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「2007年のワールドカップ」①

 アメリカンフットボールは、不思議なスポーツだと思う。
 
 今年(2021年)も、コロナ禍でも、観客を約2万人いれて、アメリカナンバーワンを決める「スーパーボウル」は行われた。

 その現場は、毎年、非日常的といっていいほどの華やかさで、そのプレーも、戦略的にはかなり複雑であるのは垣間見えるものの、おそらく大多数の観客にとっては、シンプルに強くて、大きくて、速くて、ほぼ超人的といっていいほどのプレーを繰り広げていて、ここには世界中から集められたトップアスリートがいるような気持ちになる。

 だけど、他の国では、ここまでの熱狂はほぼ見られない。
 それに、他の国との、このアメリカンフットボールのプレーレベルの差はとても大きい。
 局地的という見方で言えばマイナースポーツなのかもしれないが、このプレーのレベルの高さと、集客力と人気を、遠い国から見るだけでも、それは明らかにメジャースポーツの輝きがある。

 世界の中の競技人口と、その競技のレベルは、おそらく比例している。
 だけど、アメリカンフットボールは、アメリカのみで、圧倒的に盛んに行われているけれど、そのアメリカという国が、いろいろな意味で世界最強で、スポーツ大国でもあって、その国の中でのメジャースポーツ、ということで、圧倒的なプレーのレベルの高さも誇っている。

 そういう意味では、スポーツそのもの、というよりは、その環境が不思議なのが、アメリカンフットボールだと思う。

日本国内のアメリカンフットボール

 日本でもアメリカンフットボールの歴史は長い。

 大学ナンバーワンを決める「甲子園ボウル」は、第1回が1947年から開催され、2020年で75回を数えていて、関西学院大学が優勝し、2021年の1月には、社会人代表のオービック・シーガルズと「ライスボウル」で戦い、社会人代表が勝ち、日本一となった。

 日本国内では、競技人口を考えると、残念ながら、マイナースポーツかもしれず、日本一決定戦である「ライスボウル」は1月3日に行われたが、今はNHKでも地上波でなく衛星放送で中継するようになった。

 時間をさかのぼれば、社会人アメリカンフットボールは、当初は「ライスボウル」では、練習量で優る学生代表には勝てない、と言われていた。1980年代の初頭から、「ライスボウル」は学生代表と社会人代表が戦う形式になったが、それから30年がたった現在では、社会人と学生の力の差があるという理由で、社会人のナンバーワンを決めるゲームが「ライスボウル」に変わることになった。それは、ラグビーの状況と似ているのかもしれない。

 単純には言えないけれど、競技年数が長いプレーヤーの方が力が上になる、というスポーツの原則が適用されるというのは、それだけその競技のレベルが上がったと言えるかもしれない。

 そして、個人的なことだけど、1980年代から1990年代まで、取材をして書く、という形で、日本のアメリカンフットボールに、少しでも関わらせてもらった人間にとっては、本当に歴史が積み重なって、変化してきたように思えた。

2007年のワールドカップ

 アメリカンフットボールでも、ワールドカップが行われていて、第1回は、1999年にイタリアで行われ、日本代表が優勝している。そのあと2003年のドイツ大会でも、日本代表が連覇をしたが、アメリカ代表が参加していないため、大きく報じられることもなかった。

 そして、第3回のワールドカップは、2007年、日本の神奈川県川崎市で行われることになった。

 個人的なことだけれど、1999年からは、介護のため仕事をやめ、当然、アメリカンフットボールの取材にも関わらなかったが、2007年の大会には、入場料を払って、観戦をした。その戦いは、大学生主体とはいえ、初めてアメリカ代表が参加したこともあり、緊張感の高い時間が続いていた。

 もちろん、アメリカンフットボールの専門誌では、大きく取り上げたものの、もっと広く伝えたいという気持ちもあって、このワールドカップのことを書いて、そして、公募された賞にも応募したものの、落選をした。


 それから10年以上の時間が経って、今、ふと振り返っても、あの時のワールドカップのことは、昔の話であっても、まだ伝わりきっていないし、そのときに見た観客の一人として、能力の限界は感じながらも、まだ、伝える意味はあるのではないか、と思った。

 こうしてnoteを始めるようになり、少しでも多くの方の目に留まる機会が作れるのではないか、と思い、人によっては、古いし、関心がない方には申し訳ないのだけど、「スーパーボウル」という世界最高峰のアメリカンフットボールのゲームが行われる時期に、伝えようと思いました。

 今週から、毎週、火曜日に何回かに分けて、「2007年 アメリカンフットボールのワールドカップ」のことをお伝えしようと思います。

 もし、少しでも興味を持っていただければ、読んでもらえたら、とてもうれしいです。

 よろしくお願いします。


(ここからは2007年の時の記録です。加筆・修正をしています。「2007年のワールドカップ」①は、約1万字です)。


試合のあとの光景

 いくつもベンチが並び、いくつもイスも並んでいる。その下には、工事現場でよく見る青いシートがあって、そこに台風の持ってきた雨がまだ残っている。

 もう夜といっていい時間になったのに、太陽が出て、暖かい日差しがさし、その水が銀色に光っている。
 選手達は、ゆっくりと動き、スタンドにいる人達と、笑顔で穏やかに話したりしている。

 不思議な空気感だった。

 悔しくて仕方ないのに、あれも出来たはず、これも出来たはずと、後悔ばかりが打ち寄せるように、たくさんやってきているに違いないのに、でも、もう終わってしまった。もう、すべては手の届かないところにいってしまった。もう、どうしようも出来ない。後悔と同時に、そういうあきらめの気配が妙な落ち着きを加え、そこに独特の穏やかさが漂っているように感じた。

 わりと最近、これとよく似た気配の中に自分がいたことを思い出した。
 葬式の時だった。適切なたとえでないのは分かるのだけれど、とても、よく似ているように思えた。

 それが、2007年ワールドカップ、全部の試合が終わったあとの光景だった。


第1回 ワールドカップ

 1999年に第1回のアメリカンフットボールのワールドカップが行われた。その大会にアメリカが不参加ということもあり、日本代表も直前まで出るかどうかがハッキリしなかった。それでも結局は、イタリアのパレルモで行われた大会に出場し、日本代表は優勝した。とにかく世界一になった。

 その夜のNHKのスポーツニュースでは、いろいろな競技のことが紹介され、最後の方でアメリカの女子プロゴルフの結果を伝えたあと、動かないたった一枚の写真と共に…第1回のアメリカンフットボールのワールドカップで日本は優勝しました…とコメントされ、最後に…この大会にアメリカは参加していませんでした…と締めくくられた。短い時間だった。

 それでも、有名な女子アナを司会に呼び祝勝会が行われる事が決まった。私はスポーツのことを中心に「取材をして書く」仕事をしていて、日本のアメリカンフットボールの事も、ここまで約10年間、書いていた。決して恵まれたといえない環境の中で必死に取り組む姿勢に、不思議に引きつけられ、特に社会人の選手を取材することが多かった。そうした選手達が代表の中心だった。祝勝会にも出るつもりだった。

 だが、そのころ個人的な事情に過ぎないが、母親の病状が急に悪くなり、祝勝会にも行けなくなった。その後、介護に関わる中で自分も病気になり、仕事をあきらめ介護に専念することにした。自分で選んだ生活とはいえ、社会的には死人のような気持ちで過ごしていた。ほとんど新しく人に会わないような生活の中で、時々、土の中で暮らしているような気持ちにもなった。時間が止まったようだった。

第2回ワールドカップ

 2回目のワールドカップは、4年後の2003年に行われた。
 またアメリカは参加せず、6カ国の中で、それでもまた日本が優勝したのを、新聞か何かで知った。その時も、あまり大きな話題ではなかった。世の中で、そのことを知っている人の方が少なかったかもしれない。

 仕事もやめて、介護生活を続ける私にとっては、いろいろな意味でとても遠い出来事だった。それでも、取材したことのある選手達が活躍したせいもあり、ばく然と様々なことが頭を少しよぎった。

 サッカーのワールドカップも、サッカーの母国といわれるイングランドはしばらく不参加だった。なぜ、そんな大会をやる必要がある?ナンバーワンは我々じゃないか。みたいな理由だった、とどこかで読んだような記憶がある。そして、サッカーのワールドカップでは、第1回大会で優勝したのはウルグアイだった。


 ただ、それから、さらに母の病状は悪くなったり、という事情もあって、アメリカンフットボールの事を考えたり、思い出したり、という機会もどんどん少なくなっていった。介護生活は続いた。

変わった時間の流れ

 そんな中で、2007年の第3回大会は日本開催が決まった、と何かで知った。だけど観客として見に行く時間もないだろう、と思った。母の病状がまた悪くなっていたからだ。病院の行き帰りに、川崎駅に大きく「ワールドカップ」という文字があったのも見た。

 川崎球場などで試合が行われるのを知った。アメリカンフットボールの取材でよく行った場所だ。だけど、自分が知っている選手達のほとんどは、すでに現役を引退しているはずだった。今はやっぱり、いろいろな意味でさらに遠い、と思っていた。

 だけど、突然、私自身の時間の流れが変わった。
 母が5月に死んだ。
 思った以上に悲しく、いろいろな後悔がうちよせたり、ぼんやりしていたりした。でも、同時に今まで頭の左上、約50センチにあった、細い黒い針金のようなもので出来ていた黒い雲が、消えていた。いつもあったのに、なくなって初めて気がついた。後ろめたさや、心配や、不安など、一瞬でも忘れられない気持ちが、そんな形として見えていたようだった。

 そういう時間の中で、第3回ワールドカップの日本代表チームの主将を知った。知っている名前だった。もう30代後半になっているはずだ。
 まだ、続けているんだ。
 それも、日本でトップクラスの力を保っているんだ。
 消耗が激しいこのスポーツで、それは本当に驚異的なことだった。
 意外な気持ちになり、そして、さらに20年くらい昔の光景を思い出した。

日大アメリカンフットボール部の時代

 昔、日本大学のアメリカンフットボール部が圧倒的に強い時代があった。工夫がない言い方だけど、とても強いという言葉がぴったりだった。1988年のシーズンから、3年連続で学生でナンバーワンになり「ライスボウル」で社会人にも勝ち日本一を続けていた。当時は、そこから、どこまで勝ち続けるのだろう、と思えるくらいの強さだった。

 1991年の秋も日大は勝ち続けた。そして、関東の代表を決める試合に臨んだ。相手は専修大学だった。まだ関東で優勝したことがないチームだった。場所は、横浜スタジアム。私は、この3年間と同じように、日大が勝つと思っていた。

 夕暮れが近づき、試合の終わりも近づき、日大側のサイドラインは、黒く影でおおわれてきた。秋が深まった季節のだいだい色の太陽が、スタンドの一番上のところに沈むように隠れようとしている。日大のオフェンス、クォーターバックの選手の投げたパスは、相手のディフェンスがしっかりとキャッチした。その時、実質上、試合が終わった。あれだけ強かった日大が負けた。

 観客席の下、スタジアムの壁に扉がある。そこを通って選手達は更衣室へと移動していく。その扉の前に一人の選手が立ち、中へ入っていく味方の選手一人一人に握手していた。負けたすぐあとなのに、そういう時間の中なのに、思った以上に静かな目をしていると思った。それが日大の主将の脇坂康生(わきさか やすお)だった。くっきりと強い印象を残すような姿だった。

 それから、時間が流れた。
 脇坂は、大学を卒業し、関西の強豪・松下電工へ進み日本一も経験した。これまでの2回のワールドッカップにも日本代表に選ばれていた。


 今回、2007年まで、さらに4年の時間がたっていた。
 だが、脇坂は現役だった。それも、日本代表の主将だった。38歳になっていた。
 横浜スタジアムでの敗戦から15年以上がたつのに、時間は、変わらずに、続いていたことを知った。

7月7日 等々力陸上競技場

 2007年7月7日。
 会場の最寄りの駅、東横線の武蔵小杉駅で降りたら、駅の天井から「第3回ワールドカップ」の大きい旗のようなものがいくつもあった。かなり目立つ。ボランティアの人達が丸いうちわを配っていた。それをもらうと「いってらっしゃい」と笑顔で言われた。裏には会場までの地図もある。駅前には同じうちわを持った、明らかに同じ場所へ行こうとしている人達も少なくない。その中には現役の選手らしい首の太いがっしりした大柄の人達もけっこういた。

 集まってきているんだ。

 私は、秘かにワクワクした気分になった。
 駅の近くのコンビエンスストアで、食べ物や飲み物を買おうと店内に入ると、明らかに同じところへ行こうとしている人達で、けっこう混雑していた。
 等々力陸上競技場まで歩いていく途中に、ボランティアの人達が、案内のために立っている。すごく有り難いと勝手に思い、通り過ぎる時に目を会わせ会釈をし「おつかれさまです」と声をかけたが、声が小さすぎて、ほとんど気づいてもらえなかった。

 歩いて約15分。午後4時30分ごろには会場に着いた。入り口のところで手荷物チェックもあり、コンクリートの階段を登ると、1階席と2階席のあいだから、もうフィールドは見えた。

日本代表・阿部監督

 ゆるやかなカーブになった広い通路を歩いていると、左側に立ち見席があった。コンクリートの階段状になっていて、座ろうと思えば座れそうで、こっちにすればよかったかもしれない、などと無駄な後悔を一瞬した。

 近所のコンビニエンスストアで前売り券を買った時、試合を見るにはよさそうなバックスタンド側で、その中では値段が安い4000円の「Aゾーン指定席」は、すでに売り切れていた。指定席6000円、8000円はちょっと高いと思い、フィールドを縦に見る事になる2階の自由席3000円と、1階の立ち見席1500円で迷った。立ち見席の方が残りが少なくなっていた。その売れ方に、観客の気合いみたいなものを感じた。7月12日には、川崎球場で日本代表とアメリカ代表の両方の試合を見られるのだが、そのチケットも売り切れていた。マニアな売れ方だと、思った。

 私は2階の自由席へ向かって歩いていた。日本代表のウォーミングアップが近くに見えるスタンドを目指していたから、入ってきた入り口からだと、競技場を半周することになる。赤と白を基調にしたユニフォームの代表がアップしている姿を見ながら、歩く。

 白いポロシャツを着た代表の監督は知っている顔だった。阿部敏明(あべ としあき)監督。サングラスをかけた姿は10年くらい前と印象は変わらない。以前より少し太ったようだったが、60代後半にはとても見えないほど、若い気配だった。

 歩いている途中に人だかりがある。折りたたみの出来る机の上で、大会のいろいろなグッズを売っている。人垣の間から見ていたら、何か記念に欲しくなる。取材している時は思ったことがなかった。迷って、カタログと、大会のロゴがついているシャープペンシル(600円)を買い、レジ袋に入れてもらった。

試合前の空気

 チケットを見せて、階段をさらに上がると、トラックの向こうにフィールドが見えた。スタンドに出た。そこから、また少し階段を登り、後ろが壁になっている隅の席に座った。

 ここがちょうど長方形のフィールドを、縦に真後ろから見る位置に近いはずだ。H型ポールといわれるポールが、しっかりとHの形に見える。昔、取材していた頃も、場所は違っても、こうした位置から試合を見ていた。バブルと言われていた時代は、社会人のリーグ戦も東京ドームで行われることが多かった。その時、記者席は野球用だから、アメリカンフットボールの時はフィールドを縦に見る位置になった。本来は横から見る場所に記者席があるべきで、のちにそこにも設置されたのだが、私はそれまでの様々なプレーの印象と自分の中で比較したい気持ちもあって、その後ろの位置から約10年間、取材していた。

 たぶん100メートルくらい先の、しかもここからは見下ろせるような場所で、選手達は一斉にバラバラに見える動きを始め、ある選手はフィールドを走り、ある選手はボールを投げ、ある選手は相手に見立てた選手の動きを妨害し、そうしたそれぞれの動きの結果として、パスが通り、前進する。それを一つの区切りとして似たような動きが反復される。無数の複雑なことが短い時間に同時に行われているが、目的は、とにかく前へ進む、というシンプルなものだ。

 主将の脇坂の背番号43を探していた。その途中で、この大会にスタッフとして参加している人を見た。社会人の強豪チームの監督を以前つとめていた人だ。私とほぼ同世代の人で頭が白くなり貫禄が増していた。まだフットボールの中心に関わっている事が嬉しかった。

 試合前に漂う、高揚感と不思議に静かな感じは、私にとって、この8年間ほとんど無縁のものだったが、今、ここに観客としてもいられるのは、やっぱり嬉しかった。

 キックオフまであと1時間半くらい。この2階席から向こうの正面を見て、周りを見ても、あちこちに空席が目立つ。それでも人が動き続けているのも分かり、席がうまっていくのも見える。

 今日は七夕だった。今日が「第3回ワールドカップ」の開幕戦で、日本代表は、向こう側半分のフィールドでアップを続けているフランス代表と戦う。きれいな青と白をベースに、少し赤を入れたユニフォーム。かなり遠くから見ているはずなのに、フランスの選手はやっぱりデカイと思った。

 日本の選手達も、180センチは当たり前で、取材している時は見上げるように話を聞いていた事が多かった記憶があるが、でも、今、より近くにいるはずの日本の選手達は、フランス代表と比べると小さく、そしてかなりスリムに見えた。ポジションによって大きさの違いはあるにしても、でも、どうして、あんなにハッキリとふくらんだように、西洋人は大きいんだろう?と改めて思う。


 約10年前、初めて公式に、日本代表が組まれた時も同じ印象だった。

アメリカンフットボールというスポーツの日本での見られ方

 アメリカのプロチームのナンバーワンを決める試合は「スーパーボウル」という、とても華やかな祭典で、現在も続いている。テレビで見たことしかないが、ゲームとか試合というよりも祭りという方が正確かもしれない。

 バブルの時代には、そのゲームを日本でも生中継していて、長嶋茂雄氏がゲストの時もあった。1980年代後半にはアメリカのプロ同士の試合を東京ドームで開催することもあった。日本の社会人の試合も、景気の良さに後押しされ、企業が1万人単位の動員が可能だったせいもあり、東京ドームが満員になる事も少なくなかった。今よりも、ブームといっていい頃だった。

 そんな中でも、アメリカンフットボールというスポーツのファンであっても、日本の試合は見ない、アメリカのゲームしか興味がない、という人も、おそらく少なくなかった、という印象だった。

 テレビ画面で見ただけでもスポーツは差が分かりやすいし、スゴいプレーを見たがるのは当然のことだった。アメリカンフットボールも例外ではなかったと思う。アメリカのプロの投げるパスは、小さなテレビで見ていても浮き上がるような軌道に見えた。何しろ大きく、タックルも激しく、スピードもすごい。

 アメリカのプロが東京ドームで試合をした時に、取材をしていて、地下のトイレでアメリカの選手を見かけたことがあった。男子の小便用の横の仕切りだけでなく、低いとはいえ天井まで一人でいっぱいになっていた。日本の選手は大きくても、そこまでの人間は見た事がなかった。そして、そうしたデカイ選手が、100メートル・10秒台とも言われるスピードでタックルしてくるのだった。フィールドのそばで見ていたら、タックルされた相手は、一瞬視界から消え、瞬間移動のように吹き飛んでいるように見えた。

 日本の選手と比べたら、ボクシングなどで例えれば、重さの階級がかなり違う。格闘技では一緒には戦わないような体格差だった。それなのに見ている側からは、同じスポーツだから同じ基準で見られ、比べられてしまうような時代になっていた。

 おそらく日本の選手達やスタッフは、当時から、そういう社会からの見られ方に対しては冷静だった、と思う。日本のトッププレーヤーが「アメリカのプロにはかなわないですよ」と言うのは、卑屈ではなく淡々と事実を語るように響いた。アメリカンフットボールがブームといわれた頃でも「好景気が去ったら、どうなるか分からない」と語るスタッフがいた。同時に、自分達が複雑なプライドを持っているのを自覚している関係者も少なくない、と私は思っていた。


 アメリカにはかなわない。彼らは不動のナンバーワンだろう。でも、他の国と比べたら日本は負けないはずだ。そんなナンバーツーのプライド、を持っていたように見えた。ただ、それを証明する機会が実質上なかった。

アメリカンフットボールの日本代表

 その流れが微妙に、でもハッキリと変わってきたのが1990年代の半ばだった。

 1996年から、アメリカのプロの下部組織としてのヨーロッパのプロリーグに、日本人選手の枠が設けられ、初めてのプロ選手が誕生した。毎年、数人の選手が参加し続けた。そして、その中で明らかに活躍する選手も出始め、見る側にとっても、アメリカのプロになるのが夢ではないように思えていた。

 そして日本で開催されたアメリカンフットボールプロチーム同士のオープン戦に、日本の選手が参加することもあった。まだリーグ戦の本番ではなかったし、ある意味では開催地に対するサービスだったのだろうが、でも、こういう積み重ねは、いつか成果になるかもしれない、などと私は思った。そして、チアリーダーも含めて明るく華やかで、いつもの東京ドームが違う空間になったように思え、改めて、アメリカンフットボールはアメリカのものだ、みたいな気持ちにもなった。それが、1998年。8月2日のことだった。

 そして、翌日、1998年8月3日「ジャパン・ユーロボウル」という試合が行われた。
 初めて公式に日本代表が組まれ、ヨーロッパチャンピオンのフィンランド代表と戦うことになった。それは、その時点ではどうなるか分からなかったが、予定では翌年開催の「第1回ワールドカップ」のための準備だった。

 前日と同じ空間とは思えないような人の少なさだった。気温も下がっているようにさえ思えた。記者の数もグッと少なくなった。

 だけど、日本のアメリカンフットボール界にとっては、今日の方が重要な試合に違いない。
 日本が勝ったとしても、おそらく一般的な反応はほとんどないだろう。ヨーロッパではマイナーな競技だから、みたいな言われ方をされそうだし、元々ほとんどの人は、この試合の存在を知らないはずだった。

 約10年間、取材して書いてきて、そうして社会に知られていないことは、自分の力不足の部分もあるにしても、それが現状であり、選手達もスタッフ達も、そうした事は私以上に十分に分かっているに違いなかった。
 
 ただ、それでも、この試合に負けたら、次はない。
 もうナンバーツーですらなくなる。
 フィンランド代表は明らかに大きかった。どこかふくらんだような異質な大きさだった。どうして西洋人は大きいんだろう?と思わせるようなサイズだった。

 ハイリスク・ローリーターン。ものすごく不利な戦いに見えた。
 それでもフィールドの上にいる日本代表の選手達は、100メートルくらい先でも、いつも以上に気合いが入っているのも分かった気がした。

 試合が始まり、試合が進むうち、最初は大きくて、得体の知れない恐さを感じさせたフィンランド代表の選手達の動きが目に見えて遅くなっていった。アマチュアスポーツで、しかもマイナーなスポーツだったら、おそらく練習環境は恵まれていないはずだった。そのために体力的に問題があるのかもしれない、と想像がついた。

 それでも、いろいろな流れをここで終わらせないためには、日本は勝たなくてはいけないし、出来るだけ点をとらなくてはいけない。そんな緊張感がいくら点差がついても漂っているようだった。

 だから、39対7の圧勝で試合が終わった時、ドームの空気は喜びがはじけるというよりはホッとしたものになり、そのために暖かさに変わったように思えた。選手達は、スタンドの観客からサインを求められたり、写真をとられたり、小さい子を抱いてくれと頼まれていたり、さらには選手同士で自分たちのカメラで写真を撮っていたりと、普段とは違う、どこか嬉しさのある空間へと変わっていた。

 それは一区切りであるのは間違いなかった。

 でも、その時、翌年、1999年にワールドカップが予定されていたが、もしアメリカ代表が出場したとしても、そのチームと戦うという事自体が、あまりにも現実味が薄いことに思えていた。代表監督は、この「ジャパン・ユーロボウル」と同様に、やはり阿部監督に決まっていた。


(読んでいただき、ありがとうございます。『2007年のワールドカップ』②へ続きます)。





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