「迷惑をかけちゃいけない」と、「迷惑をかけたくない」。その二つの言葉の違いについて、考える。(後編)。
「迷惑をかけちゃいけない」と、「迷惑をかけたくない」。どちらも、多く聞かれる言葉だけれど、実は、意味合いがかなり違うのではないか、と思っている。
その上で、「迷惑をかけちゃいけない」という言葉を使いすぎるのは、特に教育的効果として、好ましくない場合もある、と言われるようになってきた。
その一方で、「迷惑をかけたくない」という言葉は、高齢者が使うときは、特に意味が重いし、決して軽んじられることではないとしても、それが、未来の明るさにつながるわけでもないと思う。
では、この「迷惑をかけたくない」について、どう考えていけばいいのだろうか。
介護は迷惑ではなかった
とても個人的な経験に過ぎないけれど、私は19年間介護をした。
自分の母親と、妻の母親。妻と二人で介護をして、その年月が経った。
介護中、辛かったり、死にたいと思ったり、介護をする人に対して殺したいと感じたり、まるで水の中で生きているような密室的な感覚の中で過ごした時間も長かった。
だけど、介護そのものが、自分にとって「迷惑」と思ったことは、一度もなかった。
この期間中に「迷惑」だと思った相手は、母親の症状に対して明らかに判断を間違ったのに、謝りもしなかった医師や医療関係者だけだった。
微妙に「ありがた迷惑」だと思ったのは、タイミングのずれたアドバイスを「善意」でしてくる人たちだった。
私の父親は「何かあっても子どもには迷惑はかけない」が口癖だった。その父親は、ガンで亡くなって、短い時間だけど介護のようなことをしていたときも、母親の介護をしている時も、「ああいうことを言わなければいいのに」と父には思ったけれど、それでも、父に対しても、母に対しても、義母に対しても、介護をするときに「迷惑をかけられた」と思ったことはなかった。
人は長く生きていれば、衰えたり、病気になったりするのは当然だと思っていたからだ。自分ができる範囲のことであれば、ただおこなうだけだった。
この感覚や考えを、他の人に押し付ける気もないけれど、「子どもに迷惑をかけたくない」と繰り返す高齢者の子供の人たちが、たとえば介護のことを本当に「迷惑」だと思うかどうかは分からない、と考えてもいいのではないだろうか。
「迷惑」にならないために
元々、人類だけが、老いた個体を介護するらしく、それは、まだ明確になっていない要素も含めて、実は、人類がここまで発展した理由の一つの可能性もあると思う。
人間は、生まれてきた時には、動物的には早産であるのだから、誰かの世話を必要とする。そして、それによって誰もが育つことができるはずだし、その養育は、大変だとしても、一般的には「迷惑」とは言われず、必要なケアと位置づけられている。
同様に、平均寿命がこれだけ伸びれば、死ぬ前の10年(場合によっては、それ以上でも)くらいは、生まれてからの10年と同様に、人のケアを必要とするのが当たり前で、それを可能にする社会になっていくのが進化だと思う。
もし、老いて、動けなくなることが、周囲にとって「負担」とされ、さらに「迷惑」になるのであれば、それは、もっと平均寿命が短く、老いて動けなくなることが、もっと珍しい時代の「常識」ではないだろうか。
平均寿命が伸びた場合は、老いた時のケアの必要性や具体的方法を検討するのが先で、それを当事者も含めて、まずは「迷惑」と考えるのは、あまりにも先走りすぎた乱暴な考えのようにも思う。
例えば、家族の介護をすることが、その介護をする人にとって「迷惑」になってしまうのであれば、それは個人的な頑張りなどとは別に、社会制度の設計ミスではないか、と疑った方がいいのではないだろうか。
例えば、介護が必要になったとしても、社会制度を使えば、介護をする人にとって、そのキャリアや生活にとっても決してハンディにならないようなシステムがあれば、「迷惑をかけたくない」と口癖のように語る高齢者は減るように思うのだけど、どうだろうか。
いろいろな意味で、不備がある介護保険の制度だけど、それだけではなく、介護休業や育児休業の制度も法律で定められるようになってきている。
日本の場合は、意識よりも、こうして外側のシステムが変化して、やっと気持ちの方が変わっていくように思っている。
社会制度の変化
当然だけど、社会システムは変化している。
世界中でワークライフバランスの考え方が当たり前になりつつあるとはいえ、国の威信をかけた(この考え方がもう古いのかもしれませんが)4年に一度の大会で、23人しかいない選手の一人を休みにするなんて指揮官にとっては勇気のいる決断ですよね。
イングランド代表監督は
「人生にはサッカーより大切なことがいくつかある」
とデルフ選手の出産立会いを支持しています。
すでに2018年のことになってしまうが、W杯出場選手が、出産立ち会いのために、試合を欠場している。このシステムがあること。さらには、そのシステムを利用することが支持されること。その両方があって、このように、初めて有効に機能する。
選手が夫人の出産に立ち会うためにシーズン中にチームを「離脱」することは、日本球界ではあまり聞かない。出産の立ち合いでチームを一時離れることがルールで禁じられているわけではない。日本球界では選手それぞれが「自主規制」しているにすぎないのだろう。
これが、海外のことで関係ない、というわけではなく、どんな思考でも習慣でも、地球上のことであれば、影響が全くない、ということもないはずだと思う。
そうであれば、日本でも家族のために時間を優先するような制度が出来てくれば、それで、やっと変化する1歩目になるかもしれないが、問題は、それで制度が充実したとしても、その制度を使うことが「迷惑をかける」と思ってしまえば、その制度が宝の持ち腐れになってしまう未来が、やっぱり怖いように思う。
ONE TEAM
電車に乗ったら、目の前に運動部で揃いのTシャツを作って、みんな着ている中学生のグループがいた。
その背中には、一番上に、大きいデザインされた文字で「ONE FOR ALL」とあった。
この言葉は、2019年のラブビーワールドカップの時の「ONE TEAM」に影響を受けているのかもしれない。
ただ、この言葉は、人種や国籍などを超えて、一つのチームになる、といった理念が支えているはずだったのに、それが流行語のようになってしまうと、数年で、そのニュアンスが変わってしまった印象がある。
その中学生の背中の文字に、どこまでの意味合いがあるのか分からないが、ただ、この「ONE FOR ALL」は、続く言葉があったはずだ。それは「ALL FOR ONE」で、この二つの文章によって、初めてチームとしての意味が出てくるのだと思う。
「ONE FOR ALL. ALL FOR ONE」(一人は、みんなのために。そして、みんなは一人のために)。
多様性の時代の言葉でもある「one team」が、日本社会で数年経つと、いつの間にか、組織に奉仕することを強制するような、場合によっては、全体主義のような意味合いに近づいてしまったように、本来は、「ONE FOR ALL. ALL FOR ONE」(一人は、みんなのために。そして、みんなは一人のために)で完成するのに、「ONE FOR ALL」だけが強調されてしまえば、同調圧力の強い日本社会では、全体主義の発想に近くなってしまう。
それは、まるで「お国のために」を強要された戦前の価値観に近づく可能すらあると思う。そして、「迷惑をかけたくない」も、時として美しい気持ちの反映でもあるけれど、みんなのために自己犠牲になる、ばかりではなく、本来は対の言葉であった「困ったときはお互いさま」によって、困った人はみんなで助ける、という両方の価値観が尊重されるような健全な価値観にしていくのは、実はとても大変かもしれない。
意識の変化
イギリス在住の著者の10代の息子と、著者の友人との会話を著者が残している。
この友人は、底辺託児所が一昨年に潰れるまで一緒に働いていたイラン人女性であり、いまはホームレス支援団体が運営している託児所の責任者として働いている
「緊縮って何?」と息子が聞くと、友人が説明を始めた。
「この国の住民は英国っていうコミュニティに会費を払っている。なぜって、人間は病気になったり、仕事ができなくなったりして困るときもあるじゃない。国っていうのは、その困ったときに集めた会費を使って助け合う互助会みたいなものなの」
「その会費って税金のことだよね」
「そう。ところが、緊縮っていうのは、その会費を集めている政府が、会員たちのためにお金を使わなくなること」
「そんなことしたら困っている人たちは本当に困るでしょ」
「そう。本当に困ってしまうから、いまここでサンドウィッチを作ったりしているの。互助会が機能していないから、住民たちが善意でやるしかない」
「でも、善意っていいことだよね?」
「うん。だけどそれはいつもあるとは限らないし、人の気持ちは変わりやすくて頼りないものでしょ。だから、住民から税金を集めている互助会が、困っている人を助けるという本来の義務を果たしていかなくちゃいけない。それは善意とは関係ない確固としたシステムのはずだからね。なのに緊縮はそのシステムの動きを止める。だからこうやってみんなで集まって、ホームレスの人々にシェルターを提供したり、パトロール隊が出て行ったりしているの」
国家という存在には、様々な面があり、基本的に権力という暴力的な力を持ちながらも、だけど、ここで「互助会」と表現されているような部分もあるのが、こうした会話があれば、自然と理解しやすくなる。
そう考えれば、国のために国民がいるわけではなく、国民のために国がある。だから、国民は国に力を貸す、という順番が当然のようにあることが実感としてつかみやすい。
この会話が、イギリスでも、特殊とは思えないのは、日本でいえば、小学生から「シティズンシップ・エディケーションの授業」があることも、この著書で、同時に伝えているからだ。
とすれば、こうしたことを学んでいれば、日本でも、「迷惑」への意識が変わってくる可能性がある。これもシステムの変化で意識が変わるということになるだろう。
だけど、意識が変化し、「迷惑をかけたくない」という言葉が減るとすれば、それには、随分と年月がかかるのは間違いないように思う。
誰にも迷惑をかけない、ということ
誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。
誰にも頼ることのできない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。
僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。
この言葉は、個人的には以前も取り上げてきたのだけど、こうした基本的なことから、もう一度振り返り、その上で、これから目指す社会を、もう一度考え直した方がいい時に来ているのだと思う。
そうでないと、小説「本心」の「自由死」や、「PLAN75」のように、75歳以上は、「迷惑をかけない」ように死ぬことを実質上柔らかく強制されるような社会、が実現してしまいそうだから、本当に、今が大事な時なのかもしれない。
(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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