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日々、死を意識してしまう私

さて、本日は命をテーマにお届けします。

私たちは共に令和時代の空気を共有し、

そして、日本国という共同体の中で、

この国の未来に対する憂い、悲しみ、嘆き、憤り、怒り、無力さを

感じながら、漠然とした不安を抱えながら、

諦めにも似た感情と付き合っていかなければならないと思っています。

皆さんご存じの通り、、、日本は日々、衰退し続けていますが、

Noteを通じて、私が伝えたことは1つだけで、

希望を忘れないでほしいということです。

希望さえあれば、それは生きる為のモチベーションになるからです。

苦しくて死にたい時も、

寂しくて死にたい時も、

辛くて死にたい時も、

誰も助けてもらえず死にたい時も、

楽になりたくて死にたい時も、

希望があれば、生きるモチベーションになります。


でも、そもそも我々はなぜ、生きなければならないのでしょうか。

生きているか、死んでいるか、日々よく分からない。

生きている実感が無い。そんな感情になる時ってありませんか?


そんな時は、是非、死を意識してほしいのです。

死を意識できる環境に身を投じてほしいのです。

私が死を意識し始めたとき、それは父親が病気で倒れたときでした。

あれは、私がまだ中学3年生の頃、家族で夕食を食べている最中に、

父が全身痙攣の発作を起こして、フローリングに倒れ込みました。

私は、父の震える身体が周辺の家具でケガしないように、

カーペットと座布団がある場所に移動させて、すぐに救急へ連絡しました。

自分も冷静ではなく、震える手と唇で救急に電話を掛け、

絞った声で住所を連絡したことを今でもよく覚えています。

救急車が来て、父が運ばれていく姿を見て、

私は父の命が長くないことを悟りました。

診断結果は、くも膜下出血でした。

幸運にも、近くの大学病院に運ばれ、

すぐに手術の手配をして頂き、一命を取り留めました。

但し、症状を思わしくなく、

担当医の先生には余命を宣告され、2~3カ月でしょうという話でした。

父親の余命を聞かれた私は思いました。

「人は若くても大病をすると死んでしまうし、

仮に一命を取り留めても、健康でないと自由に働くこともできない。

一生誰かに面倒をかけてしまう。」

この時は、まだ漠然とした感覚でしたが、

それは健康寿命の重要性を感じ始めた瞬間でした。

と同時に、父親が不在になった場合、

経済的に困窮してしまうことが頭をよぎりました。

まだ中学生の私は、経済的な自立ができておらず、

進学するための金銭的な工面をどうすれば良いのか、

そもそも生きていきていけるのか不安でした。

誰も相談できないし、父親の死について相談できる友達はいませんでした。

そんな時に心の不安や悩みについて、解決の役に立ったのは本でした。

古本屋などで立ち読みして、気に入った本を購入し、何度も読んだこと。

それが私にとって、心の支えになってました。希望でした。

だからこそ、私も同じように誰かの希望になれますように

今日もNoteで情報を発信しております。


人はなぜ生きるのか?という疑問ですが、

そもそも、人は生存本能が備わっています。

命の危険が迫ると自然と回避する能力が備わっています。

銃を突きつけられると、死にたくない、生きたいという本能を感じることができると思います。

熊に襲われると、どうすれば生き延びられるか真剣に考えると思います。

死に近い方が、生きようとする本能を感じられますし、

生きている実感が湧いてきます。

そして、限られた命の中で、限られた時間の中で、

自分の人生をどのようにデザインし、何をするために

生きていくことが幸せなのか、人生の羅針盤を模索するようになりました。

どんな環境であれ、どんな境遇であれ、希望が見つかります。

誰でも平等に幸せになる権利があります。

私と一緒に、幸せをデザインしていきましょう。


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