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読書感想 『ペストの記憶』 「繰り返される“歴史”と“感染症”」

 ペストの大規模な感染で、とても大勢の人が亡くなったこと。
 それは、これまでは完全に「歴史上の出来事」として、時間的なことだけでなく、気持ちとしても、とても遠いことに感じていた。

 自分が無知であるだけでなく、おそらくは他の多数の人にとっても、「感染病」は過去のもののようになっていたせいも大きいと思う。

 その感覚が大きく変わったのは、今も続くコロナ禍が本格化した昨年くらいからで、17世紀のペストの流行に対して、興味も関心も近くなった。それは、こちらの勝手な都合なのだけど、「ロビンソン・クルーソー」の物語を書いたダニエル・デフォーが「ペストの記憶」という作品も残していることを知り、本当は購入すべきなのだけど、図書館に予約をした。

 6ヶ月待って、読むことができた。

「ペストの記憶」  ダニエル・デフォー

 もちろんペストと新型コロナウイルスによる症状は、違う疫病でもあるし、致死率も大きく違う。ペストは、400年以上前の出来事であり、場所もイギリスのロンドンであるけれど、その感染拡大の流れや、周囲の混乱自体も、個人的には、とても似ているように思えた。

 例えば、その感染の当初、「その病気が存在しないかのように、周囲が願うような気持ちの動き」があり、その後、爆発的な感染が顕わになっていくこと。

 五月のはじめだったが、気候は穏やかで、寒暖の変化はあるけれどまだ涼しく、市民は希望を失わなかった。強気になれたのは市街地が健康だったからだ。(中略)あれはもっぱら街はずれの連中がかかっていて、もう広がらないんじゃないか、と思うようになった。翌週、つまり五月九日から十六日にはさらに望みが出てきた。ペストの死者は三人のみで、しかも市街地とその周囲の特別行政区には一人もいなかった。(中略)ぼくらは希望を抱いて数日を過ごした。でも、それはほんの数日で終わった。市民はもう報告書の数字に騙されなかった。みずから家々を調べ、本当はペストがすみずみまで拡散し、たくさんの人が日々死んでいることを知ってしまったのだ。こうしてすべての希望的観測は色あせ、事実を隠すことはできなくなった。

 そして、こうした疫病の流行とともに、どこからか現れる、詐欺師に近い人間の妄言でなく、偽医者や、場合によっては医療関係者まで関わるような多くのデマによって、さらに混乱と不安が増していくところ。

 人びとの不安が異様に高まったのは、誤った考えがこの時代に広まったせいでもあった。当時の人びとは、どういう信念からか想像もつかないけれど、予言や星占いの呪文、夢占いや根も葉もない俗説にかぶれていて、これほどひどい時代はあとにも先にもなかった。

 さらに、疫病の流行によって、仕事を失う人たちが、増加してしまうこと。通常時から収入が低い層の方が、より感染しやすい状況に置かれること。

 あらゆる商売が停止され、雇用も取り消された。仕事が断たれ、貧しい人びとの飯の種が尽きてしまった。特に初めのうち、貧民は本当に気の毒な嘆きの声を発していた。

 そして、恥ずかしながら、今回、初めて知ったのだけど(ただ、この作品もドキュメンタリーではないので、完全な事実かどうかは確証がないが)、ペストと新型コロナウイルスに共通点があること。

 元気な人というのは、すでに病気の菌に感染し、その肉体と血液に病毒を抱えながら、外見ではその影響が分からない者を意味する。いやこの人たちは、自分でも感染に気づいていないことがあり、数日間は無自覚のままというのはざらだった。彼らはあらゆる場所で、近くを通る誰にでも死の息を吹きかけた。 
 そしてこれこそが、疫病流行時に人間がどれだけ警戒しても、ペストの蔓延を防げない理由なのだ。

作品の背景

 この作品を読んでいて、とてもリアルだと思った。
 そして、やや混乱していて整理されていないような感触が、より本当のこと、その現場にいた人の言葉にも思える。

 ただ、この作品は、「訳者改題  武田将明」で詳細に書かれているように、フィクションである。

 本書は、一六六五年にロンドンを襲ったペストの被害について、『ロビンソン・クルーソー』(一七一九年)の著者として有名なダニエル・デフォーが、架空の語り手を用いて記録した作品である。 

 そして、この「ペストの記憶」が書かれたのは、1722年で、著者は60歳を超えている。どうして、60年前のことが、このときに書かれたのか、については理由があるようだ。

 一七二〇年から二二年にかけて、マルセイユなどフランスのプロヴァンス地方でペストの大流行があり、本書の刊行された一七二二年には、ロンドンにも累が及ぶ危険性があったことだ。

 

 今回のコロナ禍がなければ、この「ペストの記憶」が再注目されることもなかったように、この「ペストの記憶」も、再びのペスト危機がなければ、書かれなかったかもしれない。

 21世紀から見ると、1600年代も、1700年代も、そんなに違って見えないのは、注意深さが足りないだけかもしれないが、それでも、この「ペスト危機」に便乗して書いただけでなく、著者のダニエル・デフォーにとっては、この作品の執筆には、かなり必然性があったのではないか、と思えるのは、作者の背景のせいだ。

 この「訳者 改題」の中には、こうしたことも書かれている。

 デフォーは、5歳の時にペストの流行を経験している。だけど、避難をしているから、直接的な記憶はないらしい。父親の兄がロンドンに留まっているから、その人物にいろいろな話を聞いているかもしれない、という推測もされていて、著書の内容のリアリティから見ると、かなりの確率で当たっている見立てのように思える。

作者の背景

 デフォーは、5歳で、ペストを避けるためにロンドンから避難をしているから、実情は、そんなに知らないかもしれない。だけど、5歳にもなれば、それまでの日常と違ってきてしまったことは、明らかに感じると思う。親も含めて、周囲の大人の緊張感や不安が伝わらないわけもないから、そういう「変化」に対して、深いところで、傷ついたりしている可能性はある。

 さらに、父親の兄という人が、その時のロンドンに留まり、生き延びて、体験談を伝えているとしたら、それは貴重な記録でもあるけれど、その話を聞くだけで、その時のデフォーが幼いとしたら、また違う意味での傷つきの体験になっているかもしれない。

 デフォーの代表作でもある「ロビンソン・クルーソー」の物語も、無人島に漂流してからの話でもあり、考えたら、日常を失った人の話でもあるから、そうした体験が影響している可能性もあると、改めて思った。

 さらに、疫病の流行によって、元気だった人が次々と亡くなり、しかも、感染の元となるものは見えないことによって、より不安がふくらみ、完全に日常が失われる体験は、間接的だとしても、それから時間がたって、60歳を超えても、ずっと影響が続くことを、この「ペストの記憶」という作品が証明しているようにも思う。

繰り返す歴史と、忘れてしまう理由

 どこまで事実か分からないものの、感染症が爆発的に流行するときに、何が起きるのか。どんな政策が有効なのか。いったん流行がおさまったかに見えた時が、どれだけ危険なのか。今でも十分に教訓として生きそうなことが、幅広く書かれている。

 ただ、自分もそうだけど、この感染症の歴史に関しては、これだけ豊富に残されたとしても、こうして身に迫ることがなければ、どうしても参照することをしない。それは、他の人もそうだと思うのだけど、感染症のことは、もし、今回もコロナ禍が終息したとしたら、無意識に近い部分で、なるべく早く忘れようとするのではないだろうか。

 その時によって、濃度の違いはあるものの、ずっと終わらない緊張感が続く感覚は、日常へ復帰する際には、抱えていられないのかもしれない。

 だから、忘れようとして、忘れて、そして、また新たな感染症の時は、過去の教訓を生かすことができず、同じような過ちを繰り返してしまう。

 それが「歴史は繰り返す」という、一つの要素かもしれない。

 例えば、まだ10年ほどしかたっていないのに、新型インフルエンザや、デング熱といった感染症の教訓も、今回に生かせなかったと思う。

感染症を忘れないために

 どうしても感染症の記憶は、忘れられやすく、忘れようとするものだから、これから先、このコロナ禍の教訓を生かすとすれば、できたら、今からでも、感染症研究所をさらに充実させ、次の新たな感染症が拡大した時のことまで考え、医療崩壊しないように、犠牲者を可能な限り少なくするように、具体的なシステムを構築し続ける必要がありそうだ。

 それと並行して、こうした感染症の記憶を、忘れないように、さらには啓発のために、大勢の人がアクセスしやすい場所に、感染症博物館のようなものを作り、その中で、感染症に関する書籍や映像なども常に閲覧できるようにすべきなのかもしれない。

 そうした博物館が、もしできた場合は、この「ペストの記憶」も所蔵されるに違いない。


 コロナ禍の現在だからこそ、どんな方にもオススメできる作品だと思います。本当に歴史が繰り返されることを実感もでき、もしかしたら、少しでも不安が減る可能性もありますし、感染症が、終息に向かう時に起こりがちなことへの、気持ちの備えができるかもしれません。(ただ、ショッキングな場面もありますので、そうしたことが苦手な場合は、避けた方がいいと思います)。




(他にもいろいろなことを書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。


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