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【展覧会感想】 終わってしまった二つの展覧会の今も残る印象-----『翻訳できない わたしの言葉』・『ホー・ツーニェン エージェントのA』。東京現代美術館。~2024.7.7。

 東京都現代美術館に行くときは、現代アートを見に行く楽しさと覚悟がある。

 あれだけ現代アート(いまだに現代美術と、どちらで呼ぶか、よくわからないが)ばかりを展示して、しかも広く、さらには作品に合わせた展示をしていたり、他では見られない作品も多いから、楽しみにもなる。

 一方で、現代美術館は、自宅からは少し遠い。それに清澄白河駅ができたから、状況は少しかわったものの、どうしても駅から歩く印象もある。さらに、新しい作品を見るのはうれしくもあるのだけど、作家によっては少し緊張してしまうような、ただの楽しみだけで見てはいけないのではないか、といった気持ちになるような作品もあるから、それは覚悟に近いものではないか、と思う。

 もう終わってしまった展覧会のことを振り返っても、もしかしたら、人によってはそれほど意味がないと思うかもしれないけれど、特に今回は、その印象が今も残っているのだった。

 二つの展覧会が同時に開催され、どちらも、自分にとって馴染みがあるアーティストばかりではなかったし、映像作品が中心だから、前もって少し調べたりもすると、どちらも全部見るには3時間では足りない、ということだった。

 だから、昼頃に行っても、午後6時に閉館になってしまうから、本当に1日がかりになると思って、出かけた。

 もうすぐ会期も終わるような暑い日だった。


翻訳できないわたしの言葉

 いつもは日本語を話している。

 これまで海外に滞在した経験は、トータルして2ヶ月くらいしかないから、他の言語に囲まれたようなこともほとんどない。

 だから、日本語という言葉を発して、それで会話をすることはあまりにも当たり前で、言葉そのものよりも、その言葉の限界とか、そこにこめられた想いのようなものを感じるようなことばかりをしている、ように思う。

 妻と二人で義母を介護しているときは、耳が聞こえなくなった義母を相手に、普段は唇を読んでもらったり、表情でなんとなく伝わるから、その動きを少し大きくしていたと思うが、少しでも複雑なことを伝えようとするときは、筆記ボードなどで文字を書いて、伝えていた。

 そのとき、義母は、こちらの伝えたいことを「聞きたくない」ときは、筆記ボードに書いても、それを目にしないように、目をつぶって、その自分の気持ちを伝えようとしていたのだろうけれど、そのことで、勝手なことだとも思うが、こちらはいら立つ。

 そんなこともあったのを、この展覧会を見て、思い出したり、そのことについて、考え抜くまではいかなくても、そのことを考えたりもした。

 だから、この展覧会は、それぞれの作家が、自分に深く関係していることを、その人にしか伝えられないことを、作品にしていた。だから、その空間にいるときは、受け止めきれないような思いにもなった。

 ただ、ある意味では、強い表現だったから、こうして展覧会が終わって、時間が経っても、思い出すと、そのときの感じが蘇る。

5人のアーティスト

 世界には様々な言語があり、一つの言語の中にも、方言や世代・経験による語彙・文法の違いなど、無数の豊かなバリエーションがあります。話す相手や場に応じて、仲間同士や家族だけで通じる言葉を使ったり、他言語を使ったりと、複数の言葉を使い分ける人もいるでしょう。言葉にしなくても伝わる思いもあります。それらはすべて、個人の中にこれまで蓄積されてきた経験の総体から生まれる「わたしの言葉」です。他言語を学ぶことでその言語を生み出した人々の文化や歴史に触れるように、誰かのことを知ることは、その人の「わたしの言葉」を、別の言葉に置き換えることなくそのまま受けとろうとすることから始まるのではないでしょうか。

 この展覧会では、ユニ・ホン・シャープマユンキキ南雲麻衣新井英夫金仁淑の5人のアーティストの作品を紹介します。彼らの作品は、みんなが同じ言語を話しているようにみえる社会に、異なる言語があることや、同じ言語の中にある違いに、解像度をあげ目を凝らそうとするものです。第一言語ではない言葉の発音がうまくできない様子を表現した作品や、最初に習得した言語の他に本来なら得られたかもしれない言語がある状況について語る作品、言葉が通じない相手の目をじっと見つめる作品、そして小さい声を聞き逃さないように耳を澄ませる体験などを通して、この展覧会では、鑑賞者一人ひとりが自分とは異なる誰かの「わたしの言葉」、そして自分自身の「わたしの言葉」を大切に思う機会を提示したいと思います。

(『東京現代美術館』サイトより)

 これは、展覧会のサイトにあるステートメントだけど、本当にこの通りの展示のようだ。だから、問題は、それをどこまで受け止められるか、感じ取れるか、理解できるか、という観客側にかかってくるのは、わかる。

 そういう展覧会は、やはり微妙な緊張感がある。

 最初の作品は、ユニ・ホン・シャープの映像。

 まだ「女の子」と言っていい年齢の女性が、こちらを向いて話をしている。

 それは、母親であるアーティストが、フランス語を母語とする娘に、フランス語の発音を習うという短めの映像だった。

 母語でなければ、正確な発音は難しい。だけど、だからといって、正確でない発音での言葉は、言葉ではないのか。みたいなことを伝えようとしている作品でもあったようだけど、それは、日常的に使う言葉を変えざるを得ないような事情がある人にとっては、本当に切実な話だと思う。

 他の4人のアーティストも、それぞれ、違う視点から、他の人とはちがうかもしれない「わたしの言葉」について作品化しているようだった。

言葉で説明できにくい気持ち

 アイヌをルーツに持つ作家・マユンキキが、でも、身近にアイヌ語があったわけでもなかったのだけど、それを大人になって学び始め、そのことで感じたいろいろなことを、同様に、言葉を選び直すような経験をしている人と対話をしているような映像。さらには、作家本人がいるスペースに入るときは、署名をして、尊重を前提として、鑑賞するような体験。

 日本に移住したブラジル人の子どもたちが通う滋賀県の学校で撮影されて、その日常の光景。金仁淑の映像作品。そして、その子どもたちは、大きめの映像として、こちらをじっと見つめてくる。

 体を動かすことを表現手段として活動を続けているアーティスト。そのことをワークショップを通じて広げていく。ALS発症後も、活動を続ける新井英夫。この日は、作家本人は会場にいなかったが、もし、ここにいたら、またいろいろなことを感じたはずだ、とも思う。


 さらに、南雲麻衣の映像作品。

 作家は、3歳半で失聴し、その後、人工内耳を埋め込み、音声日本語を母語とし、大人になってから手話を知る。そうした中で、南雲は「音声日本語」が母語であり「日本手話」を第一言語と認識している、といったプロフィールも、この展覧会で初めて知る。

 映像は、相手によって、言語が変わる様子だった。

 特に母親と「音声日本語」を使って会話している様子には、なんともいえない緊張感があった。

 ハンドアウトには、こうした作家の言葉があった。

『お母さんは南雲さんが手話を使うことに何かおっしゃってましたか?』

 この質問に、南雲は、こう答えている。

 『家に帰ると私は音声言語で話しますから、母は手話を見てないと思うんです。手話を使っていることを話すと、「へえ〜、手話って言うんだ」みたいな反応ですね。でも大学2年生のとき、ろう者で映画監督の今井ミカさんからのお誘いでヨーロッパに行き、向こうのろう者たちと会ったんです。それまでは音声と手話を切り替えたけれど、その2週間の旅のあいだは手話漬けでした。でも、帰国して母と会い、楽しかったと話すと、発音の能力が落ちたと言われたんです。そのときの母の表情をいまでも覚えています。なんとも神妙な面持ちというか……。母よりも父のほうが心配していて、「手話のせいか」みたいな反応がありました。やっぱり親たちは聞こえる人で、私とは違うんだと実感しました。自分の人生は自分で決めると言ったのを覚えています』。

(会場『ハンドアウト』より)

 こうした大事で、だけど、もしかしたらとても伝えにくいことを形にしてくれて、なんともいえない気持ちにもなったし、南雲麻衣という人へ感謝するような思いにもなった。

 展示を、全部をくまなく見られたわけではなかった。それでも約1時間20分で鑑賞を終えたのは、次の展覧会も見たいからだった。これは、鑑賞者の勝手な都合だった。

ホー・ツーニェン

 個人的には覚えにくい名前だけど、作品を見たいと思っていたのは、2019年に「あいちトリエンナーレ」に行き、この作家の作品もぜひ見たいと思いながらも、台風によって予定を変更せざるを得なくなり、見られなくなったせいもある。

   1965年に独立するまで、彼の出身地であるシンガポールは、19世紀は英国領であり、太平洋戦争中は日本の軍政下に置かれていた。彼は、歴史の記録や伝承を丹念にリサーチし、アジア全域にまたがる複雑な物語を美しい織物のように紡ぎ出す。その作品からは、単一的な視点を越えた、多層的なアジアの歴史が透けて見えてくる。映像、インスタレーション、サウンド、演劇といった従来のジャンルを自由に横断しつつ展開するその世界観は、壮麗さや優雅さをまといつつ、虚構と真実の間で「正史から抜け落ちた物語」を亡霊のように蘇らせる。彼の語りによってめくるめく変化をとげる歴史が、時に暗く、時に妖艶に観る者を魅了し、現代につながる近代以降のアジアの問題に光を当てる。

(『あいちトリエンナーレ2019』サイトより)

 歴史、特に戦争が関わってくると複雑な上に再考しにくい題材を、優れているとは言っても、一人のアーティストが取り組み続けるには、あまりにも膨大でやっかいだと直感的に感じるのに、そうしたことを映像作品として制作し続ける作家は、すごいと思うと同時に、すごくタフな人ではないか、と勝手に思っていた。

 そして、今回、初めて個展を見られることになった。

『ホー・ツーニェン エージェントのA』

 映像作品は、全部で8作品。

 それも、3つの展示会場で、時刻によって、映写時間がかわるので、どうすれば全部見られるかと考えたが、そういう作業に関しては無能なので、とにかく見ることにする。

 最初は、時間をテーマにしたものだった。

 ホーの最新作で新たな展開ともいえる《時間(タイム)のT》(2023年)では、ホーが引用しアニメーション化した映像の断片が、アルゴリズムによって、時間の様々な側面とスケール—素粒子の時間から生命の寿命、宇宙における時間まで—を描き出すシークエンスに編成されます。それらが喚起する意味や感覚は、時間とは何か、そして私たちの時間の経験や想像に介在するものは何かを問いかけます。

(『東京都現代美術館』サイトより)

 あらゆるエピソードが組み合わされ、だから、そのストーリーのようなものを追うのは諦めたとしても、この《時間(タイム)のT》を全部みると60分かかる。標準時刻を表示している時計か何かを破壊しようとして、失敗した人がいる、といった事実も初めて知った。

 他にも、おそらくは知らない出来事や、フィクションも含めてアニメーションで制作されていて、どこかへ連れて行かれるような気持ちになりそうにもなったけれど、全部を見てしまったら、他の作品が見られなくなるのでは、とも思ったので、半分くらいで切り上げることにした。

 3Dアニメーションを用いた《一頭あるいは数頭のトラ》(2017年)では、トラを人間の祖先とする信仰や人虎にまつわる神話をはじめ、19世紀にイギリス政府からの委任で入植していた測量士ジョージ・D・コールマンとトラとの遭遇や、第二次世界大戦中、イギリス軍を降伏させ「マレーのトラ」と呼ばれた軍人山下奉文など、シンガポールの歴史における支配と被支配の関係が、姿を変え続けるトラと人間を介して語られます。

(『東京都現代美術館』サイトより)

 この《一頭あるいは数頭のトラ》は、チラシなどでのメインビジュアルになっていて、あのトラは、この作品で出てくるのかとわかる。ただ、ものすごく壮大で、宇宙を連想させるような映像や、スローモーションも多用されていたのだけど、イギリスとシンガポールとの関係性のことを考えたり、ヨーロッパのアジアの事情を軽視している感じも伝わってくる。
 だから測量中にトラと遭遇してしまうではないか、などとも思ってしまったのだけど、こうした事実自体を、この作品を見るまで、恥ずかしながら、全く知らなかった。

 そして、過去になったといえ、知らなかった歴史の細部をこれからでもわかって行くことで、歴史の見え方が違ってくるし、それは、現在の世界への感じ方自体にも影響を及ぼしそうな気持ちまでしてくる。

 それは書物などで読む経験とは質が違って、現在性が高いようにも思えた。

日本の歴史

 今回の展覧会ではVRも体験できた。それも前もって予約をすれば、入場料を払えば誰でも利用できるものらしい。

 それで、あわてて予約もした。

 そのテーマは、日本の戦中の京都学派といわれる人たちの思想だった。

 《ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声》(2021年)を展示します。VRと6面の映像で構成された本作では、西洋主義的近代の超克を唱え、大東亜共栄圏建設について考察した京都学派の哲学者たちの対話、テキスト、講演などが現前します。VRでは、戦争の倫理性と国家のための死についての議論が行われた座談会から、西田幾多郎の「無」の概念を象徴する抽象的空間まで、京都学派の思想と哲学者たちの主観性を体現する空間に没入することができます。

(『東京都現代美術館』サイトより)

 明治以来、脱亜入欧を唱え、その上で、西洋を越えようとしていたのが、昭和の戦前の日本だったことは、なんとなく知ってはいたけれど、こうしてアニメーションを使って、その当時の哲学者が、獄中で亡くなったことなどを、かなり明確にイメージできたような気がした。それは、過去というよりも、今起こっていることのように感じた、ということだった。

 特に、大東亜共栄圏を思想として唱えて、それが実際に戦争が始まる、という形になってしまった時代に、雑誌の座談会として、その思想を語り合うような企画にVRで筆記係として参加する体験もできた。

 なんというか、戦争を始めた国で、しかも最初は勝っていたとすれば、それは想像しにくいほどの高揚感もありそうで、その上、その座談会に参加していた人たちには、自分たちが唱えていた思想で世界を変えて行くような万能感すらあったのではないか、という感覚になった。

 ただ、それはVR体験にもあったように、立ち上がれば空高くに舞い上がり、どこかで特攻隊を連想させる言葉が耳に入ってくるし、寝転がれば衛生的には最悪といっていい環境の監獄に落ちてしまうような危うい場所でもあったのだろうというようなイメージもできた。

 それは、歴史史実的には厳密さに欠けるのかもしれない、とは思うものの、あの時代に、どうして戦争に進んでいってしまったのか。といったことは、ただ空気のせいにするだけではなく、もっと具体的に細部を考えていかないと、知らないうちに、また同じような、だけど、決して同じには見えないように、一見、冷静そうで賢そうで他に選択肢がないかのような場面がやってきて、また誤った判断をしてしまいそうな気がした。

 だから、歴史というものは、もっときちんと振り返って、そして、その具体的な出来事を通して、体験しないと分からないのだろうと思った。

終わってしまった2つの展覧会

 2つの展覧会を半日かけて見にいって、冷房が効いていたから、途中から何枚も上着を着て、レッグウォーマーまでつけて、鑑賞した。昼頃に美術館に入って閉館ギリギリの午後6時近くまでいた。

 その展覧会は終わってしまったし、あれから、すでに1ヶ月ほどが経とうとしている。

 だけど、映像が主であったり、アニメーションでの再現だったりもしたのだけど、どちらも、その印象は、まだ整理しきれずに残っている。

 だから、これから先、だんだん気持ちに染みていって、自分の視点にまで影響していくのではないかという予感がする。


 もし、この記事を読んで少しでも興味を持ってもらえたら、ここで紹介した作家の名前を追いかけてもらえたら、どこかで作品を見る機会はこれかららもあると思います。

 お手数ですが、よろしくお願いします。




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