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棺桶に入った

2021年6月18日、西府。

ゼミの後輩が棺を譲り受けたらしく、棺桶に入った。正確には、棺桶の中で横たわっていた。

死にたかった。
なんなら毎日死にたいとは思ってる。
縮小アカウントで希死念慮ツイートをしたらお誘いが来た。

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「死ぬ服で来てください」と棺の主である後輩に言われ、もう1人の後輩が「ああ白装束とか」と言われた時に、白い服がないことに困った。
元々、黒いワンピースを私は制服のように着ている。丸襟、ハイネック、セーラー襟、リボンとか、色々違うけれど総じて真っ黒のワンピースを好んで着ている。
自分では「喪服」と称して毎日着ていた。
なぜ死装束は白なのか。当たり前のことに疑問を持ってしまった。白い死装束は私らしくない。

もう1人の後輩が先に棺桶に入ったあとだった。彼が遺書をのこしている最中にお経をYoutubeで再生してかけていたので、私はクルアーンをアプリで流した。

4畳半の畳張りの部屋に正座して、文字を並べていく。遺書を書くのは初めてのことではなかったので、書くことはそれほど困らなかった。書くこともそれほどなかった。後追いしないでねということ、持っている本は友人で分けてくれということ、残った財産で墓の周りに赤と白のバラの木を植えてくれということ、葬式は私のためと家族のために2回してくれ、ということくらいしかこの世に残したい我儘はなかった。遺書や遺言状は亡くなった人の最後の我儘だと思う。
書いている最中、閉められた障子の外で話し声や、ご飯を作る音、足音、パソコンや携帯の通知音、色々な生活音に溢れていた。死は突然やってくる。

書き終わり、捺印した遺書を後輩に託し、棺に入った。げらげらと笑いながら入った。たぶん私は死んでも自分の遺体が棺に入れられていくのを見て笑ってるタイプだと思った。

蓋が閉められ、扉が閉められる。
暗闇に包まれる。
棺の中は意外とふかふかしていて、底の板を感じこそはするものの、寝心地は悪いものではなかった。布団も枕もつるつると触り心地がよかった。

棺の中は心地よかった。

棺の中で考えたこと。

母胎を思い出した。
知らないはずの母の胎内。
本来であれば知らないはずの棺桶の中。
肩はぶつかりこそしないものの、寝返りはできない棺桶の中は少し窮屈で、それがより一層母胎を思い出させたのだと思う。

死が日常の最果てにあるものだということ。
元から希死念慮が強い方だから、自分が死ぬ実感が湧かないとかは全くない。むしろ世間一般の人に比べれば、死について考えている時間は長いと思う。死に方、死ぬ場所、葬式の宗派。棺に入れる花は深い赤の薔薇1色がいいとか、遺品はあまり棺桶の中に入れて欲しくないとか、出棺する時は梅花進行曲(台灣の愛国歌)を大音量でかけてほしいとか、遺影は他撮りの写真やメイク薄い時の写真はやめて欲しいとか、祭壇に「泣いたらぶっ殺す」って自署を飾っておきたいとか、火葬する前に棺桶に入った私と参列者の集合写真タイム(3枚目は変顔)とっておきたいとか、終活について葬儀屋のサイトを見て具体的に考える21歳はあまりいないと思う。
死は非日常的なものに扱われがちなのかもしれないけれど、極めて日常の一部だ。

死ぬのは無に帰すことではないと感じた。
むしろ純度の高い「私」という存在になっていくと感じた。空中に分散していた「私」が集まりだして、しっかりとした実態を伴う。
つなぎ目のない一片の自分にだんだんとなっていく。
この感覚は礼拝する時と非常に近しいものがあった。

自分の生の確実性を感じた。
棺の中でこのまま死にたいと思った。
棺に入ったらそのまま心不全で死んでしまったとか、あとあと笑いものにできるような死に方がいい。
病気でチューブつながれまくって、意識朦朧とした状態を何ヶ月も晒すなんて耐えられないし、晩年の数カ月にそんなイメージを家族や友人に持ってほしくない。ピンピンコロリが良い。
このまま死にたいと思っても死ねなかった。

生きてると死ぬことばかり考えるのに、死に臨むと生きることばかり考えてしまうのは、まだ考えられる、生きていることの証拠で皮肉だなと思う。

棺の中は生きてる人間が入ると暑くなるので、5分で開けられた。眩しかった。
開けられた瞬間に、死ねなかった、と落胆した。

その時、ああ私は諦めながら生きているのか、と気づきながら生き還った。

***

<棺桶写真館>

7/3(土)、7/4(日)の2日間 10:00-21:00
渋谷から徒歩5分のイベントスペースで入棺体験できます。

生きている間に棺に入ると長生きしてしまうらしいです。

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