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(前編)会社に入れば「障害者」から「普通」になれると思っていた


私は未熟児で産まれた。
3ヶ月の早産。
2歳近くになっても歩かないことで身体障害者だと認定を受け、今はなんとか自立歩行で生活している。
母子手帳の「気になること」の欄には母の「歩かない」の文字があった。

小中の時にからかいの対象になり、中学校では歩く姿を真似されることもあった。

しかし当時の私は
「集団の中では必ずいじめの対象になる人間が存在する。
不自由な脚を持っている自分が標的にされるのは仕方ない」

と考えることで自己防衛していた。


共通の趣味をもつ友人が途中まで一緒のクラスでいたことで、私の中学校生活はなんとか終わり、その後の学校生活はなんとか順調だった。
日常の場面で障害があることを自覚するのは稀だった。
移動もできるし、サークル長もバイトもできる。大学の階段もバスにものれるし、友人と旅行もできる。

大きな変化があったのは、
大学卒業後、新卒で事務の仕事を始めてからだ。

いわゆる「障害者枠」で入社。
いっぱしの大企業、バリバリ体育会系の気風の会社のなかで、
「私たちは障害者だからといって区別しません」という採用担当の言葉にむしろ私は喜んで感謝を伝えた。

社会に出て、
自分で人並みのお金を稼いで、
私はやっと「普通」になれる


と思っていたのだ。
変に気を使われることなく、バリバリのキャリアウーマンを目指せる。
契約社員での入社だが、成果を出せば正社員にもなれる。

リハビリには土曜日を利用し、遠方への移動勤務を避けることのみを配慮として伝えた。

結局、この会社には約三年勤めたが、わかったことは


・自分が一番「障害者」に対して同族嫌悪の感情を持っていた。
・身体の不健康は心と思考も不健康にする。
・自分の障害やできることについて理解していなかった。
・自分の「普通」は他人の普通ではない。


という当たり前のことだった。

当たり前のことを理解するために、サービス残業をし、不安障害の診断を受けながら仕事し、脚の歩行改善手術も受けた。
(この期間のなかで義理の叔父からの借金攻撃もあった)


結局会社は「やめます」と泣きながら上司に伝え逃げるように退職。
このときの私は結局「普通」になれるどころか抗不安薬を服用している、「+二次障害の障害者」になっただけだった。

後半に続きます。

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