読書感想 『苦役列車』 「正直を極めることの美しさ」
その作家は、21世紀には、もしかしたら珍しい存在になった「私小説作家」であることは知っていた。それは、芥川賞受賞会見での受け答えでの印象とも真っ直ぐにつながっていた。
それでも興味がありながらも、読めなかったのは、自分が、ちょっと怖く感じていたのだろうと思うけれど、その西村賢太に関するドキュメンタリーは見た。
その中で、著名な人だけではなく、いわゆる西村賢太のファンでもある人も出てきて、かなり熱心に語り、同時に、自身の配偶者の女性にもすすめて、だけど、その女性は、かなり拒否的な言動をしていて、それも含めて、これだけ人に強い反応を起こさせる凄さを感じた。
だから、そういう興味の持ち方は失礼だとも思うけれど、改めて読んでみたいと思った。まだ読んだことがない芥川賞受賞の作品を読むことにした。
『苦役列車』 西村賢太
主人公は、作者本人と思ってもいいのだろうけれど、もちろんドキュメントではないから、同一人物ということでもなく、そのあたりの距離感については、読者として、それについて考えが足りないせいもあって、戸惑うことも多いのだが、でも、読み始めてしまえば、そういう迷いのようなものは、どこかへ行ってしまうような文章の密度があるように思えた。
同時に、それでも、作者の年齢と、小説の主人公の年齢などを姑息にも計算してしまい、1967年生まれで、この主人公が19歳だとすれば、時代は1986年くらいで、バブル前夜の、あのちょっと浮かれ始めた頃だとはわかる。
だけど、それよりも、もっと前の時代のようにさえ思えるのは、その冒頭は、目覚める場面から始まるのだけど、その住居と暮らし方は、明らかに荒んで感じる描写だからだと思う。
ただ、その明日が見えない、日雇いの日々に至る主人公の過程も、とても簡潔にバランスよく、書かれている。
罵詈雑言
主人公は、いわゆる日雇いでなんとか生きている。おそらくは1980年代後半の、大学生が最も浮かれていたような時代に、その同世代として、全く違う境遇にいることが、周囲が華やかな分だけ、想像しかできないけれど、よりしんどくなりそうだった。
そして、その職場で、同世代の専門学校生の男性と知り合い、少しずつ距離が縮まり、そこで人間的な交流も生まれてくる状況に進んでいくのだが、そこで、その男性に彼女がいることがわかり、そのことから少しずつ関係が変化し、それはどちらかといえば悪化していくのだけど、その原因は、かなりの部分、主人公にあるのが読者にもわかる。
例えば、慶應大学生であるという、その彼女に、同じ大学生の知り合いを紹介してもらおうという露骨な下心を持って、会わせてもらうのだけど、そのときの心の声の執拗さがすごい。
これは、罵詈雑言という表現の中にはおさまらないほどの念の入りようで、他人に対して、ひがみや嫉妬や怒りも含めて悪意を向けることは誰にでもあって、だけど、ここまでネガティブな言葉を重ねることは、とてもできることではないと思える。それは、ここまでの罵詈雑言には、表現の多様さと、心の持久力が並外れていることが必要だとわかるからだ。
そして、そうした悪意のある思いや言葉は、周囲の人に向けられ、そして、そのたびに、主人公は、かえって、よりひどい状況に追い込まれていき、その専門学校生ともほとんど縁が切れ、そのうちに、やはり全く違う環境で生きていることを、改めて分からされていく。
正直を極めることの美しさ
この一冊には『苦役列車』と、中年になって小説家になった主人公が、文学賞をめぐって、さまざまな葛藤を持ちながら、それほど文名を高めることなく生涯を終えた作家へ共感を持つ日々を書いた『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』がおさめられているが、私小説とわかっていても、21世紀になっての、この正直さはより凄みがある。
『苦役列車』も、『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』も、その主人公の行動に関しては、社会的に非難を受けても仕方がないものでもあるし、ここで引用したよりも、もっと下劣な悪口といっていい言葉もあるけれど、それをとにかく正確に表現しようとする覚悟のようなものと、その自分の気持ちにふさわしい表現を、注意深く、上品になりすぎないように、言葉だけではなく文字の種類まで、細やかに選択し、繊細に組み立てていく技術の洗練によって、雑な表現で言えば「最低な行動や思い」のようなものが、どこか透明感につながるものになり、人に伝わりやすくなり、だから、似たような思いを持つ人間にとっては、より孤独感を和らげてくれるような作品になっているのではないだろうか。
だから、当たり前だし、生意気な言い方になって申し訳ないのだけど、その技術的な高さがあるから、目を背けたくなるような思いまで描けるのだと思う。
こうした正直さに徹することによって、確かに美しいと言っていい表現につながっているように思うし、覚悟を貫いたことによる爽やかさのようなものまで伝わってくるように思えた。
もしかしたら、読む人を選ぶ小説かもしれませんが、どこか屈折した思いを持っていたり、孤独感を感じている人であれば、とにかく手に取って、読んでもらえたら、と思う作品です。
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