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思い出の出力。

 普段は、テーマによっては見ている番組なのだけど、その時は、予告編だけで、気持ちに熱がこもっているのが、自分で分かった。

 この長良川鉄道という路線のそばに、住んでいたことがあったからだと思う。

転校

 生まれたのは、神奈川県で、人と交わるのが苦手で、小学生に入ってからは1日、学校でも家でもほとんどしゃべらない日のあるくらいだった。そのせいか、その頃の記憶は薄めだったのだけど、そこから、小学2年生の冬に岐阜県に移ってからの方が、比較的、思い出の色が濃くなったように思う。

 父親の転勤によって、小学生はついて行くしかなく、それまでの学校に強い愛着があるわけでもないのだけど、でも、また知らないところへ行くのは不安だった。

 1学年1クラスしかないような小学校。最初は、言葉自体をからかわれた。通学には、田んぼにはさまれた道路を歩きながら片道で30分かかる。一棟しかない鉄筋4階建ての社宅、24世帯が暮らせるはずだったのだけど、その建物は、4階くらいで、周囲からは浮くほどの高さだった。駅に近い場所に社宅はあったのだけど、電車は1時間に一本くらいだった。

 とても不便なところに来たと思った。

 その駅に来る電車が、現在の長良川鉄道だった。

地元

 小学校の高学年の時に、何の授業か、どんな意図があったのか忘れてしまったのだけど、その時の担任が、急に聞いてきたのが、「岐阜県の外へ出たことがある人?」という質問だった。もちろん、私は別の場所から来ているし、住んでいるのは、岐阜県の南の方で、愛知県までは、やや遠いけれど、クルマだと30分くらいで、行けたはずだった。

 例えば、犬山という場所は愛知県で、県境に近かったけれど、そこには明治村やモンキーパーク、独特な気配もある桃太郎神社や、ライン下りのような観光資源もあったから、クルマの運転を始めて間もない父親に連れられるように家族と一緒に出かけていたから、その「県外に行った人?」という質問には、ほぼ全員が手を挙げると思っていた。

 ただ、その時に、半分より少し多いくらいの同級生が手を挙げたくらいで、もちろん、すでに正確なことも分からないし、もう随分と昔の記憶なのだけど、その数が思ったより少ないことに、子どもながらに驚いたのだと思う。

 大人になると、誰が、誰に投票するのか分かる、と言われるほど、しがらみの強い地域でもあったけれど、それだけに、地元への思いというのは強かったはずだ。

 だから、1時間に一本ほどしか通っていなくて、1両編成で、ディーゼルエンジンで走っていたから、レールの上のバス、という印象でもあったし、その電車が満員になることも珍しかったにしても、地元には、その路線しかなかったせいか、大人たちに言葉の端々に、誇りのようなものを感じていた。   

未来

 その時、住んでいる場所のそばの駅に走っている路線は、越美南線という名前で呼ばれていた。おそらくは、美は、この地域の旧名の美濃という地名に関係があるはずだったし、越というのは、その美濃を越えてく、といったニュアンスのようだった。

 そうしたことを、なぜ小学生も知っていたかというと、岐阜の南の地方には、この越美南線が通っているのだけど、もっと北には越美北線という路線があって、未来には、この2つの路線が一緒になって、越美線になる。

 確か、そんな話を、別に鉄道会社の人でもない地元の中年男性が、どこか誇らしげに、小学生に向かって、君たちが大人になる頃には、実現しているプランとして、語っていたからだ。

 その地域には、小学6年生までいて、それから、また神奈川県に引っ越した。

 さらに、10年以上が経って、大人になってから、この越美南線と言われていた路線に乗ったのだけど、その時は、長良川鉄道という名称になっていた。自分が住んでいた場所は、美濃太田からスタートして、まだ長良川に到達する前の地域だったから、その名称には、勝手に違和感があった。

 それに、越美北線とつながる、という気配も、全くなかった。

思い出の出力

 そこから、さらに年月が経って、ほぼその鉄道のことを忘れていたのに、テレビの予告編で、長良川鉄道が移った時に、ちょっと舞い上がるほど、気持ちに熱がこもっていた。

 普段の小学生の行動範囲だと、歩いたり、自転車が中心だったし、家族で出かけるときは、父がクルマを運転してくれていたから、駅まで徒歩5分くらいだったのに、この電車を利用する機会は、思ったよりも少なかった。

 それでも、この映像を見た時に、圧縮されたイメージが、ちょっと混じりながら、頭に浮かんだ。

 とても本数が少ないから、駅に着いたときに、電車が発車しそうな時に、車両に声をかけたら、車掌さんが止めて、待ってくれたこと。 
 夏休みの自由研究で、この駅の乗降客の数をカウントしたこと。
 駅のトイレが、いわゆる汲み取り式だったこと。
 窓の外の光景は、田んぼが多かったこと。

 すっかり忘れていたはずなのに、そんな思い出が湧いてくるように出てくるのは、たった4年間しか住んでいなかったけれど、そこになじむまでに、子どもなりに大変だったせいか。
 さらには、川や田んぼに囲まれた生活が新鮮だったのか。
 1学年1クラスしかないような学校の小規模で家族的な感じが良かったのか。何より、小学生という年代の時の記憶は、もっと大人になってからのものに比べて、密度が濃いせいなのか、他の思い出よりも出力が高いように思えた。

長良川鉄道

 テレビで見た長良川鉄道は、私が、大人になってから乗った車両とも、全く違っていた。

 こんな鮮やかな赤い色は見たことがなかったし、2両編成も記憶になかった。

 どうやら、廃線の危機があったのに、こうして観光を目玉にした車両を新しく採用することで、乗客が増え、そのことで、ピンチを乗り越えたらしい。

 だから、そのテレビで紹介されていた光景は、長良川沿いを走るようになってからの、景色として観光地感のあるものばかりで、そこに至るまでの駅しかほぼ使ったことがない私には、とても遠い光景だったし、この「ながら」という新しい車両が導入されてからは、まだ10年が経っていなかったから、私の知っている鉄道とはもう違うものと言って良かった。

 ただ、そのまま何も、変わらなければ、おそらくは、その路線自体が廃線になっていたはずで、自分が全く知らないところで、元・越美南線は、「経営という場所」で戦っていたのだと思った。

 あれから、随分と時間が経つのに、幼い頃の思い出は出力が高いまま保存されているせいか、比較的、現在に近い印象として蘇るのだと、改めて感じた。記憶の距離感は、不思議だった。

 そして、最初は、映像として見ていて、やや違和感のある「ながら」の車両の赤さは、岐阜にいた頃、川沿いの道路を父の運転で北へ向かっていた時に見えてきた、紅葉の時の、関東に戻ってきてからは見たことがないような、強い赤の印象と重なってきた。

 それも意外だった。




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