「投票力」を、上げるために出来ること。
テレビを見ていて、もう昔の放送になってしまうけれど、選挙の話題で、「選挙に行け!の圧が辛い」といった言葉を聞いた。
確かに、選挙が近くなると、急に「選挙に行きましょう」という文字を見ることが多くなる。それは、真面目で、しかも何かしらの理由で選挙に行けない人は、辛いかもしれない、と思ったが、中でも気になったのが、テレビ番組の中での高校生の、こんな言葉だった。
選挙に行って、投票したい気持ちはある。
だけど、中途半端な知識で、下手に投票して、それで変な結果を招くのが怖い。
なんというか、これは尊い気持ちでもあると思ったし、こんなことを思っているような人たちが、18歳になったら、もしかしたら、一番、選挙へ行け!の圧が辛いのかもしれない、と思った。
「投票力」
それで、なんとなく思ったのが「投票力」という言葉だった。
投票力指数といった言葉があるらしいが、読んでもよくわからなくて、だけど、自分が思った「投票力」とは、どうやら違うものだった。
ものすごく大まかな感じだけど、ふと思った「投票力」というのは、選挙があって、投票に行って、自分が納得ができた上に、自分が思う社会へ少しでも進められるような投票ができる力、といったものだった。
もし、そういう力を伸ばすことができるのであれば、テレビで見かけた、自分の一票で変なことになったら嫌だから、選挙に行きたくない、という人も選挙に行けて、その上で、納得のできる投票ができるのではないか、と思った。
選挙の記憶
ささやかだけど、まず、自分はどうやって投票してきたのかを振り返ってみる。
特定の支持政党がなければ、そして、特定の政党に投票することが決められているような団体に属していなければ、さらには例外的に政治に関心がある場所にいなければ、まず、普段は政治の話をしない。
自分は、そういう中にいたことはない。
その傾向は少なくとも、ここ30年くらいは基本的には変わらないが、ただ、ここ10年くらいは、政治的なことを目にする機会が以前よりは増えたと思う。
だけど、例えば、選挙が近づいてきたといっても、家庭の中で、友人や知人と、職場の誰かと、選挙を話題にして、政党のことを話したり、誰に投票するつもり?といった話を、これまでした記憶がない。
結婚して、妻とは選挙の前に話をするようになった。
それは、妻が投票するときに、いろいろと考えたい、というような気持ちがあるせいだった。
そうなると、自分も考えなくてはいけなくなった。
ただ、政治に、そんなに詳しいわけでもなく、だから、選挙の前の選挙公報を見て、候補者のことを読んで、それで決めている。妻と、どう思うかを少し話をして、それで揺れたり、決めたりもしている。
そういう経験は、結婚してから初めてするようになった。
ただ、それで「投票力」が上がっているかどうか、と言えば、よくわからない。
投票の方法
今は18歳からだけど、個人的には、20歳から、ほぼすべての選挙で、投票してきた。
その時にも、新聞に挟まっている選挙公報を読んで、考えて、候補者の写真の顔を見て、また考えて、それから、投票してきた。
今までの記憶を振り返っても、選挙の時に、「この人は素晴らしい。この人に投票することに決めた」と思ったことは一度もない。
今、毎日、生活をしていて、どう思うか。
これから先に、どう生きていきたいのか。
もしも、自分ではなく、社会の問題では、何が嫌なのか。
どうなっていけば、少しでも、邪魔をされないか。
なんとなく偉そうで申し訳ないのだけど、そんなことを考えて、どの人に投票するかを決めていた。
自分の限界はあるにしても、自分が、出来たら少しでも生きやすい方向。
社会全体でも、できたら、不幸な人が少しでも減るような政治。
すごく、抽象的で、大きすぎる考えのような気はするけれど、そんなことを思って、考えて、なるべく、それを実現してくれる可能性が一番高そうな人に投票してきた。
もちろん、選挙の時は、みんな「きれいごと」を言っているし、投票する人を選ぶ時も、これまでは全て消去法だった。
この人だけは、政治家になってほしくない。
そういう人をまず消して、そして、その中で残った人に投票した。
できたら、誰にも一票を入れたくないけれど、その、ひどいと思っている中で、よりひどくない選択をする、という、気持ちにあまりよろしくないような作業を繰り返してきた。
しかも、自分が投票した人が当選した確率は、とても低いと思う。
それでも、投票するたびに、どれも選びたくないのに、でも、そこから選択をしなくてはいけない。その時に、それでも、自分にとって、よりより選択をする。そういうトレーニングだと思うようになっていた。
それは、世の中で生きていくための思考のシミュレーションのようだった。
政党で考える
ただ、投票のことを、もっとシンプルに考えれば、やはり、どの政党に投票するか?を考える方が分かりやすいかもしれない。
いろいろな人が言っていると思うのだけど、今生きていて、生活に不満があったり、変だと思うことが多い時は、「自己責任」ではなく、社会の責任であることも多いので、そういう時は、今、政治を動かしている政党ではなく、今、政権をとっていない、いわゆる野党の中で、自分が、「ここなら、いいのかも」と思う政党の候補者に投票する。
もし、今、生活していて、そんなに不満がなければ、多くの場合は、今の政権与党の候補者に投票すればいいのではないだろうか。
そして、自分もあまり出来ていないので、偉そうに言えないのだけど、投票した人が、消去法で選んだから、そんなに興味を持続できないかもしれないけれど、その人が、選挙後に、どんなことをしているのか。どんな政策に関わっているのか。
そこに関心を持ち、観察することができれば、選挙前の言動と、どれだけのズレがあるのか。どうしてずれたのか、を考えたりすれば、次の投票の時に、どんな言動をしている人に入れればいいのか。について、独自の学習ができるから、そこまでやっていれば、おそらく選挙のたびに「投票力」は上がると思う。
投票に行く理由
最近は、選挙のたびに、投票率がいつも半分くらいで、それは、やっぱり少ないとは思うけれど、かといって、投票に行かない人を責める資格もなければ、責める理由も実はないように思う。
テレビで見かけた、自分が下手な一票を投じると、世の中によくないのではないか、とまで考えている人を見たら、ある意味では、自分よりも、真剣に真面目に「投票」のことを考えているから、投票しなくても「投票力」が高いのではないか、ということまで思うから、こういう人を、責めることは、本当にできないと思う。
よく、自分の一票で何も変わらない、という言い方があって、それはその通りだとも思う。
だけど、それで投票に行かず、投票率が低く、当選確実が、開票が始まってから、あっという間に出たりするのを見ていたとしたら、今より悔しいような気がする。
それは、いわゆる組織票によって決まってしまうということで、選挙の前に、ある利益を共有されていると思われている団体が、誰に入れるかが決まっていて、その通りに投票されるから、それだけ決まるのが早くなるのだと思う。
それは、投票率が低いほど、組織票が有効になるのは当然のことで、今のように5割くらいだと、投票が行われる前から、誰が当選するかがほぼ決まってしまっているということになりやすい。
自分の一票なんて、本当になんの力もないけれど、投票しないとゼロなので、なるべく考えて、投票をしてきた。
投票率を上げたい気持ち
それは、本当に少しでも投票率を上げたい、という気持ちもある。
昔、今ではすっかり下火になったのだけど、政治的なスローガンも掲げて、ミュージシャンがフェスのようなことを行なっていることがあって、その関係者が、こんなことを主張しても、無力なのは知っている。だけど、人は気にする動物だから、何かを言った方がいいのでは、と思っている。そんなどこか諦観とともに語っていることを記憶しているのだけど、それは、昔だから詳細ははっきりしないものの、その「人間は気にする動物」というのは、今でも通用すると思っている。
何を言いたいのかというと、選挙で投票率が今のままだと、投票の前に結果が分かってしまい、それも、ある特定の組織のための政治になってしまうのだと思う。
その組織に属している人であれば、それは好ましいことかもしれないけれど、その流れが続いて、今の、あまりよくない状況になってしまっているのも事実だとも思う。
それは、例えば国会で、説明をしなくても、ただ強行採決をしても、次の選挙に勝てるのは、その組織票で当選できるからで、これが続けば、たぶん、政治家は、自分を支持して、利益を共有できるような組織にしか目がいかない。今が、そういう状態なのだと思うが、だから、広く国民のことなどを考えてはくれない。そんなことをしなくても、次も当選できるのだから。
そう考えると、無力だけど、悔しくなって、投票に行く。
もしも、結果が当選であっても、投票率が高くなり、自分たちでコントロールできない票が増えれば、おそらくは、それだけで、与党の議員であっても、どのように政治を運営していくかに対して、今よりも少しは丁寧になるように思うのだけど、それは、甘いのだろうか。
だけど、投票率が高くなれば、それだけで、政治家が以前よりも、国民のことを気にするようになるとは思う。
そのためにも、ものすごく微力と感じながら、投票している部分はある。
民主主義の限界
もともと、民主主義は、人類には無理ではないか。
そんな言葉をどこかで聞いて、その時は、とても納得できるように思った。
それは、民主主義を健全に運営するには、国民一人一人に対して期待される能力のレベルがとても高く、その能力が低い時には、変な方向へすぐに行ってしまう、ということで、民主主義は人類には無理ではないか、だと思う。
その言葉を証明するように、不安に襲われたりすると、真っ当な判断力がどこかへ行ってしまって、そこにつけ込まれて、間違った方向へみんなで暴走する、の繰り返しが、「民主主義の歴史」のようにも思えている。(決して他人事ではないし、コロナ禍の今もそうだと思うけれど)。
これからもそれが続きそうだから、民主主義のシステムとして、投票すること自体にためらいを持っても、自然かもしれない。
それでも、自分が投票なんてしていいのだろうか、と思う人は、そう思い続けて、もしかしたら、一生、投票にいかない場合もあると思う。それはそれで一つの選択だとは思うけれど、もしも、その投票しないことが、自分の微妙な負担になっているのであれば、一度は、投票にいった方がいいとは思ってる。
たとえ、人類が民主主義を運営するのは無理かもしれないとしても、投票に行った自分は少し変わるような気もする。
「投票力」のレベルを上げる方法
そして、もしも、自分の「投票力」に不安があって、行かないのであれば、「投票力」のレベルを上げてから、投票に行く方法もある。
それは選挙の前に、候補者の言葉や表情によって、誰に投票すれば、世のため、人のため、自分のためになるかが判断できる力でもあるのだろうけど、それ以上に、普段、どれだけの教養があるか、がもっとも「投票力」という判断力に貢献すると思う。
だから、そんなに偉そうなことは言えないけれど、やっぱりシンプルに勉強をして、それで教養によって、自分を変えていく、ということを少しでもしてから、それで投票に行くと、その経験自体で、また勉強を続けて、そのうちに気がついたら、自分が成長すると思う。だけど、もしかしたら自分自身の「投票力」が上がったことで、2度と投票しない、という結果になるかもしれない。
だけど、ただ勉強するよりは「投票力」を上げるために勉強した方が、何となく生きた勉強になるような気がする。
「投票力」を上げるための勉強
その時に、どうすればいいのか分からない場合は、やはり本を読んだ方がいいと思う。
それは中年になってから、やっと読書の習慣がついた人間が言うのも、どうかと思うのですが、それが実はもっとも、ある意味では効率が良く、勉強の王道なのは間違いないのではないでしょうか(偉そうに言うのは恥ずかしいですが、本当だと思います)。
政治そのものを書いた本を読む必要はなく、いわゆる「古典」と言われる人文系の本を読めばいいのではないか、と自分もまだ読めていない人間が言うのも、あれなので、本当に偏った狭い知識だけど、今のところ、自分が読んで、おそらく「投票力」に関係ありそうな本を何冊かあげてみます。
こうした本↓を読むと、かえって投票したくなくなりそうですが、この本は、昔の著作で「古典」とはいえ、古くなっていなくて、逆に、今読んだ方がいいように思います。(私には、全部を理解する能力はありませんが、とても大切なことが書いてあるように感じました)。
それから、もう少し直接的に「憲法」などを考えると、「投票力」が上がる気がします。憲法というものは、書かれていないことや、この憲法の前提となっている膨大な前提みたいなものを知らないと、憲法が理解できないのではないか、といったことは分かり、憲法への理解の第一歩だけでなく、憲法の不思議な豊かさみたいなものに、この本を読む↓と、少し触れられるような気がします。(そこからスタートかもしれませんが)。
それから、何を読めばいいのか、分からないのであれば、考えることについてのこの本↓から読み始めると、いいのかもしれません。
さらに、この本↓を読んでから、「勉強」するのでは、全く質が違う勉強ができる可能性があると、思います。
もし本を読むことで、選挙に行かなくなったとしても、でも勉強した方が、これからを生き残れる確率は、少しでもあげられると思います。こんな何者でもない人間が言っても、説得力がないのも分かっていますが、それは事実だとも思います。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。
記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。