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あたしには あなたより 大事なものがある【前編】

“初恋”の記憶が薄れてきた。今からもう10年以上前の話であるからして忘れても仕方ないといえばその通りなのかもしれない。実家に戻ってから高校時代と変わらぬルートで自転車を漕いでいた時、そんな感覚をおぼえて動揺したのだった。
どんなに年月が経とうとも、どんなに私たち2人が各々の世界で歳を重ねようとも、“あの人”にずっと片想いをしていた事、人生で一番恋をしていた自分の事、そしてその片想いが大失恋で終わった事をどうしても忘れたくない。だから多少曖昧さを含むとしても今のうちに思い出せるその人との記憶の限りをこのnoteに書き留めておきたい。ここに書き記す事、読み返す事でほんの少しだけでもあの頃の恋する熱量をもう一度感じ取る事ができたならと、一つひとつの記憶を引っ張り出していく。

私は、同じ高校の軽音部で2学年上の先輩の事が大好きだった。何か決定的な出来事があった訳でもなく、気づくともうその人の事しか考えられないほどにそれはもう好きで好きでたまらなかった。
小柄で黒髪で色白で、黒縁眼鏡をかけていて、大抵髪には寝癖がついている童顔の可愛らしい人だった。声は少し独特な感じだったはずだけれど、どんなに頑張って思い出そうとしてもその声はもう蘇ってこない。
愛され系のいじられキャラで、18歳の男子とは思えないほど無邪気に笑う先輩には、男女関係なく癒されていたはずに違いない。
そして先輩は少なからずヘンタイだった。なんというか、意味不明だった。
「ベーシストにはヘンタイが多い」というのは通説であるが、先輩はその象徴のような人だった。私も同じくベース担当だったので、そんな先輩に対して猛烈に片想いしていたあたりやはり私も立派なヘンタイなのだろう。

先輩の事を色々知りたいけれど、当時高1の私が高3の先輩に接触できる機会などそうそうない。おまけに先輩は大学受験を控えている大事な時期で、部活だって6月頭の文化祭をもって引退してしまう。高校に入学したての私が入り込む余地などないに等しかった。
そうした事情もあり「彼女にして下さい!」などと前のめりな発言をいきなりしようとは努々思ってなどおらず、そもそもそんな大それた事を言い出せるほど自分に自信はない。そんなだからこそ先輩を見かける事ができれば、眺める事ができれば、更にいえばすれ違いざまに挨拶を交わせでもすればその日は最高ハッピーラッキーミラクルDAY確定なのであった。当時16歳にも満たなかった私はいうまでもなくゴリゴリの恋する乙女だったという訳である。

毎朝友人と廊下にたむろって、窓から先輩の登校の様子を目に焼きつけてはその日一日の活力をチャージするのが私の登校後の日課であった。寝癖が凄いだけあってHR開始10分前ぐらいになってやっと校門に現れるのがお決まりの先輩は、下手をすれば遅刻ギリギリなのでさぞや遠くから通学しているのかと思いきや、ご自宅は徒歩圏内というのがこの先輩のカワイイポイントなのだ。
夏が来れば先輩は火曜5限が体育でプールなので、5,6限が選択授業の私はグラウンドが窓から見える教室に移動となり、休み時間になると奥向こうにあるプールからグラウンドを通って校舎に戻る先輩を見届ける事ができたおかげで毎週火曜日が来るのが楽しみで、周りは「あの人が例の先輩? 逆にその横の人のが背え高くて格好良いじゃん」といった具合でも、私にとっては先輩こそが“ベストオブ水も滴る良いオトコ”である事に変わりなかった。
ここまで来るとヘンタイどころかストーカーなのだが、これは十代の、もしくは人生最大の片想いの備忘録となるはずなので誰にどう思われようとこの調子で書き連ねていく。ストーカー備忘録はまだまだ続く。

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(数分前まで先輩が座っていた駅のベンチ)

先輩は一緒にバンドを組んでいるドラマーの先輩(以下:ドラム先輩)とよく行動を共にしていた。どうやら2人はクラスが一緒らしい。ドラム先輩は電車に乗るだけでも1時間という遠方から通っていて、同じく電車ユーザーであった私と同じ進行方向で登下校をしていた。そのため、ごく稀に先輩が駅に出没する事があったのだ。ドラム先輩と受験生ならではの相談事や将来についてを語り合い、その流れで大切な友人を駅まで送ったりしていたのだろうか? 妄想が凄まじいが、もはやドラム先輩ごといとおしい。
ちなみに私は部活外で先輩の視界圏内に1分以上居ると爆発する仕様となっていたので、いつも一緒に下校していて事情をよく知る友人たちが先輩たちに挨拶をしている傍ら、私はというと「無理無理無理無理×n」と言って駅の壁に貼りついていたのだった。電車は30分に一本しかないため、必然的に暫くの時間を同じ空間で過ごす事になる。それは最高に嬉しい一方で最高に心がもたないという、まさに“好きすぎて胸が苦しいシチュエーション”そのものだったのだ。

そんな私ではあったものの、だいぶ序盤で他の先輩を介して大好きな先輩のメールアドレスを教えてもらい、週1を目安にちゃっかりメールを送っていた。あくまで部活の先輩後輩関係らしいあっさりとした内容を送るよう心がけていたのだが、それでも毎回ドキドキだった。
それと同時に文化祭シーズンを迎え、軽音部は音楽室をライブハウス仕様にすべくステージの組み立てから照明や音響機器の調整などバンド練習以外にもやる事が多く、近くに先輩が居るのを感じてはどぎまぎしながら一緒に作業をしていた。ただ、そうした甘酸っぱい思い出が増えるほど、先輩の引退が刻一刻と近づいていると思うと複雑な心境だったように思う。
そして文化祭まで残り数日、本番まで追い込みをかけるこのタイミングで私は39度の謎の高熱を出して学校を欠席していた。一瞬でも多く先輩を拝みたいというのに医者はストップをかけてきたので、高熱以外は元気そのものだというのになんだこのヤブ医者めと頭をカッカさせていたせいか、熱はなかなか下がってはくれなかった。
その後まだ平熱ではなかったものの、文化祭当日は母の反対を押し切って行く事にした。父が「高校の文化祭は一生の思い出になる、行ってきなさい」と言ってくれたのだ。好きな先輩が云々だなんて事は恥ずかしくてとてもできるはずがなかったけれども、訳を話さずとも許可を出してくれた父には心から長生きしてくれと思ったものだ。

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先輩はいくつかバンドを掛け持ちをしていて、銀杏BOYZやELLEGARDEN、GLAYだけでなくオリジナルまで様々なジャンルのベースを弾きこなしていた。文化祭直前には白のサンダーバードのベースを新調していたらしい。その6年後、私が黒のサンダーバードをローンで購入したのは、つまりそういう事である。
そして軽音部の本当に最後のステージは体育館で行われる18時からの後夜祭だった。有志によるダンスやサッカー部による即席バンドなどもタイムテーブルに含まれる訳だが、大トリを飾ったのは先輩の本命バンドだった。勿論ドラマーを務めているのはドラム先輩だ。
曲はBUMP OF CHICKENの「K」だった。聖なる夜(night)から騎士(Knight)となった黒猫の物語。演奏技術は抜群だ、何故なら県東部合同発表会においてそれもオリジナル曲で最優秀賞を受賞した猛者たちである。私はその大会で優勝するようなバンドがいるという軽音部に入ってベースを始めたいと思い、この高校に入学した。その後、我々軽音部は3年連続優勝を果たして新聞社に取材を受けるまでの強豪校となる訳だが、その歴史の全ての始まりはこのバンドだったのである。
もうここまで来ると部員である事を忘れてちゃっかりライブを観に来たも同然の4分半を過ごしたのだった。一時はどうなるかと思ったけれども、先輩の引退を無事に観届ける事ができて本当に良かったと大袈裟ながら少しだけ泣いてしまった。「本当に格好良かったです 3年間本当にお疲れさまでした」とメールを送って、先輩たち最後の文化祭は幕を閉じた。

それからの先輩たちはというといよいよ受験生といった感じではあったものの、私たちと全く関わりがなくなったという訳でもなかった。
いつぞや私のバンドのドラムの子がドラム先輩に教えを乞う約束を取りつけ、いつも音出しをしている部室に先輩がついてきた事があった。それはバンド全体の練習時間に呼び出しての事だったため、当たり前のごとく私は恥ずかしさで爆発寸前である。

先輩は特に何をするでもなく、部室がある棟の外をグルグル回っていた。一周回るごとに外側から窓越しに顔を覗かせては我々の様子を伺っている。ドラム先輩がツッコミを入れてくれさえすれば済む話なのだが、このお方はクール系な上に恐らくそんな先輩に慣れていたのだろう、一切気にもせず放任していた。その圧倒的カオスの中、個人的にベースの練習が捗らなかったのは言うまでもない。
そうこうしていると、何かの流れで以下のコンセントを“延長コード”と呼ぶか“タコ足配線”と呼ぶかという非常にしょうもない議論が始まった。

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私は専らタコ足配線派だったのだが、他の人たちは揃いも揃って延長コードだと言って半ば責められる構図となる。そんな中、先輩が窓越しに「おれも、タコ足配線って言うかな」と味方についてくれたのだった。先輩が本当にタコ足配線派でも、内心は延長コード派だったとしても、私は嬉しかった。今後もこれはタコ足配線だと自信を持って言い張ってやると思った。これほどまでに“タコ足配線”に思い入れがある人もなかなか居ないであろう。

そして季節は夏、当時THE STREET FIGHTERSというアマチュア向け音楽番組が深夜に放送されており「Hジェネ祭り」なる18歳以下を対象とした音楽イベントが開催されていた。先輩たちもそれにエントリーしているのだという。
2009年度のHジェネ祭りといえば、あの日食なつこやHOWL BE QUIETの前身バンドであるtista、同じくつづくバンドの前身バンドである遠足日和を輩出し、今思い返してもまさに豊作の年だった。その年に出場していた先輩のバンドはエリア別で暫く1位をキープし、ちょこちょこテレビにも映っていたのだが残念ながら予選を勝ち抜く事はできなかった。その時配信されていた音源は今でも大切に残してある。

なんだかんだで私のバンドは先輩のバンドのメンバーそれぞれに片想いをしていたので、Hジェネ祭りに関しても率先して応援していたのだった。またその年はあのビレッジマンズストアも名古屋代表でファイナル出場を果たしていた「The 3rd Music Revolution」というヤマハ主催の日本最大の音楽コンテストにもエントリーするという事で、道行く人々にチケットの手売りまでしてそのお手伝いしていた訳であるが、先輩たちからすれば「ありがたいけど…、この子たちは一体なぜここまで…。」と引き気味に思っていたに違いない。私たちはただ、一回でも多く先輩たちのライブを観たい、純粋にそれだけの想いで土日返上で追っかけていただけだった。後輩というか側近というか、単なる“ファン”である。

ミューレボの予選でも大トリを飾る先輩たちのバンドは、某楽器店にある会場をキャパ超えしそうな動員数の中で演奏を開始した。先輩の白のサンダーバードのヘッド部分にはなぜかリカちゃん人形(?)がくっついている。他の先輩曰く、そのお人形は先輩のカノジョだとの事だった。私は死んだ。
後方に居たおじさんが「あの子、サンダーバード使ってるよ あれヘッド落ち凄いのによく使ってるな」と話しているのを聞いて私はなぜか誇らしくなった。そうなんです、私が大好きな先輩はそのサンダーバードをも弾きこなすほどのやり手なのです、と。
無事その予選を勝ち進み、たった1枠を賭けた2回戦に挑むも願いは叶わず、先輩たちの夏は終わった。なんとなく、私は初戦の日に先輩たちを会場に残しての帰り際、歩道橋から見えた打ち上げ花火を思い出していた。

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8月下旬、本当に高校生活最後となる先輩たちのライブがあったのだが、その時の先輩も頭がトチ狂っていた。先輩がベースボーカルの即席バンドで登場し、先輩は体操着に大きく名前が書かれたゼッケンを貼って黒いランドセルを背負った姿で現れるやいなや、“アリを殺して保育園の先生に怒られた”みたいな曲を演奏していた。先輩の初恋はその保育園の先生だったらしい。私はまたも死んだ。
そしていつも通りの先輩に戻って、いや、もうどちらが本当の姿なのか判らなくなってきたけれども、とにかく見慣れた先輩の姿で本命バンドのメンバーとして演奏しているのを観て定番曲も新曲も本当に格好良いとしんみりと思いつつ、その歌詞やバンドサウンドを胸に刻みつけて先輩のバンドを観納めた。
スマホが普及した今なら動画でも撮っていたところだろうが、ガラケーしかなかった当時に携帯で動画を撮っていたら容量は簡単にパンパンになる。それゆえに、今居るその空間全ての光景を“心のメモリーカード”に大切に仕舞っておく事を選んだのであった。

そしてライブ後、なんと先輩が周りの目を盗んで私の方へと駆けてきた。まともに面と向かって会話をした事がこれまでなかったために、たじろんだ事は確かに憶えている。ただ、先輩がこの場面で私に対して何を伝えてくれたのかを、私はもう忘れてしまった。
心のメモリカードなんてバックアップも取れなければ経年劣化でぼろぼろとデータがこぼれ落ちていく。なんでもない事をよく憶えているくせに肝心な事は憶えていないというやるせなさ。だけれども、ややうつむき気味に先輩が私に話しかけてくれた時の、照れ臭そうなその表情だけは今でもちゃんと憶えている。

心配なのは
あなたのこと忘れそうなこと
不安なのは
こんな日々にも慣れそうなこと  ──「C7」GO!GO!7188

季節は巡り、冬になった。私の高校は冬になると雪がもの凄く積もる。マフラーを巻いた先輩は色白の顔をほんのり赤くして白い息を吐きながら手をこすりこすり登校していた。
センター試験が近づいていた。それが終われば3年生はめっきり学校に来なくなる。グレーのリュックに背負わされたかのような小柄な先輩をこうやって朝から眺める事ができるのももう残り少ないという事実が、一日一日と私の胸を締めつけていった。
その頃、私は受験勉強を邪魔したくない一心で先輩へのメールを一切控えていたのだけれども、唐突にも携帯の水色ランプがゆっくりと点灯し、“メールを受信しました”と表示される事が多々あった。このランプの色は先輩からの連絡である“しるし”なのだった。
先輩からたったひと言「おやすみ」とだけメールが来て、必死で考えた一文を添えておやすみなさいですと返信をした。先輩の気分次第でそんなメールが来る度にGO!GO!7188の「こいのうた」の着うたが流れるのだった。ちなみに“GO!GO!7188のこいのうたを好きな人の着信音にすると連絡が来る”というジンクスは有名だったと思うが、私も先輩も偶然たまたまGO!GO!が好きで、そういうジンクスもあるのね~…、というノリで着信音をこいのうたに設定していたまでだ。そうと言ったら絶対そうなのだ。全く恥ずかしい。
とにもかくにも、受験戦争中にも私の事を気にかけてくれた事がとても嬉しかった。勿論先輩からのメールは別フォルダで受信して一つひとつ鍵をかけるだけでなくSDカードにコピーまで取っていた。12月25日0時ちょうどに「メリークリスマス!」とメールをくれた事は、未だに私史上最高のクリスマスの記憶である。

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年明けには友人と一緒に先輩の受験合格祈願で大きめの神社へ行き、お祈りをして御守りを購入したのだった。その子も他の軽音部の先輩になんと中学時代から憧れていたとの事で、とにかくバンドマンはモテると実感するばかりである。
学校が始まると、丁寧に一筆メッセージを書き留めた紙を御守りと共に忍ばせて先輩の下駄箱に置いておいた。この時ばかりは何かあるのが丸見えではあるものの、蓋なしの下駄箱というのは実に有能で、少し覗けば下駄箱に靴があるかないか次第で先輩の登校状況を確かめる事ができる。相変わらずのストーカー気質である。

ちなみにドラム先輩はうちの高校からは珍しく音大を受験するらしく、放課後になると音楽室でひたすらスネアを叩き続けていた。私の教室は音楽室の真向かいにあり、時折先輩も帰りがけに音楽室に立ち寄る事があったため、バンドの皆でその様子をただただ眺めていたのであった。
結果、ドラム先輩は有名音大に進学し、肝心な先輩はというと文系の学部に合格して春から東京へ行くとの事だった。合格発表後、すぐに私に報告をくれた事も、先輩が無事大学生になる事も、心から嬉しかったのだけれど、ただ一つ、私はその日から東京が大嫌いになったのだった。先輩を私から奪い取った街、それが東京。──この日を境に私は天気予報で東京の文字が映る事さえ受けつけなくなる。

そして卒業式まであっという間に日々は過ぎていった。第2ボタンをもらうかもらわないかで葛藤したものの、私は何を告げるでもなく、卒業に華を咲かせている卒業生たちの楽しげで寂しげな様子を垣間見ながら学校を後にしたのであった。きっと先輩も卒業を惜しんでバンド仲間やクラスメイト、先生たちと最後になるかもわからない会話ややり取りを噛み締めている事だろうと遠慮したまでである。
こうして先輩と私の間には物理的距離が生じ、近づきつつあった心理的距離も次第に開いていっていつか何もなかった事になってしまうと思うと悲しくてならなかった。きらびやかな東京の街と都会の女性に先輩は釘付けとなって、きっと私は忘れ去られてしまう。それはもう時間の問題だった。
そんな切なさの中で、先輩が1男に私が高2になってからの話はここで一旦区切りを挟んで次のnoteに書き留めていきたいと思う。
生まれて初めてのおデートに失敗した事、電話で人生初の告白を試みた事、数年後にガチモンの変態のおかげでまた繋がりを持つようになった事etc.── つづく。

「なあ、今日パンツ何色穿いてんのん?」

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