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読書感想 『封建主義者かく語りき』 呉智英 「ポスト民主主義の時代の必読書」

 どんなことにも「ポスト」をつけると、なんとなく頭が良さそうに見える時代があったと思う。最初に聞いたのは「ポストモダン」という言葉だったけれど、今でも本当に理解できているかどうか分からない。ただ、「ポスト」を頭につけると、そのつけられた言葉や思想や考えなどは、「終わってる」と言われているように見えたりもする。

 「ポスト・デモクラシー」ということを主張している人(リンクあり)もいるものの、その言葉が「ポストモダン」のように広まらないのは、その主張している人も、そして、もしかしたら少なくとも先進国に住む人たち(自分も含む)は、民主主義を否定までいかなくても、根本的に疑うのが難しいからではないか、と思う。

『封建主義者かく語りき』  呉智英

 最初にこの本を読んだのは、随分と昔だった。単行本の時の題名は、「封建主義、その論理と情熱―さらば、さらば民主主義よ!」で、1981年に出版されている。どうして、この本を買って、読んだのかもすでに覚えていないものの、たぶん、30年くらい前には読んでいる。

 最初は、何を書いているのか、本当によく分からなかった。いわゆる奇書なのではないか、とか、危ない人なのではないかとも思っていたのだけど、珍しく何度か読んで、やっと分かったのは、自分が「民主主義」に関しては疑ってはいけない。政治が、うまくいかないとしたら、それは「民主主義が正しく働いていないから」と思い込んでいることに気がついた。

民主主義以前の可能性

 封建主義という言葉が、肯定的な意味で使われたことは、おそらくは、ここ100年くらいでも、呉智英氏以前には、おそらく誰もいないのではないか。戦後に、古いことを意味する言葉として「封建的」と言われていたようだし、1980年代には、たぶん歴史の教科書以外では目にすることも少なくなっていたのに、「封建主義」という言葉をたてて、さらに「さらば民主主義」とまで言う人は、今で言えば、かなり無理のある「逆張り」に思えた。

 ただ、この本を読み、呉智英氏の他の著作も読むようになると、そして、この著者は、硬く書くのではなく、できたらユーモアを入れたいという体質らしく、随所に笑いが入っていて、それは読者にとってはありがたいことでもあるのだけど、ただ、そのことで著者が主張しているシリアスで重要なことが伝わりきらないかもしれない、などと思うようになっていた。

 読者として重要だと思っていたのは、著者の主張する「民主主義以前の可能性」だった。それを、呉智英氏「封建主義」と言っているのだと思った。もちろん、思考や思想の部分であり、ちょんまげを復活させたり、江戸幕府再興などと本気で言っているわけではない、と思う。

民主主義以外の視点

 人類の歴史の中で、今生きているのが、もっとも未来に生きている人間(どの時代も例外なくそうなのだけど)で、今の時代が一番進んだ時代と思いがちな傾向は強い。

 政治的なシステムでいえば、当初は個人に権力が集中している形から、だんだん権力が分散され、全員に権力がある、という形になっている民主主義は、もうこれ以上進みようがない「最終形」にも思える。だから、人類としては、これ以上の政治形態はないのだから、このシステムの中で、試行錯誤する以外に方法がない。

 ……それほど勉強もしないし、頭もよくない自分でも、そんな風に、思い込まされているのではないか、と考えるようになったのは、呉智英氏が、著者の中で、「民主主義は差別はいけない、と言いながら、他の政治体制を差別する」と指摘していたこともあったが、具体的に存在していた「民主主義以前の視点」もあげていたからだった。

 何故、「おい、メクラ」という言い方がなかったのか。
 それは、礼に反するからである!礼に反することはいけないからである!
 今「メクラ」がいけないとされるのは、どうしてであるか。盲人をサベツするから、盲人のケンリを奪うから、と言われる。サベツなりケンリなりという言葉、それは、人間のあらゆる在り方・営為を、法律学なり政治学なり経済学なりでばらばらに分解し、その各々の部分を計測し、計量し、比較し、比定し、そして用語化・概念化したものである。そして、それらによって、すべてがカバーできると考えられている。こういう思考方法、それが西欧的近代的な科学主義・合理主義なのだ。そして、こういう思考方法が、一体、現実に、どれだけ盲人を救ったのか。(中略)
 礼。ただ一言、礼と言えばすんだのだ。

 それは、失礼だから、という表現は、最近、再びよく聞くようになったような気もしているから、この指摘は、まだ古くなっていないのかもしれない。

封建主義の実際

 封建主義は、西欧近代的な資本主義・社会主義の意味での効率主義とは無縁だからだ。かくされた能力がある人はそれに応じて報われる、というなら、能力がまったくない人は報われなくていいのか。封建主義者は、そう考えない。報われるべき人は、能力なんていうものの後押しを要せず、ただ自律的に報われるべきなのだ。
 また、封建主義は、差別をも論理に組み込む。人間の「期待されざる面」をも、多様に視野に入れる。

 もし、これが現代の思想の主流のひとつになれば、社会保障のことや、高齢者のことや、障害者に関することも、役立つかどうかだけを重視されるおかしさも、一気に解決される。

 ただ、自分の理解力のなさなのか、これ自体は、実現されれば素晴らしいとは思うのだけど、著作を読んでも、それをどうやって具体的に支えるかについての記述が足りなく思えてしまい、では、どうすればいいのかが、よく分からなくなってくる。

 それでも、まったくイコールではないものの、研究者である網野善彦氏の著作の中にも、今から見たら、中世にも、意外にも(この意外と思ってしまうのが現代人の傲慢さと思いつつも)進んでいるようにさえ思える政治的でリアルな思想が存在したことも垣間見える。それは、やはり「民主主義以前の可能性」に思える。

 ただ、おそらく重要なのは、今の民主主義が人類の完成形として、手をつけてはいけないものとして扱うのではなく、そして、同時に未来が一番進んでいると、おごるのではなく、(呉智英氏は、ソ連の共産主義崩壊で、民主主義は無理と証明されたと主張している)「民主主義以前の可能性」を、もう一度、きちんと振り返り、検討し、それも含めて、これからも生かしていく、ことではないだろうか。

 私自身は、能力は不足していると自覚しながらも、少なくとも、民主主義が絶対ではない、と思えるようになり、そのことで、考え方は、少し自由になったようにも思う。

民主主義以前の「当事者性」

 個人的にも、そして社会的にも「誰が発言権があるのか」といった「当事者性」の問題は、今は、「当事者以外は発言してはいけない」とも思える状況になってしまっているし、そうなっても仕方がないような面もあると思う。

 これからあげる例は、時代的にかなり前なので、理解しにくくなっていると思う。何について語られているかというと、1970年代から1980年代まで連載された「土佐の一本釣り」という人気漫画についてで、当時も、いろいろな視点から意見が飛び交っていた記憶もあるが、呉智英氏のこうした指摘は新鮮だった。

 これは、「当事者性」に関して、「民主主義以前の視点」では、こう考えることもできる、という具体例でもある。

 純平というのは、この漫画の主人公である。そして、ある種の破天荒な行動(酔って暴れる)が作品内では、外国人によって「サムライ!」と称賛されるような場面についての話である。

 純平は、漁師である。どうしてサムライなのであろうか。サムライは、理想型としては、単なる戦闘者ではない。天下国家を論じる士大夫である。だから、サムライが日本人論を語ることはあるだろうし、語ったことについて責任も負わされるであろう。純平は、いつから、日本人論を、しかも、ガイジンを登場させて、その御墨付きをいただくような日本人論を、えらそうに語ることが許されるようになったのか。明治から現代に至る民主主義の潮流の中でのことである。たかが漁師が、ガイジン劣等感丸出しの無内容な議論を、日本人論として語ることは、民主主義だからこそ許されているのである。
 この時、真の封建主義者なら、こう言うだろう。
 純平が自ら天命として漁師を選び、立派な漁師たらんとしたことは天晴である。だったら、徹頭徹尾、まことの漁師たることに努めるべきである。何故、三流の民俗学者たらんとしたり、三流の愛国イデオローグたらんとするのか。魚を釣れ、魚について語れ。
 そして、真の封建主義者は、純平からも、魚に関する衆知を集め、異見を聞くであろう。

 ただ、こうした封建主義者は、現代では存在を許されること自体が難しいはず、という前提はあったとしても、これは、実現すれば、ある意味では潔いと思う。そして、選挙のことを思えば、自分も含めて、民主主義では、一般市民は、自分の仕事以外の行為であるから、呉智英氏の言葉を借りれば「三流の政治評論家」として一票を投じなくてはいけない。

 だから、民主主義の中でファシズムは誕生してしまったし、民主主義の本質はポピュリズムなのだろう、ということへの理解は進みやすくなるが、でも、それは、では、どうしたらいいのだろう?という八方塞がりな気持ちにもなる。

明治以来の再検討

 呉智英氏が、おそらく何度も繰り返しているのが、明治以来を疑え、という考えで、気がついたら、自分もそれにはかなり影響を受けている(リンクあり)と思う。

 それについては、大変な手間がかかるとはいえ、混沌としてしまった21世紀のこれからを考えるには、最低限、そこの土台から作り直さないと、高い建物が倒れるように、近いうちに本当に倒壊してしまうのではないか、と思うこともある。

 明治よりも前の思考や思想も、生かしながら考えることができれば、民主主義の中だけで考えるよりも有効な場合もあると思う。

 自分の気に入らない意見も大切にしなければならない ———— という言論の自由。
 こんなことは、単に寛容というだけのことである。いうまでもなく、寛容というのは、一つの“徳”である。封建主義においては、徳と政治が分離化していなかった。だから、封建主義下の法律には、徳に関連したものが多い。一方、民主主義では、徳は個人の思想であり、個人の思想は自由である、という理由で、徳と政治を分離した、というより、そのつもりになった。

 そして、それは現代でも完全に分離されていない、と進むのだけど、確かに、それは意外な場所で発見できる可能性もある。

 この番組の中で、マルクス・ガブリエルは、ドイツの憲法について語っている。そして、条文の中に、国民が望んだとしても、改定できない内容がある、と指摘する。そのことを、『「倫理」による法の支配を土台に置くべきとしたのです』と表現するが、その「倫理」は、どちらかといえば、「徳」に近い価値観に感じられる。

 その上、少し考えれば、多数決でも変えられない憲法というのは、民主主義の否定ともいえないだろうか。それは、国民主権といいながらも、国民の判断を信じてない、ということでもある。

 ただ、その憲法のありかたは、視聴者としては、正しいようにも思えるのは、民主主義の価値観ではなく、無意識のうちに、そこに「徳」を見ているせいかもしれない、と思った。


 これからの未来を真剣に思い、できたら個別ではなくもっと総合的に考えたい人や、民主主義が大事だと思う人ほど、『封建主義者かく語りき』は、最初の出版から30年以上がたった今でも、オススメの一冊です。



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