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言葉を考える⑫「かんのむし」という知恵。

 今は、あんまり聞かなくなった言葉の一つに「かんのむし」がある。

 私自身は、子どもを育てた経験がないので、聞いたり、見たりするしかなくて、想像するしかないのだけど、例えば、電車の中などで、ぐっすり寝ていたと思えた赤ちゃんが、急に泣き出し、それを焦ってあやす保護者の方を見ていると、なんとか声をかけた方がいいのかも、と思いながらも、どうかけたらいいのか分からない。

 気にしてませんよ、みたいなことをどう伝えたらいいのか、といったことを、うじうじ考えて、なんだか何もできず、申し訳ないように思う。

 同時に、例えば、子育てを一人でされていて、夜中に激しく泣き出し、どうやっても泣き止まない時、疲れもたまっていたら、想像するしかなくて、僭越で失礼かもしれないが、でも、そんな時はやはり絶望的な気持ちになるのかもしれない、と思う。

 薄くて遠い記憶をたどると、激しく泣いている乳児に対して、年配の女性が「あら、あら、かんのむしだね」みたいなことや、「かんのむしが悪さをしてんだよ」といった言葉は確かに聞いたような気がする。もしかしたら、自分の記憶を作ってしまっているのかもしれない、と思うけれど、この「かんのむし」というのは、かなり知恵の含まれた言葉ではないか、と最近思うようになった。

「かんのむし」

かんむし(ぐずり)とは?
赤ちゃんや幼児が理由もなく不機嫌になってぐずることで、いまのお母様方はギャン泣きとも呼んでいるようです。
なぜ「かんむし」と言うのかというと、昔は病気になるのはすべて身体の中にいるいろいろな虫のせいだと思われており、子供がぐずるのは「かんの虫」という虫のせいだと思っていたからです。

 宇津救命丸のブログでは、こうした話↑がきちんとされている。

 

 確かに感染症を考えたら、このように外部からの侵入として捉えれば、その通りなのだけど、「かんのむし」は、当たり前だけど、医学的にも科学的にも根拠はない。

 だけど、乳児が急に泣いて、お腹も空いてなくて、おしめも乾いているし、どこかケガもしてないし、熱があったりもしないし、病気ではないみたいなのに、どうあやしても、泣き続けることがあるとすれば、想像しかできなくて申し訳ないのだけど、その場に養育者が、一人しかいないと、追い詰められる気持ちになるかもしれない。

 そんな時に、この子は私が憎くて、こんな風に激しく泣いてるんだ、みたいなことを思い出してもおかしくない。

 たぶん、はっきりした原因はないだろうし、何かの拍子に泣き止んだりするとも思うけど、その泣いている子自体に原因を求めるのは、ある意味では危険かもしれないと思う。

 そんな時に、こんなに激しくグズるのは、この子のせいじゃない。かんのむしのせいだ。と思えれば、もしかしたら、ほんの少しでも気持ちが楽になる可能性があるのではないか。そんなことも含んでの言葉かもしれない、と思うようになった。

他責の知恵

 そういう意味では、自責でなく、他責にする、それも具体的な誰かではなく、本当は存在しないかもしれない「むし」のせいにすることで、自分がちょっとでも救われる、と考えると、ただの非科学とか、無知だけではないようにも思えてくる。

 それに、「かんのむし」だけではなく、他の病気も含めて、「むし」や「きつね」のせいにすることで、まったく原因がわからない時の、とっかかりのない恐怖や不安よりも、とりあえずの理由がわかることで、少しでも不安や恐怖が減る、ということを知っていたから、そんな風な語り方をしていたのかもしれない。

 だから、詳細は分からないとしても、平安時代あたりを舞台とした、ドラマや小説などを見ると、病気の時にやたらと祈祷師が出てくるし、災難に対しては陰陽師が登場する理由も分かるような気がする。祈祷して、事態が変わらないとしても、そうした存在が、人の気持ちの平安に寄与しているのだと思うと、その知恵の質は「かんのむし」と似ているようにも思えてくる。

人間を支えるもの

 根拠がなくても、人が分かる、理解する、ということが与える力みたいなもの。
 もしくは、具体的な誰かがではなく、何かに責任を持ってもらうこと。

 そんな知恵が、「かんのむし」という言葉には込められているような気もしているが、何もかも明確にしようとする現代では、こうした知恵は、生き残るのは難しいかもしれない。

 それでも、根拠が乏しいけれど、信じられることで人に平安をもたらす可能性のあるもので、まだ残っていて、これからも存続する可能性の高い概念は、おそらく「運」だと思う。

 運の良し悪しが、成功と深く結びついているのも、歳を重ねるほど本当に納得ができるのだけど(それが「成功バイアス」だとしても)、「運」という概念が「かんのむし」のように科学的に根拠がない、といったことになってしまったら、世の中の絶望の量は確実に増えると思うので、「根拠は分からないけど、あると信じられているもの」は、思った以上に、人間を支えているのかもしれない、と思う。

 もし、(例えば人生でも)うまくいかない時に「運が悪かった」という考えが禁じられたら、さらに息苦しくなってしまうとも考えているからだ。




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