水野しず
水野しずの考えを最も率直に届けるコーナー。 毎週金曜日の夜に配信予定ですがわりと前後します。
人間関係の基本=つかれさせない 「つかれさす」フィールドを回避する“毒の沼地”の歩きかた の合わせ読みができるセットです
孤独死がテーマの話になると、 「自分の体が誰にも発見されずに腐乱死体になるのはいやだ」 という論点に大体なる。でも、私は昔から自分の体が腐乱死体になった場面を想像して心を落ち着かせるということをやっていたので、嫌どころかむしろ落ち着く。これは非常識な意見だし、側から見たら厨二病のような痛々しさがある発想と思われるので、口に出しては言わない。こうなっているときの自分は、腐乱という事態そのものに直面して落ち着いているというよりは、ジワジワ積み重ねた慣習によって形成された精神の
ガンジーやマザー・テレサについて書かれた本を読んだりすると、ある部分ですごく無神経な人が、その性質によって別の側面では聖者としての功を奏しまくっているようにも思えてくる。例えば「死を待つ人の家」とか、ある部分でかなり無神経な人じゃないと絶対に思い付かない名前じゃないだろうか。 この無神経さが、私はなんだか嫌いになれない。なんで嫌いになれないのか長年把握できていなかったんだけど、最近似た感触のものをネット上で見てすこしわかった。それは、先日SNS上で話題になっていた という
バカにしているもの バス停 人間という生きもののはかなさ、むなしさを最大限くだらない形で突きつけられる無念の場がこれである。バス停に向かうとき、遠くから先にバスを待って立ちぼうけている人がいるのを確認すると、安堵をするとともにあらためて「バスを待つ」という行為における、人間側の痛ましいまでの立場の弱さを痛感させられる。屈辱の域である。今までバス停に立っていて、向かってくるバスが停車をしなかったことは一度もなかったが、それでも全てはバス側の胸先三寸で決定づけられるという事実
友人と電話で話しているときに、 「水野さんのドライヤーは大丈夫ですか?」 と聞かれた。最初はなんの話かわからなかった。 詳しく尋ねると、どうやら巷では、私が使っていたものと同じ型番のドライヤーが爆発する事件が頻発しているらしい。頻発しすぎて大ごとになり、今、ニュースでも報道されているらしい。私は 「そのドライヤーだったら、もう爆発した」 と答えた。爆発は、二度した。 最初の爆発は、髪を乾かしている最中に、ドライヤー内部の機構が爆ぜる形で生じた。ポップコーンが弾けたよ
老舗の人気おにぎり屋さんに行列ができているのを見た。 ざっと見て、50人くらいは並んでいたのではないか。飲食店の行列としては最大規模というか、ディズニーランドのマイナー施設くらいのことになっている。 奇妙だった。 いったい、なにが。 そこには通常の飲食店の行列、たとえばラーメン屋に並んでいる人々に顕著な「殺気」のようなものがまるで現れていなかったのだ。 行列なんだから、できればもっと殺伐としてほしい。シックななまはげなんか誰も喜ばない。ナポリタンを食べるなら多少の胃もた
文末付録:Mizunopedia ・「ゆめかわいい」とは、なんだったのか 最近「ゆめかわいい」って一体なんだったんだろうなということを考えていました。これは2010年代の流行語でドリーミーな意匠を持つファッションやイラスト、インテリアなど幅広く使われた表現です。 なぜ気になったのかというと、先週の記事で「夢見」をしている人々について考えたからです。 この中で「夢見心地の中で行われる犯罪」について書いているのですが、夢がシームレスに犯罪へと接続する後ろ暗い質感が「ゆめか
・「夢見」する人々 中学生のとき、私は2ちゃんねる(現5ちゃんねる)の「その日暮らし板」や「アウトロー板」あたりをしばしば観覧していた。中学に入ったあたりからジワジワ自分は将来的にホームレス(もしくは一生入院している人)になるかもしれない、という気がしてきたので先手を打って事前情報を集めていたのだ。(※) 住居、仕事、社会との繋がりの三要素を喪失した本格その日暮らし民はインターネットを観覧する余裕がないので、そんな場所にはいないと言われている。だから、2ちゃんねるのその日暮
・態度としての「バカ」と「かしこ」 今さら気がついたんだけど、かしこい人は余計なことを言わない。なにか思うところがあっても「私は今思うところがあります」といった、すごい満面の顔もしない。そんなことはわざわざ気がつくようなことではないのかもしれないが、突然気がついてしまった。途端に高い位置から自分を見下ろしているような気分になって、(自分自身の)盲目的ながんばりの具合に、モツが風に晒されているような感じがした。知らない手が私の内部に触れている。どんなときでも思ったことは手を
・「炎上するかどうか」という基準 最近頂いたメッセージで と心配している方がいて、これはなんだか変な悩みだなと感じました。 私としては、わざわざそんなことでショックを受ける必要はないので気にしなくて大丈夫なんじゃないかと思います。なぜならば、人類というのは炎上しそうなことを考えている方がフツーだからです。 というより、人類の多くが(それがいいかどうかは別にして)フツーに考えるようなことだからこそ炎上する可能性があると言った方が現状に即しているでしょうか。 冷静になっ
いや心も崩壊し続けているんだよ。 原子核が崩壊し続けているんだよ。 カンブリア爆発の後に生物が海から陸へ上がる。 そのときの、いやに親密な磯臭さが鼻腔の奥に今も張り付いているのがわかりますか。 そういったものが崩壊し続けているんですよ。 これは宇宙全体がそうですよ。 一階の次は八階でそのあとは全部の天井がすぐに迫り来る臨界にあるんだよ。 そうなったら次はどうしていくんですか。 深淵を削り出していくんだよ。 無量大数の命が剃り落とされた果てにそういったものが浮かび上がってく
・ショックを受けている人の様子は、けっこう馬鹿馬鹿しく見える 最近つくづく思ったのですが、個人的な事情でショックを受けている渦中の人というのは、側から見たらけっこう馬鹿馬鹿しく見えます。なんでかというと「ショックを受ける」という事態が発生している時点で側から見た場合に起こすべき行動は一つ(気を取り直して今できることをやるしかない)、本人はショックが治るまでどうしたって一定期間ジタバタもがくしかないからです。 人間がショックを受けると同時に巨大なトラバサミが空中に出現し
中三のときの国語の先生はよく泣いた。 それは目の端に昔の事情を滲ませて、図らずも情緒が裂けてしまったことを「今ちょっと、ホントにすいません」となりながら、それでも今ここで泣く姿勢を崩さない感情と政治のバランサーが機能している大人の泣き方ではなくて、本当は頸動脈の裂傷から血がびゃあびゃあ吹き出した方がいいんだけどそうもいかないから代わりに泣いてるっていう感じの「泣き」だった。それは過激なのに妥協すら含んでいるもの凄い泣きだった。 なんでそんなことが授業中に起きているの
・突然のスプラッシュマウンテン 原因はわからないのですが、最近とつぜん現実認識のどこかにナイフで切断面が入ったように、幼少期から今までの人生で起きた艱難辛苦場面の情緒の生絞り果汁がおびただしい物量でもってスプラッシュマウンテンのように猛烈に噴出してくるということが起こりました。普段はあんまりこういうことは起こらないのですが、くだりのジェットコースターに乗り続けているような死への隣接感覚が生じて、そのせいで日ごろ自然にやっていることの9割くらいが実現困難になってしまいました
・「伝える力」に対する過剰な期待 「伝える力」みたいなものがここ10年くらい流行しているように感じます。理由は単純に個人がネット上で発信をする機会が増えたからだと思うのですが、 といった、いわゆる「伝える力問題」について、私は違和を感じ続けていました。なぜならば、その根底に 「十分な伝達能力(就職活動におけるコミュニケーション能力のような、社会的に評価される定量的技術力)さえあれば、心に沈殿したモヤモヤしたなんだかわけのわからないものは伝わるだろう」 という発想があ
子供のころ、私は七夕の短冊に「できれば透明人間になりたい」と書いた。七夕というと聞こえはいいが、一億総お願い乞食である。そんなものを誰かが見ているとも思えなかったが、万が一叶ってしまう可能性もある。だから念のためマジの願望を書いた。当時の私は言われたことをなんでも間に受けて笑い物にされたので、透明人間になりたいと常々思っていた。側から見たらかなり牧歌的な悩みでしかないが、つくづくそう思っていた。雨の翌日は水たまりに浮く重油の動きに感情移入した。重油はトラックからこぼれるのだろ