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「ちがう」を言い合える関係。

今、おうちでお昼休憩をしています。

昨日の夜、日記を書こう〜と思っていたのに、気づいたら床の上でぐぅぐぅ寝ていたので、書きそびれてしまいました。ここまで毎日noteを更新しつづけていたのに(たとえ出張の日があっても)こんなところでリタイアするのはくやしいので、今から昨日の日記を書いていきます。

・・・

友だちとイタリアンレストランに行ってご飯を食べた。食べながら、わたしと彼女のちがいについて、ひたすら話していた。

彼女とは、いつもそういう話になる。もちろん、「わかる〜!」と言い合ってキャッキャするようなタイミングもある。だけどそれ以上に盛り上がるのが、話している中で「わたし達ってこんなにちがうの!?」と気づく瞬間である。

たとえば昨日の会話のなかで、「内向的な人」と「外交的な人」のちがいについて話した。彼女曰く、「朝起きた時、人と話しているとどんどん元気になってくる人は外交的。逆に、1人でいる方がどんどん元気になってくる人は内交的」ということだった。「わたしは絶対に内向的なんだよね〜、にもちゃんはどっち?」と聞かれて、うーん…とすこし考えたあとで「わたしは50:50かなぁ〜、ずっと一人でいても元気なくなるし、かといってずっと人と一緒にいるのも辛くなる…」と答えた。彼女はそれを聞いて「人と一緒にいて元気になるって、ぜんっぜん分かんないワ〜〜」と言っていた。

そのあとも、最近よく考えていることや、理想とする生活について、お互いの本音を晒し合った。ほんとうにタイプが違くて、相手の思考があまりにも新鮮すぎるので、自ずと前のめりになって話を聞く。「えッ、なんでその考えに行き着くの?」とか「そんなこと思って生きてるのッ!?」とか。人と人って、こんなにも違うのか!という、あたりまえのことを、目の前にして実感した。

このとき思ったのが、普段の生活で、ここまで深くお互いのちがいについて深掘りする機会って、実はなかなかないんじゃないかということ。

たとえば、入学式の日。はじましての子しかいない教室の中で、なんとか誰かとの会話をスタートさせたいとき、鉄板ともいえるのが「共通点さがし」。「その筆箱、わたしも持ってる!」とか「それ、かわいい!いいなぁ!」とかをきっかけに、自分と相手を結びつける交点をさがして、2人の安心できる世界をつくる。教室のなかには当然、ちがうタイプの人たちもいるけれど、いざ1から始めるときにわざわざそういう子に声をかけることって少ない。(学園ものの少女漫画の第1話では稀に見るけど)

さらには、SNSの「いいね!」とか「RT(リツイート)」も。大抵は、自分の共感できるものだったり、好きなものだったりに反応して行動することが多い。たくさん溢れている情報のなかで圧倒的に目につくのは、まったく見たことのない・知らないものよりも、既視感のある・自分知っているものなんじゃないかな。

となると、多くの人は、だれかと「おなじだね〜!」言い合う機会にくらべて、「ちがうね〜!」と言い合う機会のほうが圧倒的に少ないのでは?と思えてくる。

「おなじだね〜!」があると、うれしいし、安心するし、「それなら一緒にやろうよ!」と仲間をあつめるきっかけにもなると思う。

けれど「ちがうね〜!」があること、それをお互いによく知った上で話をするのは、とってもすごいことだ。そしてきっと、みんなに必要なことなのだ。そういう相手は、自分の知らない自分を見つけてくれる。そして、その視点からしか言えないことを、言ってくれる(これが大事)。

たまには、そこでいわれた言葉を飲み込むことができなくて、しばらく飴玉のように口のなかで転がしつづける時間も必要かもしれない。けれどしばらくして、それを飲み込めたときには、またちがう自分になっているのだ。

それに、そういうときに自分と人のちがいを改めて実感するからこそ、だれに対しても、「自分とはちがう」ということを忘れずに接することができるようになる。あなたのことは大体わかる、という思い込みを捨てて、まったくちがうからこそ、まずは話してみよう、聞いてみよう、と思えるようになる。それだけで、実は気づくべきことが、ほかにもたくさん隠れていたということがわかる。

だから、自分とちがう人とじっくり話す時間が、わたしにとっては必要だ。だれかから、そのときの自分にとって一番必要な栄養をもらうには、だれに対してもいつも素直な自分でいることも忘れちゃいけない。そんな関係を、大事にもっていたいなぁ。

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