ゴディバ様。
チョコレートといえば、明治やロッテや森永のミルクチョコレートが基本だった。それは、今でも変わらないけれど、値上げが続いたり、自分の収入の低さによって、日常的には、もう少し安いチョコレートを食べるようになり、明治やロッテや森永も自分にとっては微妙な高級ブランドになっている。
それでも毎日のようにチョコを口にする生活は変わらない
タバスコ
年代によって、食品の変化の受け止め方は違っていて、例えば、ピザなどにタバスコをかけることが新鮮だった時代は確かにあって、そのタバスコの輸入にアントニオ猪木が関わっていたというエピソードと共に、辛さを加える調味料としては、タバスコの印象は強いままだ。
その後、もっと辛いものがたくさん登場し、物理的にもっと辛い調味料もあるのは情報としては知っているが、私にとってはハバネロが情報としても限界値になっている。
辛いものが好きといっても、おそらくはそれほどでもないことを証明するように、それ以上の辛いものに対しての興味も薄いせいか、今も、ハバネロ以上の辛いものの名前は、何度も聞いたことがあっても覚えられない。
それに一時期は、記録を更新するように次々と、より辛いものが出てきて、どこかでその情報自体を覚えることを諦めた気がする。
だから気がついたら、自分にとってはなじみがある辛さとしては、食事をとるときに、最後に味を調整するものとして、食卓にあって欲しいのは、伝統的でいえば、唐辛子やコショウ。自分にとっては少し新しいのがタバスコのままで、そういう意味では意識が更新されていないのかもしれない。
今は、すき家で、「とろ〜り3種のチーズ牛丼」を頼んだとき、タバスコがついてきて、そのときは好きなだけかけるけれど、最近では家にはタバスコが常備しているわけではないので、ここのところは、それだけがタバスコに触れるときになっている。
「文脈」チョコレート
様々な分野で、本当に次々と新しいものが出てきて、そのたびに「最新」という言葉もついてくるのだけど、個人的にはチョコレートとして、特別な存在として定着したように思っているのが「ゴディバ」だった。
ゴディバのサイトによると、1972年に日本に進出したのだけど、その記憶はないから、それこそ、その頃は、かなり高級品として扱われていて、私のように森永やロッテや明治のチョコレートに親しんでいた人間にとっては、存在が遠すぎたせいか。
もしくは、私が情報に強くなかったせいか、自分にとって「ゴディバ」を知るようになったのは、1980年代で、買おうと思えるようになったのは、80年代後半だったと思う。
その頃は、景気がいいと言われる時代で、クリスマスには、私のようにそれほど裕福と思えない青年たちが、デパートのティファニーの売り場に、おそらくは「オープンハート」を交際相手にプレゼントするために、殺到という言葉が大げさでないくらいたくさんいたから、あらゆる購入を後押しする気配が世の中に満ちていたのだと思う。
その頃、こうした詰め合わせを買った。
自分にとっては、(当時はもう少し安かった気もするが)、とても高額だった。だから、食べる前に期待はとても高まったせいか、そして今になると、そんなことはあるわけないとも分かるのだけど、何もかも忘れるようなおいしさを想像していたから、ちょっと拍子抜けしたことも覚えている。
だけど、それは、チョコレートというものをよくわかっていなかったせいだと、後になって気がつくのは、結局、自分にとってはミルクチョコレートがチョコの基本になっていて、そこから派生したり発展したりして、さらには、進化するという「チョコレート史」のようなことを知らないと、本当の意味で味わえない可能性もあるということだった。
だから、その後も、「ゴディバ」を更新するような、様々な、本当に宝石のような、アーティスティックなチョコレートも登場したのを情報としては知ることもあったが、値段は「ゴディバ」よりも、さらに高額になっていて、購入の意欲すら届かなかった。
それに、様々な味に対しての蓄積がないと、本当の意味では味わえない「文脈チョコレート」には手を出してはいけないような気持ちにもなっていた。
それでも、最近も、珍しく東京の表参道に行った時に、おしゃれすぎて入りづらく、何の店か分からなかったのが、チョコの店だった。
入ると、本当にギャラリーのようでもあって、チョコレートのショップで少しダークな気配もあり、なんだかすごかったので、ちょっと欲しい気持ちにもなったが、値段が自分には難しかった。
こういうとき、こうしたチョコレートを買えるくらいの収入があれば、と妄想に近い想像をしたりする。
ゴディバ様
そんな自分の事情とは関係なく、時々、デパートなどで遠くから見る「ゴディバ」のショップには、ホワイトデーの前には、中年男性が多くいたりして、特に年齢層が高いほど、プランドとしての信頼が続いているのだと思った。
お世話になった人へのお礼などで、迷った時には「ゴディバ」のクッキーを選んだりもしたから、私自身の敬意のようなものは、それでもまだあるのだと思う。
それは、「ゴディバ」の名前の由来にも関係しているはずだ。それほど強い興味もないのだけど、「ゴディバ様」のエピソードの概要は、私でも知っている。
それは、「ゴディバ」のロゴの一部として今もチョコレートを守っているようにも見える。
ファストフードやコンビニの「ゴディバ」
そんな「ゴディバ様」を、ここ何年かで、あちこちで見かけるようになった。
マクドナルドで、ゴディバのチョコレートドリンクを販売したことがあった。
CMで見るたびにできたら飲みたいと思い続け、だけど、まだコロナ禍の感染拡大が続いていたから、外出自体を控えていた頃で、外食も避けていたし、マクドナルドは、自分の住む町から撤退してからもう何年も経つし、一番近くても隣町で歩いて15分ほどかかる。
それでも、どうしても飲みたくなって、出かけた。しかも、コロナ感染を恐れて、店内ではなく、その近くの公園で飲んだ。
最後にかけるチョコレートの溶け具合いは、購入してすぐの方がおいしいのではないかと思っていたから、なるべくそばの公園で、少し小走りするように飲んだ。
おいしかったけれど、やっぱり、この1分くらいの誤差で、もっと美味しくなるのではないか、といった気持ちはあった。
それからは、ゴディバのショップに行かなくても「ゴディバ様」の姿を見ることが増えてきた。どうやら、向こうからやってくるようにしたようだ。
コンビニでも、あ、「ゴディバだ」と思うことが多くなってきた。
この「チョコレートフラッペ」は、おいしそうだったけれど、値段で二の足を踏んでいるうちに季節が進んでいった。
定期的に図書館の帰りに行くローソンでも、ゴディバの商品を見るようになった。スイーツを見るたびに、買いたい気持ちと、値段で諦める思い(情けないけれど)が戦って、買いたい方が負けていたのだけど、チョコレートパンまであるのを知って、購入した。
『ゴディバ ショコラロールパン』
最初に買った時は、時間に追われている中だったので、十分に味わうことができず、しかもできたら妻と一緒に食べたいと思っていたのに、という気持ちもあったので、もう一度買って、この濃厚さだと、おそらくは半分くらいがいいのではと思って、コーヒーの時間に半分ずつ食べた。
おいしかった。
最初に食べた時より、気持ちの余裕があるぶん、そのチョコの味のバリエーションまで伝わってきた。
妻は、もっと素直な感想だった。
「これ、すごくおいしい」。
改めて顔を見てしまうくらい、感情がこもった言葉だった。
「これ、美味しくない?」
一緒に食べてよかったと思った。
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