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言葉を考える⑱「気まずい」。

 エレベーターに乗って、いろんな人と一緒の数十秒。

 そこに人がいるのは、もちろん分かっているのだけど、知らない人だから、言葉をかわすことはできない。

 その間、ただ黙っている。

 だけど、それは一人きりで沈黙しているときとは違って、黙っていることに加えて、妙に気持ちが落ち着かない。

 それを、気まずいと表現すると、自分自身だけではなく、他の人も納得してもらいやすくなる。

 考えたら、不思議な表現でもある。


味覚

 それが本当に正確な起源かどうか分からないけれど、気まずいは、気がまずい、ということだとすれば、それは味覚に関係してくる。

 その場の「気」というような、そこにいる人にしか分からないような気配のようなものがあって、まずは、そういう空気に関して、まず誰もが共感できる。さらには、その「気」がまずい、ということは味覚に関することになったとしても、それ自体も普通に感覚として共有できる。

 本当であれば、何かを口に入れて初めてわかることが、そこにある気配に対しても、同じように、味覚として表現することは、とても意外でもあるのだけど、でも、今は普通に使っているし、とても納得ができる表現でもある。

 つまり、誰もが、人との間で生まれる空気感がわかり、その空気が良ければ、いい雰囲気と感じているし、悪ければ気まずく思うはずで、それは、そこにいないと体感できない。それも体で、味わっていることになる。

 あまりにも自然に使われているから、それが味覚に関する言葉かもしれないと、考えることも少ない。

味の程度

 最初に例としてあげたエレベーターのことなのだけど、その場面の「気まずさ」は、もし、気がまずい、とすれば、まずいとしても、そのまずさの程度は、それほどひどくないはずだ。

 気まずいとは言っても、気持ちの負担の程度としては、軽めだと思う。

 それよりも、もっと気まずさの程度が高い場面は、少なくない。

 例えば、その人との関係が悪いとき、と二人きりになって、しばらく時間を過ごさなければいけない。しかも、特に共通した話題もなく、目的もいったんない場合、その沈黙の時間は、気まずい。そして、その気まずさの程度は、少なくともエレベーターの時間よりも、まずいと思う。

 そして、こうしたことも多くの人にとっても共有してもらえることのはずだ。

 考えたら、気まずいというのは、比喩表現であるのに、ここまで広く使われていて、「気」という目に見えない、それこそ「エビデンス」もないような表現が使われ続けている。

 それは、おそらくは人間だからわかること、かもしれない。

気について

 説明しがたいけれど、確かに存在するものとして、「気」という文字は、よく登場する。

 例えば、人気

 同じ人が似たようなことをしていて、誰も見向きもしなかったのが、何かのきっかけ(これも後から分析などはできるとは思うけれど、多くの場合はただの偶然)によって、多くの人に興味や、好意まで持たれることがある。

 それが、人気がある。という状態で、そういう偶然を必然に変えるための一つの方法としてマーケティングといった合理的に思える方法もあるのだろうし、行動経済学なども発達すれば、ある程度、人工的に人気をつくることもできるようになるかもしれない。

 でも、人間の気持ちは、不合理な部分が多いままだろうから、それも難しいとは思う。

 それは、作品の魅力だけではなく、様々な理論を取り入れて、ヒット間違いなし。と思えるあらゆる方法をとったとしても、思ったよりも人気が出ない、ということは、私のような素人ではなく、そういう場所にいる人たちの方が、もっと身に染みるように知っていると思う。(この身に染みるように、という比喩表現も体感を表している)

 そして、人気という「気」は、あれだけ人の関心や好意を集めていたはずなのに、これ、という理由がなくても、急になくなることも、メディアを通して、が多いけれど、数限りなく見てきた。

 それは、飽きられた、と表現されることも少なくなかったのだけど、やっぱりどこか不思議で理不尽な出来事に思えた。その人気があって、人気がなくなっていった人は、変わりなく見えたし、そのパフォーマンスも質が落ちたように思えないことも多かったからだ。

気まずい、という比喩

 でも、そのなんだか分からなくて、実在感の薄い「気」というものも、確かに存在して、しかも人間であれば味わうことができる。

 表現として「気まずい」という比喩が、誰かによって発見され、そして、ずっと使われて続けていること自体が、「気」というものが存在し、しかも人間であれば、その味の程度も含めて、誰もが共有できる、ということを証明し続けているような気もする。

 もちろん、これは、根拠がなく、ただ推測を重ねただけなのだけど、「気まずい」という表現自体が味覚、という、体で感じられる感覚に関係するかもしれない、と考えることが、あまりない。

 それくらい自然に使われ、誰もが納得する表現として使われていること自体、なんだか、すごいように思う。言葉として表現できることは、思ったよりも少ないけれど、「気まずい」は、言葉として表しにくいことを表現している、優れた比喩なのだと改めて思った。



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