅治、だと思う」

「note」を書く日常

 noteを始めて、1年以上がたち、毎日書くのが「日常」になり、だから、何か書こうとか、書きたいとか、これ書けるんじゃないか、といった気持ちが、日常の中でよく出てくるようになった。

 それは、なんでも書こうとしていた、ライターをしていた昔にどこか戻ったような感触もあるけれど、生活そのものや、生きていること自体への集中力が少し減るのではないか。それは、どこか浅ましいことなのではないか、というような気持ちも、まだある。

 だけど、その一方で、特にこの1年半の間、コロナ禍によって、家にいる時間が長くなり、というよりは、外出を意識して減らした、という意味では、気持ちが内側に向きがちな時に、この出来事は書けるんじゃないか。と思うことは、どこか「外」へ通じるような、少し開けた思いにもなって、息詰まるような感覚が、減るような気もするから、それは、いい面なのかもしれない。

 どちらにしても、以前の感覚とは、毎日が違っていて、それがいいのか、悪いのか、また変わるのかについては、それこそ、また書きたいと思うけれど、それ自体が、どこか浅ましさにつながるのかもしれない。

 同時に、つながりすぎることに関しての警戒心みたいなものも、忘れないようにしないといけなのではないか、とも思う。




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